*Sample
ノスタルジアの消失


 遠い昔、店の外からでも賑わっているのが分かるほど騒がしかった第二の家は、今は外からでは人の気配などまるでしない空き家のようなものになってしまっていた。いや、空き家に見えるようになってしまっていた。
「つー君、ただいま!」
 店の引き戸を開けて、目の前のカウンターの席に座っていた綴に声をかけると、綴は嬉しそうに凛の元へ駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、お姉ちゃん」
「今、誰がここにいるの?」
「パパと、うーちゃん!」
「……そう。吟さん、謡、ただいま」
「二人ともおかえり、って言ってるよ」
 まるで通訳のように見えない彼らの行動を逐一知らせてくれる綴にありがとう、と一つ礼を言うと、綴は嬉しそうにはにかんだ。

***

 彼らの姿が見えなくなったのは、凛が二十歳、所謂大人の仲間入りを果たした日のことだった。
どうしても紅葉村から出ることも大学進学も諦められなかった結果、電車で二時間という長距離通学をしていた凛は、その日も同じように全員が寝静まっている、太陽すら姿を見せない早朝から猫のように物音を立てずに家を抜け出して学校へ向かった。一年と少し、そんな生活をしていれば朝家族の顔を見ずに学校へ行くことなど慣れきってしまっている。
 異変が起きたのに気付いたのは、くたくたになって紅葉村に帰ってきたときのことだった。いつもならばそこかしこから様々な音が聞こえ、いっそ騒がしいとすら思う村の中で、凛だけに聞こえる声が、音が、まるで最初からなかったかのように静まり返っていたのだ。夜だからと言うわけではない。むしろ彼らは夜の方が活発になり、凛にまとわりつくことが多いほどだ。最初こそ駅の前で唸って原因を考えたが、もともと考え事が苦手な凛は結局すぐに諦めて、家路を急ぐため自転車にまたがった。いつも凛の自転車の傍に引っ付いて家路の妨害をする彼らも、その日は一切姿を見せなかった。

 既に明かりがついているぽんぽこりんの引き戸を開けると、乾いた破裂音がひとつ、自分の前で響いた。
「お姉ちゃん、おたんじょうびおめでとう!」
 驚いて声がした方を見降ろすと、綴が嬉しそうに鳴らし終わったクラッカーを持ってにこにこと笑っていた。慌てて辺りを見渡すと、部屋には豪華な装飾がしてあり、机の上にはたくさんのごちそうが並んでいる。今日が自分の誕生日ということは学校の友人に祝われて気付いていたし、なんだかんだと毎年豪華に祝ってくれる家族のことだからきっと今年もすごいのだろうと少し期待しながら帰った、ということは伝えたところで興ざめしてしまうだけので素直に驚いておく。特に謡とか謡とか謡とか……要するにサプライズを隠せないタイプの狛犬の兄の方が数日前から肉の気配にそわついていたことは言うまでもない。
「ありがとうつー君!」
「えへへ、僕もお手伝いがんばったんだよ」
 しゃがんで綴の頭を撫でると、綴は胸を張って誇らしげに笑った。えらいえらい、と言いながらふと気になり辺りを見渡す。まだ何かサプライズがある気がしたのだ。
 何故かといわれれば理由は一つ。まだこの家の住人が一切、揃っていない。
「ねえつー君、吟さんに謡や詠はどこにいるの?」
「……え?」
 さすがに分かりかねて綴にそう聞くと、綴は嬉しそうな顔を一瞬で驚いた顔に変え、少しして意味が分からないという風にこてんと首を傾げた。
「え、だから吟さんや、」
「パパもうーちゃんもよーちゃんも、ここにいるよ?」
「……え?」
 今度は凛が首を傾げる番だった。

「……なるほど、のう」
 少しして慌てて駆けつけた神様が、凛を一目見るなり驚いたように一歩後ずさった。何か分かったのかと矢継ぎ早に凛と綴が事情を説明し答えを乞うと、最終的に神様らしからぬ何かを悟ったような悲しそうな顔を見せた。
「かみちゃん、お姉ちゃん、治るの?」
 綴が心配そうに神様にすがり寄る。しかし神様は悲しそうな表情を崩さなかった。
「綴や、残念ながらこれは治る治らんの問題ではないんじゃよ」
 そう言った後、神様が突然誰もいない虚空に向かってええいうるさい、と一喝した。そうなってしまえばいい加減凛にも状況が分かってしまう。そこに、いるのだ。
 凛の目に見えなくなってしまった彼らが。
「……神様、私」
「あやかしは子供にだけ見える、という話を大人はよくするがの、実際その通りなんじゃよ」
 二十歳を迎え、大人になった凛の霊力が人並みに落ちてしまった。
 小難しい話をしても今の凛には理解できないことを察したのか、神様はかいつまんで説明した。それでも十分意味が分からなかったけれど、理解するより先に現実を突きつけられたのだ。最悪の状況だということだけを凛の頭は呑みこんだ。
「……でも、伊吹くんも真夏さんも、村の人には普通に見えてるのに、どうして私だけ」
「紅葉村は村全てが半分神域に浸かっているようなものなのじゃ。そこで生まれてから今まで生活している者にはそれなりの霊力が備わる。そのレベルに合わせて人の姿になり、人に認識されるようになっているのがこやつらじゃ」
 そう言って神様が右手で虚空を指す。神様には見えるそれが、凛には見ることができない。もう歯噛みするほど理解できていないわけではなかったが、それでもまだ何かの間違いがあるのではないかと、心のどこかで逃げ道を探していた。
「ここで生まれてないと、意味がないんですか」
「そうとは言っておらんがの。現にこの村には外から来た者もおるがこやつらは見えておる。……しかし、おぬしは今生活の大半を村の外で過ごしておるじゃろう。そんなことでは村の加護は受けられん」
 脳を直接ぶん殴られたような衝撃が襲った。
 中途半端に村の外に踏み出してしまったせいで普通の人に見えるものすら見えなくなってしまったのだ。何も諦められず、中途半端にすべてを追いかけた愚かな自分が作りだした現実なのだ。
「ううむ、困ったことになったのう。おぬしに限っては無いと思っておったが……早急に対処せねばならんじゃろう」
 何かの間違いだと、誰かに言ってほしかった。
 そうしないと、自分自身だけの責任に押し潰されてしまいそうだった。



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