*Sample
Dracaena fragrans cv."Massangeana"


※こちらは第六回文学フリマ大阪で頒布した準備号と同じ内容になります


「では三人目の紹介に移ります」
 仮面を付けたスーツの男が先ほど値が付いた二人目と入れ違いに新たな“商品”を連れてくる。事前情報によると次は十代のまだ幼さを残す青年、らしい。
 先ほどまで女続きだったこともあって男を求める人たちがざわめき始める。かく言う自分もだらしなくもたれかかっていた背中を起こしているので期待している心自体はざわめく人とそう変わりないだろう。
 人身売買。法で守られた権利を平等に与えられているはずの人間を同じ人間が売買しているなど、普通の人間が知れば卒倒してしまうかもしれない。けれどここは、そう言う場所だ。
 人だけではない。密猟された珍獣や、違法な薬物、果てには常人では到底手を伸ばせない権利や一生表に回るべきではない情報がこの裏オークションにかけられることもある。
「残念ながら処女ではございませんが、この年にして様々なプレイを経験しておりますのでSMなどはもちろん、輪姦、陵辱などのハードプレイにも耐えうる体でございます。大人しい性格で余計な事は喋りませんので喚かれて近隣の方に迷惑をかけるようなこともございません」
「次はトリの目玉だし、この辺が狙い所だと思うよ」
 隣に座っている仮面の男が持っていたチョコレートを口に入れながら楽しそうに笑う。自分を裏オークションに紹介してくれた友人だ。
「目玉って何で高いの」
「処女か、良家か、美形かな」
 ひとつふたつ、と指を折りながら中指で止まった友人の手を眺めながら一つ息をつく。人の値段というものは、ずいぶん些細なもので決められるらしい。
 ただ単に奴隷が欲しい者、暴力の捌け口が欲しい者、許可されていない人体実験がしたい者。権利を奪われた人間“だった”いきものを欲しがる理由は様々だが、一番ポピュラーなものは司会者が推した内容の通り、性欲処理目的だろう。
「では最低百万からでお願いします」
 目深に被っていたローブのフードを外された青年がゆっくりと顔を上げる。その瞬間会場の空気が一瞬揺れた。
「(……幼さを残した青年、って言うより)」
 これではほとんど少年寄りではないのか。とは言え、その美しい顔立ちには目を見張るものがあった。
 目鼻立ちがすっきりしている割にまだあどけなさを残す大きな黒目。引き結ばれた唇は少し薄いがそれが更に人形のような美しさを際だたせている。少しだけ覗く首は白く細く、未だローブの内に隠されたままの体をも連想してしまう陶器のような透明感を残した肌の作り。
 なにより、自分好みの顔だった。
「いく?」
「いく」
 気持ちを切り替えるために足を組み直す。ここに来る人間の大半が金銭感覚の狂った富豪たちだが、自分とてそう変わりはない。
 周りの男たちが百二十、百八十、と少しずつ値を上げていく。しかし先ほど隣の男が言った通り処女ではなかったことが原因か、この次のトリに備えてか、二百万で値が止まった。
「二百五十万」
 ハンマーを叩こうとしていたスーツの男が嬉しそうに口の端をつり上げる。仮面の奥に潜んでいるためハッキリとは分からなかったが、その目が自分を捕らえた気がした。
「……に、二百八十万!」
 ざわり、と会場が騒々しくなる。先ほど二百万で少年を落札しかけていた男が身を前のめりにしながら上の値を提示してきたのだ。
「うわ、これしんどいやつだよ」
 隣で何個目か分からないチョコレートを口に放り込みながら友人が楽しそうに笑った。全く楽しい展開でも何でもないのだが、相場以上の値が付くのは彼にとって楽しいことらしい。
「あれ、相場としては」
「二百から……良くても三百はいかないだろうね。顔が良いっていってもたぶん性病持ちだし……その辺理解無い奴は食いつくだろうけど」
 再びスーツの男がこちらに視線を向け、ゆっくりとハンマーを持ち上げる。いいのか、と聞かれているような気がした。良いわけあるか。
「三百万!」
「やーめときなって、ああいうのは限界越えてもついてくるよ」
 友人が言ったとおり、ほんの少し遅れて三百十万と叫ぶ声が響く。
「三百五十万」
「……クソッ、三百六十万!」
「やるなら突き放せ。刻んできてるし、もう向こう首が回ってない」
 安く済むものなら安く済ませたい、とは言っても元々高くつくと思って余分に準備してきていたので金銭的には全く問題ない。
「ま、今日だけじゃないし本命もっと探す手も」
「五百万!」
 ざわめきと共に友人の肘が机から落ちた。

***

 じゃらり、と身動きする度に大仰に音を立てる鎖の端を持ち、死んだような目でこちらを伺う少年に視線を向ける。先ほどまでのローブとは違い、どこにでもありそうな無地のシャツとズボンを着た少年はそれだけで怖じ気付いたように視線を逸らした。
「さっさと行くよ。迷惑かけないでよね」
 スーツの男に少年の詳細情報と注意事項が書かれた書類を受け取り、薄暗い建物の中を出口へとまっすぐに進む。
 友人はトリがどうなるか見てみたい、とあの場に残ったが自分がこれ以上あの場にいる意味もなく、早々に撤退して少年を回収しに行った。
「……久住、廉」
 ぴくりと肩をすくませた廉という名を持つ少年の目を見る。遠目で見たときには分からなかったが、光を取り込んだ瞳はまるで海の底を写したような深い藍色だった。
「これ外すけど、逃げたら許さないから」
 さすがに外で鎖を繋いだままでは出歩けない。首元にあるダイヤルを書類の通りに回すと、小気味良い音を立てて金属製の首輪が中心から開いた。必要なわけではないが返却しに戻るのも面倒だったためそのまま鞄に仕舞い、代わりに用意していたブレスレットを蓮の腕にはめる。
「……?」
「外したら、殺すから」
 青ざめた顔で首を横に振る廉の手を取って店の外にでる。地下から出たことで一般の人間が往来する道が広がっていたが、自分たちを不審そうに見てくるものは誰一人としていなかった。端から見ればただの親子にでも見えるのだろう。
 仕事帰りの疲れた顔をしたサラリーマン、同じような子連れの主婦、学校帰りに寄り道をしたのであろう制服姿なままの高校生、たくさんの人間がごく普通に生きているこの街の隠れた場所で小さな命が金の力で転がされているなどということが知られたらどんなことになるのだろう。
 どこからか母親の怒鳴る声が聞こえる。犬の鳴き声に、焼き魚のような匂い。すれ違う自転車の男は大きなスーパーの袋をかごに入れていた。都心に近い街だが、住宅街に入ると一転して下町のような雰囲気が漂ってくる。
 普通の街だ。普通の街で、普通じゃないことが起きている。けれど、きっとここにいる誰もがそれを知らない。
「アンタはどうしてこんな目にあったのか、話すつもりはある?」
「……、」
 ぼんやりとこちらを見ていた廉は一度はく、と口を開けたものの言葉に迷ったのかそのまま閉じてしまう。とはいえ別にこちらもそこまで深い興味があったわけでもないので、深追いすることはせずに、そのまま家まで一つも言葉を交わすことなく歩いた。
「ここが、俺の家。一人で出歩かせることはないと思うけど、まあ覚えて」
 マンションのオートロックを解除してエントランスを突き進み、エレベーターで自分の部屋がある階まで上がる。少し微妙そうな顔で耳を触り始めた廉に声をかけたが、慌てて首を横に振られたので何も言えなくなってしまった。
 オークションで落札した危ない大人である事は事実なので怯えられても文句は言えないのだが、ここまで断固として会話すら拒否されると、流石に気分が良いわけはない。
「俺の部屋、最上階の角だから間違えようがないと思うけど」
 家の鍵を開けて廉の手を離し、ドアに鍵をかけて部屋に上がる。しかし廉はどうすればいいのか分からない、と言った風に玄関で立ち止まったままこちらを見上げた。
「……入れば?」
「っ、」
 また同じようにはくりと口を開け、けれど何も言わずに慌てて靴を脱ぎこちらまで近寄ってくる。隠し切れていない不安そうな顔は、この先に起こる事を考えてのものだろうか。
「別に俺もヤりたい盛りのガキじゃあるまいし、毎日はしないよ」
「……?」
「アンタは俺が溜まったときに素直に股開いとけばいいの。それ以外は好きにしな」
 いい加減一言も発しない廉に腹が立ってきてしまい、少し乱暴に言葉を言いきってからそのまま晩ご飯を作るべくキッチンに戻った。
 廉はしばらくの間呆然としていたが、何かに気付いたように慌ててこちらへ寄ってきて足下に跪く。レタスを剥きながら何をするのかと眺めていると、小さな白い手がまっすぐにズボンのチャックへと伸び、そのまま手をかけた。
「ちょ、何してんの」
 意味が分からずに慌ててレタスを持ったまま廉から一歩離れる。当の本人は違うのかと言うかのように伸ばした手を引っ込め、何も言わないまま不安そうに眉根を寄せた。
「違う! するときは俺から言うから、アンタはそれまでテレビ見るなり寝るなり、そういう意味で好きにしなって言ったの!」
 料理をしながら下で処理させるなど、どこの漫画の世界の話だ。というかそんな状況で勃つわけがないし、雰囲気もクソもあった話ではない。
「何、アンタこの歳まで何して生きてきたの? ほんとに今の今まで性奴隷?」
 その言葉に廉は落ち込んだように座り込んだまま俯いてしまう。
「ねえ、いい加減何か喋ったらどう?」
「……、」
 持ったままだったレタスを置いてしゃがみ込み、廉の顔をのぞき込んでみたが、それでも廉はいっこうに喋ろうとしなかった。
「喋れない?」
 ふる、と首を横に振る。じゃあ何故、とこちらが首を傾げようとすると、廉はきつく目を閉じて大きく口を開いた。
「……ぁ」
 蚊の鳴くような声が一瞬空気を震わせる。が、それはすぐに聞こえなくなった。声はもうでていないのに廉の口は何かを伝えるように形を変え、しかしそれもすぐに声が出ていないことに気付いた廉が慌てて閉じてしまった。
「もう一回言ってごらん」
「あ……なた、の……なま、え」
 途中で何度も途切れる言葉をその度に言い直し、何とか最後まで繋がったその言葉にやっと自分の自己紹介をしていない事に気が付いた。
「俺は……コウ」
「こ、う」
 コウ、と言う名前は本名ではない。あのオークション会場では名前を変えて仮面を被ることで現実を生きる自分とは異なる自分で生きている。この子供を信用していないわけではないが、あの場で出会った人間ならこちらの名前で十分だ。
「そ、コウ」
「……コウ、さん」
 噛みしめるようにゆっくりと名前を呼び、深々と礼をする。その行動の意味が分からずにどうするべきか悩んだが、壁の時計が八時ちょうどを告げたことでようやく正常な思考が戻ってきた。
「嫌いな食べ物、ある?」
「……な、」
 い、まで聞こえなかったがなから始まれば無いの一択だろう。腋に手を差し込んで軽すぎる体を持ち上げて立たせ、そのままリビングまで押し戻す。
「じゃあ晩ご飯適当に残り物で作るけど、良いよね」
 冷蔵庫に残っていた物を漁り、献立を考える。しかし途中で食い扶持が二人に増えたという事を思い出して、考えていたメニューを取りやめて鍋にすることにした。

***

 人生を、底無し沼だと思ったのはいつの頃だったか。
「五百万!」
 もがいても抜け出せない、あがけばあがくほど沈んでいく。救いの手もなければ、助けを叫ぶこともできない。ひとりぼっちの自分は、だんだんと苦しくなる世界でゆっくりと息が止まるその瞬間を待つしかないのだと。
「あちらが落札されたお客様です。失礼の無いように」
 死に方すら分からない自分は、そうするしかないのだと。
「……、」
 顔の半分を覆っている仮面を外しながらこちらへ寄ってくる男を呆然と眺める。オークションのスタッフから鎖が彼に手渡され、上手く理解できない難解な会話を交わしてスタッフは一礼し、奥へと消えていった。
 手渡された紙を眺めていた男は顔を上げて見下すように少し目を細めて廉を見下ろす。
「…久住、廉」
 ああ、次はこの人か、と。
 ずいぶんと昔に抵抗することも考えることも諦めた脳は大人の前では簡単に従順になってしまう。大人の言うことは聞かなければいけない。現実がどうであれ逆らってはいけない。それは短いものの今まで生きてきた自分が行き着いた最善策だ。
「これ外すけど、逃げたら許さないから」
 そうですよね。逃げたってきっと捕まえるんでしょう。酷い仕置きをして、二度と逃げないように脅すんでしょう。今までだってそうだったんだ。
 あなたは、今まで見てきた人たちと同じ“大人”から。

***

 トーストの焼ける香ばしい匂いで目が覚める。隣の部屋から聞こえるテレビの音と時おり響く生活音にしばらく耳を澄ませていると、不意にドアをノックされた。
「……なんだ、起きてるなら早く来なよね」
 ノックが意味をなしているのかと思うほどあっさりとドアを開けてこちらを確認してきたコウは呆れたように息を吐くとすぐにリビングへ戻っていった。
 コウ、と名乗った男に五百万で買われて一週間ほど経つ。オークションにかけられた時はどんな地獄が待ち受けているのかと思っていたのだが、この男の自分に対する扱いは一風変わっていた。
「お、……は」
「おはよう。食器洗いたいからさっさと食べて」
 少し小さめだがそれでも四人ほどで使えそうなテーブルに対になるように置かれたトーストとサラダ、コウの手元にはコーヒー、反対側にはホットミルクが置かれている。テーブルの中心には包装紙をはいだままのバターと小さなかごが置かれていて、その中にはハチミツや数種類のジャムが入っている。スウェットにTシャツというラフな格好でテレビのニュースを眺めながら真っ黒なコーヒーをすするコウも、すべていつも通り。ここ一週間変化はみられない。
 最初はこの待遇になにか裏があるのではないかと勘ぐっていたが、どうやらこれが彼にとっての日常らしい。変わっているとすれば、対で置かれた廉のための食事だけだろう。
 静かに椅子を引いて座り、すんなり声が出ないかわりに無言で手を合わせてパンを手に取る。まだ焼きたてのそれはほんの少しだけ熱かったが、早く皿を片付けたいと言われているのでのろのろと食べるわけにもいかず火傷覚悟で口をつけた。
「何か付けたら?」
 横目でこちらを見るコウに慌てて首を横に振る。三食まともに差し出してもらえらるだけで十分すぎるほどの施しを受けているというのに、目の前にあるものに勝手に手を出すことなどできない。
「ふうん。……ま、いいけど」
 背もたれに肘をかけて横向きに座っていたコウが突然正面に向き直る。パンの耳を両手の親指と人差し指の先に乗せるように持ち、切れ込みの上に乗せたバターが完全に溶けて染み込んでいるのを確認してからかぶりついた。
 コウは朝食のパンにたっぷりのバターをつける。食卓でよく見る容器に入ったマーガリンではなく少し上質なバター。それを山ほど切り取って無造作にパンの切れ込みの上に落とし、それが溶けるまでコーヒーをすすりながらテレビを見て待つのだ。
 食事が始まると、この間一切会話は無くなる。せわしなくニュースを読み上げるアナウンサーの声と、ニュースの内容によって楽しそうになったり悲しそうになったりと目まぐるしく変わるBGM、そして時折響くお互いのパンをかじる音、コウの少し目立つコーヒーのすすり音、その程度。
 普通の人にとっては、その程度なのだろう。
「(……おいしい)」
 暖かなごはんも、毎回きちんと冷蔵庫から出される色とりどりのジャムたちも、毎朝起きているか確認しにくる声も、食事の相手も朝日もおはようも、
「ご……ごち、そ」
「はいお粗末様、流しに片しといて」
 当然のように取り上げられて生きてきた。そういうものだと思っていた。
「……ち、そ……さま、です」
 コウは、大人なのに廉を性欲処理だけでなく普通の子供として扱ってくれた。今まで自分に触れてきたたくさんの大人にも、血のつながった両親にもしてもらえたことがないのに、この一週間だけで彼は数え切れないほど、たくさんのことをしてくれた。
 もちろん自分の意思関係なしに犯される。そのためにコウは自分を買ったのだから、それは当然のことなのだけれど、それすらもまるで恋人を抱くかのような扱いを受けるのだ。
「? うん」
 いったいこれは、なんなのだろうか。
「……っ、」
 不審そうにコウが眉をひそめる。言いたいことがあるなら言えと言いたいのだろう。焦って何度口を開いても、頭の中を駆け巡る言葉は何一つ口をついて出てきてはくれなかった。
 声はでない。言葉も紡げない。馬鹿な脳が声帯の使い方すら忘れたかのように、この喉からは空気しか漏れない。言葉はたくさん思い付くのに、伝えたいことだって分かっているのに。
 なんて自分は滑稽なのだろうか。
「……廉」
「っ、あ」
 突然立ち上がったコウは大きな手で廉の頭を鷲掴みにし、そのまま前後左右に揺らした。視界と一緒に脳まで揺れて三半規管が狂ったように目の前にいるコウの顔がぶれる。
「ぅ、あぁ」
「無理に喋ろうとしなくてもいいよ、もう期待してないし。……それに、」
 廉はただの性欲処理なんだから。
「(……違う)」
 ただの性欲処理に毎日丁寧なご飯は用意しない。仕事中の空いた時間暇潰しになるようなものを用意していったりしない。わざわざ逃げられる危険性がある外に連れ出しもしないし、毎日着替えてもあまりある上等な服は用意しない。
 本当の“性欲処理”という地獄を自分は見てきた。だからこそ、何度言われようと彼の性欲処理目当てという言葉を信じることが出来ないのだ。
「……コ、さ」
 他人と違う自分が恨めしくて、ゴミのように捨てた親が憎くて、そんな自分を買ったコウも、きっと嫌うべきだった。そうであるべきだった。
 こんなに優しい世界を知らなければ。
「あ、した、バターつけ、て……いい、ですか」
「それは俺の許可を取ることじゃないでしょ」
 面倒、嫌悪、軽蔑。負の感情しか表に出さない彼の根っこに隠れた優しさに気づかなければ。

***

 朝、いつものようにトーストを二枚オーブンに入れ、戸棚から挽いてあるコーヒー豆を取り出す。ペーパーフィルターをコーヒーメーカーにセットして分量通りの豆と水を入れスイッチを押し、その間にテレビをつけて部屋の窓を開けた。
 音もなく部屋から出てきた廉におはようと声をかけるが、聞こえているのかいないのか返事もなくふらふらとテーブルに近づき、椅子に座る手前でひっくり返った。
「廉!?」
 幸いにもテーブルに並べていた食器を巻き込むことはなかったが、椅子ごと倒れ込んだまま動かない廉の元へ駆け寄ると、言葉にも成りきらない呻き声をあげながら少し丸まった。
「廉、寝ぼけてるなら、」
腕を引っ張り廉の体を起こす。その腕の熱さに心臓がひやりとした。
「廉、体調悪いの?」
「……ぅ、」
 力なく首を横に振るが、既に自分の体を支えきれていないこの状態でこの嘘を見抜けない人間などいないだろう。
 ぐったりとしたまま立ち上がろうとしない廉を抱えて部屋に入り、今しがた抜けてきたのであろうベッドに押し込み口元まで布団を引き上げる。
 廉はまだかろうじて薄く目を開けているが、起きているのも辛そうなのは見ただけで分かる。
「……あ、さごは……」
「いいから寝ときな。そんな状態で食べられる訳ないでしょ」
 起きようとする体を布団に押し戻して体温計を探すべく埃を被っているであろう救急箱を取りにリビングへ戻る。コウ自身風邪を引くようなことも滅多になく、頻繁に怪我をするような仕事でもないので、必要最低限を買い揃えたままもう数年開いていない代物だ。唯一稀に使う頭痛薬だけリビングのテーブルに置きっぱなしになっているので、そうなってしまえばもうこんな重たいだけの箱など開くことはない。
 案の定未開封のままで箱に入っていた体温計の包装を破り、電気が付くかどうかだけ確認して廉の部屋に戻る。
 布団を少しだけ捲り、少し緩めのスウェットの襟を引っ張ってほぼ無抵抗な廉の腋に体温計を押し込んで体温計が落ちないように腕を押さえる。
 無機質なアラート音が響くのにそう時間はかからなかった。
「三十八度五分」
もはやぐったりとしたまま目を閉じて動かない廉の髪の毛を指先ですくように撫でると、遊んだあとの子供のように蒸れた汗が指を濡らした。
 夏風邪かとも思ったが、それにしては体温が高すぎる。なにか菌をもらってくるにしても家にいるままの廉が厄介なものを持って帰ってくるとも思えない。思い当たるとすればコウが何か持って帰ったか、廉自身の緊張が緩んだかだ。
「どちらにしろ免疫ないね、アンタ」
 先ほどから汗をかかせようと布団を被せているのに、無意識に唸りながら押し退けてしまう。そのせいで離れようにも離れられない。
 いっそのこと布団を剥いでも大丈夫なように厚着をさせてみるべきか、とも考えたが、そもそもまだ廉の服を季節分まで用意できていないのだ。季節はまだ朝晩が少し冷え込んできただけの秋の入り口で、只でさえ何に関しても不満一つ言わないこの子供に先回りして冬用の防寒対策をしているわけがなかった。
 そんな事を今更悔やんでもどうしようもないが、廉を外に連れ出すきっかけがようやく一つできた。
「いつまでも引きこもってばかりだからこうなるんだよ、この貧弱」
 腕時計を確認しようとして腕に何も付けていないことに気づき、まだ朝ご飯すら済ませていないことを思い出す。この状態で放っておくのはいささか心配だが、生憎昨日が休日だったので状況的には休みにくい。職場に馬鹿正直に子供の看病が、などと言えるはずもないし、自分が風邪を引いたなどと言う嘘の申告をして休日に羽目を外して休み明けに体調を崩す駄目な人間だと思われるのも面倒だ。
「(昼に追加で時間休取って一回帰れば……?)」
 朝と昼に薬を飲ませておけば数時間程度なら落ち着いた状態で過ごせるだろう。何も廉だって何もできない赤子ではないのだ。精神年齢はどう見ても実年齢に追いついていないが。
 兎にも角にも自分のやるべき事も済ませてしまわねば。
「廉、ゼリーなら食べられそう?」
「……、」
 薄く目を開いて一つ頷く。まだ買い置きしていた飲料ゼリーが冷蔵庫の中に残っていたはずだ。それを食べさせれば何も食べずに薬を飲むよりかまだ幾分ましになる。
 先に冷蔵庫から取ってきたゼリーを廉に渡して自分もリビングに戻り食卓に着く。皿に出したままのパンは完全に冷え切っていて、とても今からバターを付けても溶けそうにはなかった。
 諦めてマーマレードを塗りたくり、味わう間もなく一気にかぶりつく。ぬるくなったコーヒーも一気に喉に流し込んだ。少し悩んだが廉の食事はそのまま捨てて皿をまとめて食洗機に放り込んだ。今日はもうまともな食事は無理だろう。
 救急箱の中を漁り、使用期限ぎりぎりアウトの風邪薬を持って再び廉の部屋に戻る。そうではないかと思っていたが案の定ふたを開ける前に力つきていたようで、ゼリーの冷気を利用するかのように頬に当てて寝ていた。
 少しぬるくなったゼリーを取り上げてふたを開けてからもう一度手渡す。そのまま廉のベッドに座りゼリーを飲みきるのを待った。
「薬飲んで、今日一日何もせずに寝ときな」
 個包装になっている薬を二錠出してゼリーの残りと一緒に飲ませ、 マンションの一階にある自販機へ向かうべく一度家を出た。
 水とスポーツドリンクを一本ずつ買って、悩んだ末もう一本ずつ買って部屋に戻る。もう出勤時間まであまり猶予は残されていない。早急にこの子供を寝かしつけなくては。



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