即興小説お題「男のぐりぐり」
傾向(BL)



 一番最初に自分を襲ったのは、動揺だった。
 そこからじわじわとかなしくて、くるしくて、どうしようもなくて、どうしたらいいかわからなくて、その辺りで自分の思考はふつりと糸が切れたように何も考えられなくなった。
「どうして、」
 肺は息の仕方を忘れ、涙腺は混乱に乗じて仕事を放棄し、代わりに汗腺が狂ったように働き始めた。目の前で起きている光景に自分の何もかもが付いてきていない。
「なんで……?」
 血の気のない真っ白な腕に指先だけでそっと触れる。転がる体は、息をしていなかった。
 大事な人だ。目の前で何も言わずに一人で勝手に死んでいるこの男は、紛れもなく自分にとって一等大事な人で、深く暗い闇の底から自分を救い出してくれた神様で、
「――……?」
 否、これは誰だ?
「――、――っ!!」
 名前が思い出せない。ざらざらと砂山が崩れていくように思い出す端から記憶が端すら掴めない曖昧なものになっていく。恐怖で体は震えるのに、汗は止まらずに溢れ出す。お前はお呼びじゃないからせめて涙を流させてくれ。
「ひとりに、しないで……っ!」


***


 もちろん汗をかいていた。息も乱れていたと思う。金縛りにあったのかと思うほど筋肉は緊張したままで、ついでに涙腺も仕事をしていた。
「……くに、え」
 自分の上で意味もなさないほどしわくちゃになっていた掛け布団を弾き飛ばし、転がるように布団から飛び出す。その勢いのままわずかに開いていた部屋のドアを両手で押し込んだ。
 反動で壁にぶち当たったドアが言葉では表現しにくいほどの鈍い音を立て、狭いアパート全体に響き渡らせる。さすがに寝ていた彼にもその音は届いたようで、驚いたように布団を抱きしめて天井を眺めていた。
「くにえ、」
「お、あ?……今の、お前か?」
 勢いのままに布団になだれ込み、不摂生ばかりで頼りない体を抱きしめる。
「くにえ、邦枝、邦枝っ」
 必死になって頭を押し付け、心臓の音を聴く。降る雨に怯えていたころ、生きているか心配になったらそうしろと、遙か昔に教わった通りに。
「……雨じゃないけど、どうした?」
 飛び起きた所為かいつもよりも早い鼓動に、それでも安心して体の力が抜けた。もちろん冷えてなどいない暖かい体に触れているだけで自分の体すら温めてくれるような気がして、回した腕にさらに力を籠めた。
「勝手に、僕の事、置いて行かないで」
 何かを察してくれたのか、両手でかき回すように頭を撫でられる。夢の中でみたぴくりとも動かない腕とは違う、血の通った少し日焼けをした腕。
「……変な夢でも見たか。お前は昔っから変わんねえなあ」
 そのままゆるりと抱きしめられる。切羽詰まった自分の遠慮のない抱き方とは違う、子供をあやすような力加減でその腕は自分を縛り付けた。
「うるさい」
「あーはいはい」
 もう誰も失いたくないのに、もう何も奪われたくないのに。いつまで経っても消えない両親の死が、目の前で息を引き取ったその光景が、何も出来なかった無力な自分が、その漠然とした不安が何度も夢の中で邦枝を殺す。
 まるで大切なものなど無くなってしまえば今度こそ消える恐怖に怯えなくて済むだろう、とでも言いたげに。
「(……違う)」
 今度こそ守れるようにならなければいけない。放っておけば卑屈を貫いて自分で首を絞めて死んでしまいそうな彼から目を離さぬように、どうあがいても嫌われるしかなかった自分達二人だけの、何者にも干渉されない世界で、二人っきり。
「……だったら、良かったのに」
「ん? 何がだ」
 もうこれ以上傷つきたくないのに傷ついてほしくないのにそれなのにねえ、どうして
「今日、帰るんでしょ」
「そりゃ法事はな……お前は無理しなくていいぞ。まだ顔合わせづらいだろ」
 この腐った世界は、執拗に彼ばかり傷つけてくれるのだろうか。

「(邦枝を傷つける世界なら、僕は要らないよ)」
 それでも二人で死のうとは、口が裂けても言えないのだ。