前回

※過度な虐待表現があります。ご注意ください。



 好きな季節はあまりないが、消去法でいくなら夏かもしれない。その間逆の季節である冬から、一番離れているから。
「いい加減にしろ!」
 がちゃん、という耳障りな皿の割れる音が響くのと、大嫌いな怒声が響くのはほぼ同時だった。みんな、その声を聞いただけで怯えたように動きを止めるのは、いつものことだ。
 少し遅れて、蛙が潰れたような声が耳に届く。きしむ首を回してそれを視界に入れた時には、蹴られたのか投げられたのか、壁際で苦しそうにうずくまる血の繋がっていない兄弟の姿だった。
 今日は三十二番が、粗相をしたらしい。
「お前等はいつもいつも、言われたことすら出来やしない!」
「ごめんなさ、ごめんなさいっ」
 壊れたテープのように謝罪の言葉だけを繰り返す三十二番の腕を掴み、突き飛ばして、見せしめのように逃げ場のない彼に容赦なく暴力を振るう。
 知らず知らずのうちに残りの者は、その現場から少しずつ離れて一番遠いところで身を寄せ合って、それでも目を背けることも出来ずに、震えながら一刻も早くこの地獄のような時間が過ぎることを願うことしかできなかった。
 息も絶え絶えな三十二番をつま先で転がし、何度も舌打ちをする。きっと夏なら、ここで終わった。
 ふと視線を動かし、何かを見つけたように暖炉の側に寄り、黒くて長い鉄の塊を火の中から引き抜く。その瞬間、三十二番の表情が固まった。
「皿もきちんと持てない悪い子は仕置きが必要だよな?」
「あ、いやだ、それだけは」
 逃れられないと分かっているのに、それでも必死に逃げようとする三十二番を足で踏みつけて動きを封じ、残った片手で服を引っ張って肌を出す。
「いいか! お前等も何かしでかしたらこうしてやるからな!」
 突然振り向いてこちらに怒声を浴びせ、当てる場所の見当が付いたのか、ついにその時が来た。
 軽く振りかざした黒い棒は、一直線に彼の体に振り下ろされた。瞬間、この世のものとは思えないような悲鳴が上がる。硬直した手で耳もふさげないままそれを聞きながら、必死になって目だけ逸らした。次は自分たちがああなるかもしれないと思うと、とても恐ろしくて、何も出来なかった。
 もう二カ所もある目の前の行為でつけられた自分の傷が、数年前のものなのにじくりと痛んだ気がした。

 あれの名前が火かき棒だと知ったのは、いつのことだっただろうか。



「何をしている」
「暖炉の火の入りが悪い気がして。久々に使うからかな」
 がさがさと火かき棒で暖炉の中をかき回して空気を入れようと試みるも、中の火はくすぶるばかりで熱量を上げようとはしなかった。元が不器用なせいか、こういうことは大抵うまくいかない。
 諦めて棒を引き抜き腰を上げると、ほぼ同じタイミングで部屋に入ってきた雪と目があった。
「お、ユキくん」
「……あ、」
 こちらを見るなり顔を真っ青にして固まった雪は、手に持っていた数枚の皿をするりと落っことした。
 がちゃん、と耳障りな音を立てて皿が砕ける。最初こそそれを呆然と眺めていたが、その瞳がもう一度こちらを捉えた瞬間、酷く怯えたような顔で一歩後ずさった。
「ユキくん大丈夫? 怪我してない?」
 今までも何か失敗をする度に酷く怯えて許しを乞う姿を見ていたので、今回も同じ類の物かと思ったのだが、今までとは明らかに様子が違う。
 持っていた火かき棒を適当に壁に立て掛けて一歩近寄ると、雪はびくりと肩を竦ませて何を思ったのか突然しゃがみ込んで散らばった皿の破片を素手でかき集めた。
「なっ、に、してるの!?」
 慌てて駆け寄り、両手を掴んで床から引き剥がした。しかしすでに手遅れで、手のひらにも腕にもそこかしこに血がにじみ始めている。
「ごめんなさい、ゆるして、くださっ」
「怒ってないから、ちょっと落ち着きな」
 掴んだ腕すら全力で振り払おうとする雪に必死で声をかけても、その目はまるでこちらを見ておらず、割れた皿を見ては苦しそうに息を詰まらせるばかりだった。
「ユキ、どうした」
 類が背後から雪の体を抱き込む。いつもならそれで我を取り戻し落ち着くのだが、今日はそうもいかなかった。
「いやだ、あれだけは、もうやだ……っ」
 ばたばたと暴れ回る雪の体を二人がかりで押さえ込む。意思とは関係無しに壊れたようにあふれる涙が痛々しくて、とても見ていられなかった。

 腕の中で静かな寝息を立てる雪の背中を何をするでもなく緩く撫でる。よっぽど暴れ回って疲れたのか、普段は眠りが浅いというのに、怪我の治療をしても起きる気配はまるでなかった。
「落ち着いたか」
「うん、ぐっすり」
 部屋に戻ってきた類がベッドに上がり玲の正面に腰を下ろす。それを待ってから雪の体を反転させた。
「なんとなくだけど、ユキくんが暴れた原因分かったかもしれない」
 興味深そうな目を向けてくる類に雪の服をまくり上げて、体中に残る大小の傷の中でも一際異彩を放つ特殊な形をした火傷痕に指先でそっと触れる。
「これ、俺が持ってた火かき棒でやられたんじゃないかな」
「……ああ、それで」
 雪が調子を狂わせたあの瞬間に何か異物があったとすれば、久々に使った暖炉と手に持っていた火かき棒くらいだ。細長い火傷痕も、恐らく形は一致する。
「この間ユキくんが水被ったときに着替えさせて、その時に見つけたんだけど。ここと、左の肩胛骨の所と、右の太股の裏にもあった」
 言いながら痕がある場所に指で触れていく。ここまでしても相変わらず、雪は寝息を立てるばかりで起きる気配はない。
「院にいた子供にも同じ痕を持つ者が殆どだったな。……日常的にあったのかもしれない」
「……そんなの、正気の沙汰じゃない」
 ぶわり、と自分の中で底の見えない何かが膨れ上がる。年端もいかない子供を集めて、養っていることをいいことに暴力を日常化させるなど、とことん腐った人間もいたものだ。
 彼らが何をしたというのだろうか。皆親から見放されてしまったという、それだけでも悲惨な運命だというのに。生き延びた先で間違った価値観を押しつけられる事も、酷い扱いも意味のない暴力も、彼らが黙って受け入れる必要は無かっただろうに。
 神は、見捨てた人間にはとことん悲惨な人生を与えるのかもしれない。
「レイ、落ち着け。それはお前の敵じゃない」
 急に片手で視界を塞がれ、平坦な声を聞かされる。なんでお前はそう無関心でいられるんだ、と怒鳴り掴みかかってやりたかったが、腕に抱えている雪がそれを邪魔した。
 院の子供は皆解放した。それでも、悪の根元である院長は逃げたまま、今も捕まっていないのだ。今もどこかで雪と同じように苦しむ人間が増えているのではないか、と思うと気が気ではなかったが、冷静に考えてみると、それを全て抱え込めるほど自分たちの手も大きくはなかった。
 今腕の中にいる、恐怖に縛られたまま目の前で泣き叫ぶしか出来ないこの小さな子供一人でも、もう手一杯なのだ。
「いつか、一緒に料理がしたい」
「ああ」
 刃物を使う料理は、雪が怖がって出来た試しがない。
「街で買い物して、どこかで遊んで、仕事としてじゃなくて子供として外を出歩いてほしい」
「……ああ、」
 護衛としては喜んで付いてくる癖に、好きに歩かせても、雪は遊び方を知らない。一歩すら踏み出せない。
「かき氷も食べるし、暖炉の前で微睡む」
「……きっと、出来るようになる」
 雪に埋もれて死にかけたせいか氷を怖がり、火元にもあまり近寄らない。
「全部、出来るようになるまで……俺たちのわがままはぶつけない」
「その意見には賛成だ」
「……仲のいい双子って、どうやるんだっけ?」
「少しずつ思い出せばいいさ」
 何も知らないままに静かな寝息を立てる雪の上で、片割れ同士は長年に続く戦争の停戦を誓った。