このお話の登場人物
〇安藤康隆(あんどうやすたか)
〇吾妻薫(あづまかおる)


 朝はとても良く晴れていたというのに、放課後になった今、ずいぶんと強い雨が降っていた。生徒の中には何人もの傘を忘れた人が愚痴を言いながら、それぞれ雨の中を走って帰る者、他の傘を持っている人に入れてもらえるよう頼み込む者、親の迎えを呼ぶ者、様々。
 僕はというと、天気予報を信じて立派な傘を持ってきていたので、困ることもなく帰路に就いた。最近の地方ニュースを担当している新しい気象キャスターの予報確率はかなり高めで、僕も安心して彼の予報を毎日参考にしている。
「アヅ、ばいばい」
「あっ、え、さよならっ」
 教室の入り口で上からのぞき込むようにクラスメイトが僕に笑いかける。身長差があるのでそんな体勢になるのは当然といえば当然だけれど、それにすっかり震え上がってしまった僕は、彼の顔もろくに見ずに教室を飛び出してしまった。
「(どうしよう、またやっちゃった……!)」
 階段を駆け下りながら心臓がある辺りを必死に押さえ、跳ねる心臓が胸を裂いて飛び出さないように強く拳を握る。
 昔からどうにも人の視線が苦手だった。女みたいだと容姿をからかわれることが多かった、と言うこともあるかもしれないが、単純に上から見下ろされることが苦手なのだ。まるでその場にいたらとっつかまえられて、頭から丸飲みされてしまいそうな、そんな感覚に陥ってしまう。
 最初こそどもるばかりだった僕を心配した両親は、何かの病気ではないかと様々な病院を連れ回したが、最終的に何の病気でもなく、言うとすれば対人恐怖症だと、それだけ言われた。本当にそうだったらどれだけ良かったことか。
 やっかいなのはここだ。僕自身、確かに他人の視線は怖いし見下ろされることは恐怖だ。しかし、自分よりも小さい相手だとその恐怖は全くと言っていいほど訪れないときた。そういうこともあり、昔から男子の輪にはなじめず、女子(もちろん自分より背の高い女子は例外である)といるか、ひとりぼっちで過ごすかのどちらかだった。
 そんな環境で、よく僕はいじめられなかったと思う。不思議なことに馬鹿みたいに震える僕をいじめの対象に選んだ人はおらず、むしろ身長が高いことが原因だと知ると、視線を僕よりも下げて話をしてくれる人がたくさんいた。そのおかげで、僕は今でもそこそこ普通に生活することが出来ている。たまについさっきのような不意打ちにすくみ上がってしまうのだけれど。
 吾妻と書いてあづま、ずではないことを面白がってか、人はみんな僕のことをアヅと呼ぶ。あだ名があることは嫌ではないし、自分だけの呼び名というのは少し嬉しくもある。それなのに、そんな優しい人たちの恩を仇で返すような自分の体質は嫌いだった。
「はあ……」
 降る雨の中、傘を差して歩く。決して強いと思うような雨ではないはずなのに、傘に当たる雨粒は大きく、立っているだけで足下からじわじわと水がしみてくるような、不思議な雨だった。
 駅に行くまでのほんの少しの短縮のためにと公園を突っ切って歩いていると、植木の側に小さな茶色の塊が目に入った。立ち止まって遠くからそれを眺めていると、丸いと思っていたその塊は細長いしっぽを一度左右に振った。
 しっぽ?
「……猫、だ」
 わざわざ植木の中ではなく側で雨に濡れ続けているそれは丸まる三毛猫だった。刺激しないようにゆっくりと近づいて、こちらを見たままそれでも動こうとしない猫の方へ傘を傾げる。
「おまえ、ひとりぼっちなの? おうちは?」
 聞いたところで返事など帰ってこないと分かってはいるが、常日頃人と上手く会話が出来ない僕にとって、小さな動物達は貴重な話し相手だ。案の定猫は興味ないと言うかのように再び頭を腕に乗せてゆらゆらとしっぽを揺らすばかりで大した反応もくれない。
「何でおまえはこんなところに丸まってるの……? 濡れるのに」
 雨を吸ってスリムになった猫の背を撫で、そのまま喉元も擦ってやる。それで気を良くしたのか、猫は喉を鳴らしてこちらへ近寄ってきた。
「首輪はないし、野良かなあ」
 手に頭をすり付けてくる猫をかまいながらどこかに目印になるようなものが付いていないか確認する。首輪も何も無いことは確認できたが、代わりに腹の側面におもしろいものを見つけてしまった。
「このハートの模様……おまえ、幸せにゃんこだったんだ」
 学校で噂は何度か聞いたことがある。ハートの模様がある三毛猫……通称幸せにゃんこは、触れることができれば、その人に幸福が訪れると言われている猫だ。今までたくさんの人がその姿を見つけることはできても、猫自身が気まぐれなのか、触るところまでいけた人は数少ない。その代わり、恋が成就したり検定に受かったり商店街のくじが当たったりと、幸せにゃんこに触れることができた人には次々と幸せが訪れている。らしい。
「へへ、僕にも何か良いこと起こるかな」
 だらしなく頬を緩ませながら猫を撫でる。あわよくば自分の体質を直してほしかったが、それは幸せにゃんこでも無理な話だろう。ならばせめて、なにか近々良いことが起きるかもしれないと期待を膨らませていた、次の瞬間。
「? 急に暗く……」
 視界に影が差し、不思議に思い傘の外側を覗く。そこには。
「……ねえ、」
「う、うわあああああ!?」
 同じ制服を着て濡れ鼠になっている男の人が立っていた。違う、そこが問題なのではない。目の前の男は、鋭い眼力に服の上からでも分かるがっしりとした体つきで、いかにも今し方喧嘩をしてきました、と言わんばかりのけがをこさえて、そこに立っていたのだ。
 慌てて逃げようと思った瞬間ぬかるんだ土に足を取られて転んでしまう。その音に驚いたのか、猫は慌てて僕から飛び退いてどこかへ行ってしまった。
「……だ、大丈夫?」
「だ、だだだ大丈夫です! あ、あの、えっと」
 意味が分からずにとにかく視線から外れたい一心でしりもちを付いたまま後ずさる。だんだんと水が染みてきて気持ち悪いけれど、そんなことは言っていられない。不良なんかと関わっても僕に勝ち目はないし、だからといって鎮められるほどの大した金品も持っていない。
「幸せにゃんこ、逃げちゃったね」
「……え?」
 思ってもみなかった発言に思わず男に視線を戻す。しかし再び目があってしまい、全力で逸らさざるを得なかった。本当にこの体質どうにかしたい。
「驚かせてごめん、あの猫に触れてる人を初めて見たから、つい気になって」
「あ、あの、その、僕は、たまたま」
 脳をフル回転させて言葉を紡ごうと思うものの、そもそも脳が機能しない。目の前にいる男の姿はまさに不良そのものなのに、出てくる言葉は柔らかく、まるでそこにだけ日だまりができそうな優しい声だった。
「……ぼ、く……失礼しますっ!」
 鞄を抱えて男に背を向け一直線に走る。もはやどういう対応をとればいいのか全く分からなかった。言い人なのか悪い人なのか分からない人とは確率にかけて関わるより、最初から関わらない方がいいに決まっている。
「あ、待って……!」
 後ろからそんな声が聞こえた気がしたが、無視して公園から脱出した。路地をめちゃくちゃに走って、何故かたどり着いてしまった学校でそれ以上の逃亡は諦め、大人しく母親に連絡を入れて車で迎えに来て貰った。さすがに泥汚れを張り付けたまま電車には乗れなかった。

「アヅマカオル? ……ふうん」

***

 次の日の朝、定期入れをなくしていることに気が付いた僕は渋々切手代を払い、大嫌いな視線のたまり場である電車を乗り継いで学校へと向かった。
「(どうしよ……思い切って六ヶ月なんて買うんじゃなかった……まだ一ヶ月も経ってないのに)」
 そこそこ遠方から通っている僕の定期代は一ヶ月分でもなかなかばかにならない。それなのにそんな定期を無くすだなんて。どこで落としたかは分かりきっていたが、きっとあの不良に拾われてしまっていることだろう。そんなのもうどうしようもない。
「アヅ、顔真っ青だぞ? 風邪でも引いたか」
「いっちゃん……あのね、定期、なくしちゃった」
 小学校からの幼なじみである岩瀬が机から頭だけ出してくる。岩瀬は僕の体質を熟知しているので、間違っても上から声をかけたりと言うことは絶対にない。その点でも僕が気の許せる唯一の友達だった。
「うわまじか。どこで落としたとか覚えてないの?」
「それが、検討はついてるんだけど……その、」
 不良との話をするべきか悩んでいると、朝でざわついている教室を一瞬謎の静寂がおそった。
「……?」
「なんだ?」
 先生でも来たのかと思い視線を上げる。しかしそこには先生の姿は無く、代わりに教室の入り口に昨日の不良が立っていた。
「あ、」
「ひいっ!」
「アヅ!?」
 目があった瞬間探し人を見つけたかのように迷い無くこちらへ進んでくる不良から思わず逃げようとして、机に座っていることすら忘れて駆けだし、机を巻き込んで盛大に転んでしまう。昨日と言い今日と言い、転ぶばかりの謎の不幸に幸せにゃんこの噂は一体どういうことなのかと全力で首をひねりたくなる。
 それでも近寄ってくる不良から逃げようと這おうとすると、僕と不良の間に岩瀬が立ちふさがった。
「アヅになんか用ですか、安藤先輩」
「(先輩?)」
 その言葉にちらりと岩瀬の隙間から不良のネクタイの色を確認する。確かに彼が付けている緑色のネクタイは三年生の色だ。三年生、僕たち一年生の二つ上。そんな年上に僕は目を付けられてしまったのか。
「あづま、かおる君?」
「先に俺の質問に……!」
「これ、落としてたから」
 その言葉に声を荒げていたはずの岩瀬がぴたり静かになる。意味が分からずに岩瀬の背中を見上げると、後ろ手に何かを手渡された。
「……あ、これ」
 質素な茶色のレザーケースの中には僕の名前がかかれている定期がきちんと収まっている。間違いなく落としたはずの定期だった。取られたとは思っていたが、まさか帰ってくるとは。
「……アヅに、何か用ですか?」
 少しだけ声音の変わった岩瀬の問いに、不良はしばらく黙っていた。が、
「……あの猫に触れる方法、もし良かったら教えてほしいって、伝えてくれるかな」
 そう言うなり、不良は教室に静寂を残してあっけなく帰ってしまった。
「……あーあ、びっくりした」
 隅で丸まっている僕に合わせて座り込んだ岩瀬が不思議そうに僕を見る。
「……な、なに?」
「いや、お前なんであの安藤先輩と知り合いなんだ?」
「あの、って、どの……?」
 首を傾げると、岩瀬は少し目を丸めてから一つ息をついた。
「今の三年、かなり喧嘩の強い不良って噂だけど……なんかそんなことなさそうだったな」
「昨日、出会って、それで……慌てて逃げたから」
 手の中に戻ってきた定期入れをまじまじと見つめる。自分のズボンはあれほどに泥汚れが酷かったというのに、同じ場所に落としたはずの定期入れは少し定期自体にシミが残っているものの、外側には泥どころか砂粒一つ残っていない。
「(……良い人?)」
 ぶつぶつと関係の考察を始めた岩瀬をよそに、不良が消えていったドアの先を見る。もちろんそんなところに不良はいないが、今の僕には彼が通った道に日だまりが残っているような気すらした。

 幸せにゃんこが連れてきたのは、不思議な出会い。なのかもしれない。