新人歓迎会で初めて飲んだビールの飲みやすさにだまされ、勧められるがままにもらってしまう癖も合わさって二次会に突入するより先に潰れたらしい。
 らしい、というのは同僚からSNSに「本当にちゃんと帰れたか?」という文面が送信されていることからの推測だ。言った記憶はないし、一人で帰ろうとしたのも訳が分からない。ただ一つ言えるのは、
「……」
 意識がないまま歩き回った末、どこかもよく分からない公園のベンチに座ったまま動けなくなってしまった、それだけだ。
 帰りたい、そうは思うものの体も動かないし、持っている携帯でタクシーを呼ぶだとか、位置情報を送って誰かに助けを求めるだとか、そういった類の事は一切思いつかないほど思考回路をやられていた。
 時計は深夜二時を指していて、周りに人気はない。飲んだ後は火照っていた体がだんだんと冷えていき、このまま凍死してしまうのではないかという錯覚すら覚えた。
 このまま死んでしまうのだろうか。せっかく社会人として一歩を踏み出したところなのに。誰も知られずに飲み過ぎで動けなくなって、公園のベンチで翌朝冷たくなっていましたって?
「……それは、やだなあ」
 ぐらぐらと視界が揺れ、自分がきちんと座れているのかもよく分からない。少しだけ背を曲げた時、足下に茶色い物体が飛び込んできた。
 そわそわと歩き回り、ふと自分を伺うように見上げる顔は丸い目に茶色い鼻で例えるなら狸のような、猫のような、何とも言い難い顔だったが非常にかわいらしかった。
「おあげ、やめなさい」
 散歩の最中だったのか、ハーネスを引かれてその生き物は自分から少し距離をとる。おあげ、この子はおあげと言うのか。しかし一体何の生き物なのかは分からない。一番近いのは水族館で何度か見たことがあるカワウソだが、カワウソは一般家庭で飼えただろうか。
「……大丈夫ですか?」
 下を向いたままの自分の視界に人の足が現れ、次の瞬間しゃがみ込んでおあげと同じような丸い目でこちらをじっっと見つめてきた。
「っ、え」
 突然の出来事に思わず少し身を引く。しかし酔った体ではそれも上手くできずにぐらりと体が横に大きく傾いた。
「お兄さん、お迎えは? それともタクシー呼びましょうか?」
 倒れ込んだ体を目の前の男が軽々と片手で受け止める。タクシーを頼もうと口を開き、しかし何を言うこともできずに口を閉じた。
「お兄さん?」
 言葉が全く出てこない。言おうとした端から忘れていくような奇妙な感覚だった。
「……仕方ないなあ……凍死されても困るし」
 ぐ、と腋の下に手を差し込まれて半ば無理矢理立たされる。しかし全く足に力が入らずずるずるとしゃがみ込むと、男は困ったように唸りおあげは気になるのかうろうろと自分の近くを歩き回った。
「ほら、支えるから立って」
「……むり」
 ひどく情けない声がでた。あまりにも情けなさすぎて気持ちまで完全にしぼんでしまった。こんな見ず知らずの人間に迷惑をかけて、一体自分は何をしているのだろうか。
「……吐いたら捨てて帰りますからね」
 男は同じようにしゃがみ込んでこちらに背を向ける。どうするべきか分からずにしゃがんだままでいると、両手首を取って引かれ、されるがままに背中に密着した。
「よっ、と」
 持ち上げられて足も抱えられる。そこまでされてようやくおんぶをされているのだと気づいた。
 最初こそどうするべきか、何か言うべきかと使えない脳を回転させようとしていたのだが、さわり心地の良いコートに頬を置き、暖かい背に体の力を抜くと、すべてがどうでも良くなった。
 そこで自分の意識は一度途切れた。



 再び目を覚ましたのは、ドアの閉まる音がした時だった。
 見知らぬ部屋に預けたままの体と足下でうろつくおあげ。
 男が玄関に自分を下ろして動きもしない自分の代わりに靴を脱がせ、自分の靴も脱いで先に中に入っていく。さほど時間を置かずに戻ってきた男は手に持っていたコップをこちらへ手渡してきた。
「水、飲めそうですか?」
 両手でそれを受け取って一口飲む。
「……きもちわるい」
 水自体は冷たくおいしかったはずなのに、突然胃が小さくなっていくような気持ち悪さを覚えた。
「吐くなら吐いてください」
 再び自分を持ち上げて男は自分をトイレへと運ぶ。おあげはハーネスを引きずったままそれに付いてきた。
「おあげはこっちおいで」
 苦戦している自分を余所に男はおあげを持ち上げて姿を消す。
「……?」
 吐き気はあるのに口を開くだけでは戻すこともできない。気持ち悪さも続くままで、苦し紛れに便座を掴んだ。
「もしかして、自分で吐いたことないんですか?」
 またもすぐに戻ってきた男が後ろから自分の背をさする。
「は、けない」
「ええ……?」
 どうしたらいいのか分からずに息を強めに吐いてみたり腹に力を入れてみたりと試行錯誤を繰り返してみたが、一向に戻ってくる気配がない。
「……下向いて、口開けてください」
 急に男が自分に覆い被さり、言うとおりに開いた口の中に指を乗せる。
「噛まないでくださいね」
「う、」
 そのまま奥に指を押し込み、喉まで入ったのではないかと思うほどの位置でぐるりと指が動き、同時に反対の手で腹を押し込まれた。
「……っ!」
 そこからはあっという間だった。
 次々とあふれてくる波に合わせて背をさすられ、胃を押し込まれる。他人の嘔吐など見ていて気持ちいいものではないだろうに、男はひたすらえずく自分の背をさすってくれた。
「少しは楽になりましたか」
「……ん、」
 口を拭いて立ち上がらせ、今度は自分ごと運んで台所にあるコップを渡される。半ば震えなら口を濯いでいると、別のコップにペットボトルの水を入れて今持っていたコップと引き替えに手渡された。
「布団すぐに用意するので、もう寝てください」
「……ここで」
「俺の家です。正気に戻ったら帰ってもらって結構なので」
 奥で布団の用意をしている男の側をおあげがうろうろと歩き回って邪魔をする。それがなんだかほほえましくて知らず知らずのうちに口角が上がっていた。