このお話の登場人物
○水瀬(みなせ)
○須藤(すどう)


「これなら何とかなると思うよ」
 畳を持ち上げまじまじと眺めて、彼はそう言った。

 注いだ直後から汗をかきはじめる氷入りの麦茶を二つ持ってキッチンからリビングに戻り、一つは渡してもう一つは自分で飲む。須藤は嬉しそうに礼を言い半分ほど一気に飲み干した。
 外に出ることもなくじめじめと生きている白く細い水瀬とは違って、程よく日焼けした小麦色の筋肉質な肌を惜しげもなく晒して寛ぐ目の前の男は、小学生の頃に同じ学校だっただけの、いうなれば顔見知りだ。
 原稿の為に自室に籠もって憑りつかれた様に作業をしていたのが終わったのは朝の5時頃。何か飲んで寝ようと部屋から抜け出したのは日が昇っていたので6時頃だっただろうか。そこで飼い猫のミケ(今年で12になる老いぼれなはずなのだが何故か今でも暇つぶしに鼠を捕獲するほど元気だ)がどこから気性の荒い猫たちを誘い込んだのか突き破られた網戸と見る影もなくなった和室を目撃したのだ。
 そこから朝一番で近所の畳屋を調べ連絡したのが9時。彼が来たのは10時。驚異のスピードでやってきた畳屋は今時こういう職業は暇なのだと開口一番そう言って笑っていた。その名刺を見て同級生の須藤だと知った。
「……畳」
「あ、はい」
「良いの使ってるんだね、最近建った家のものだとは思えない」
 残った半分の麦茶も飲み干し、からころと音を立てる氷を何度か転がしてそれすらも口に放り込んでかみ砕く。
「……良い、んですかね」
「あれ、こだわったわけじゃないんだ?」
「ええ、まあ……家自体、祖父の家をリフォームした、だけなので」
 はあ、と男は感心したような声を上げる。一人でこんな豪華な家に住んでいたことを怪しまれていたのだろうか。これだから関わりの少ない人間と話すのは苦手だ。自分の環境は何かと他人に誤解を与える。
「水瀬、昔からおじいちゃんっ子だったもんな」
「え?」
 追加で麦茶を入れてやろうと浮かせた腰が途中で止まる。
「ほら、四年の時。大雨で学校午前で終わって親の迎え待ってたの、水瀬はおじいちゃんが迎えに来ただろ」
「……そんな昔の事、よく覚えてますね」
 自分には物心ついた時から"肉親"と言うものがいなかった。自分がどうやって生きていたのか、捨てられたのか、先立たれたのか、そう言った類の話は何も知らない。そもそも誰も知りようのない話だ。
 育ててくれたのは、血もつながっていない一人の老父。ただそれだけ。
「覚えてるよ、ちゃんと」
 男は懐かしむように目を細める。接点もないようなただの顔見知りの事を覚えていて何が楽しいのか自分にはよく分からないが、彼にとっては何か楽しいことなのだろう。そういう事は知ろうとしない方が良い。
「それよりも、いつからこっちに戻ってたの? 東京行ったって聞いてたからそのままかと思ってた」
「それは……3年前に、祖父が亡くなって、管理する人がいなくなったから……」
 ああ、失敗した。この話題は出すべきではなかったかもしれない。ご両親は?なんて聞かれでもしたら自分には何も答えられない。そんな事で言いよどめば他人は必ず不審に思う。そんな目で見られたら、
「だから、寂しくてリフォームしたんだ?」
 ひゅ、と息を呑む音が相手にまで聞こえてしまった気がした。
「馴染みのある場所にいるべき人がいないって結構きついよな。俺も父さんが亡くなってしばらくは仕事場に一人でいられなかったから」
 老父は怪しまれると面倒だから自分の事は祖父だと思うように躾けられていた。孫が見たかった、と子すら抱けなかった妻が遺した遺言の為に育ててやっているだけだ、と辛辣なことを言いながらも何の不自由もなく育ててくれた。
 毎日毎日飽きもせず自分を隣に座らせて仏壇に手を合わせる祖父の横顔、好んで使っていた白檀がほのかに香る線香の匂い、真っ直ぐに響き渡る鈴の音。それはもう体に染みついていて、家を出たところで忘れられるものではなかった。
 一人で二人の遺影の前に座り手を合わせた時、ようやく死というものを実感したのだと思う。それがどうしようもない恐怖で、恐ろしくて、耐えられなくて。だから自分は思い出から目を背けた。
「……一緒?」
「死んだときは全然実感なかったのにふとした瞬間に"ああもういないんだ"って思う方がきついよ。分かるなあ」
 祖父が死んだからさっさと自分の住みやすいようにリフォームしたんだと後ろ指を指された。故人が大事にしていた家に何の思い入れもないのかと仕事仲間に嫌な顔をされた。自分は何をしても否定されるのだと、もう先回りして諦めていた。
「……良い、のかな」
「水瀬?」
 自分の本当の想いを知られても、否定されないなんてことがあるのだろうか。
「その畳、仏壇を置いていた部屋のものなんです」
 本当はずっと、許してほしかった。否定されたくなかった。歪んだ目で見られたくなかった。自分はちゃんと幸せだったのに、疑われることが何よりもつらかった。
「何も見たくなくて、でも何も捨てられなくて、思い出したくないのに、忘れるのも怖くて」
 手を合わせることが怖くて仏壇を閉じた。けれど毎朝意味もなくご飯と淹れたてのお茶を用意した。供える場所は無いのに、祈る相手もいないのに。
「道理で。……畳、綺麗にしよう。暇だから一瞬で直す。かなり良い畳だから直せば何十年でも保つ」
 須藤は机に身を乗り出して俯く自分の頭を撫でる。別に泣いているわけではなかったが、その武骨な撫で方はどこか祖父に似ていた。
「それともう敬語も辞めようぜ、友達なんだから」
「ともだち」
「一緒にサッカーしただろ。俺お前の顔面にボール当てちゃったけど」
 そんな事、覚えていない。ボールを顔面に食らって保健室に行ったことはなんとなく覚えているが、あの頃は引っ越したばかりでクラスメイトの顔と名前を覚えるので精いっぱいだった。
「……あ」
「思い出した?」
 思い出したわけではないが、なぜ彼が自分の事にこんなに詳しいかには気が付いた。思い返せば自分はこの田舎で珍しい転校生だったのだ。自分は一気に入れ替わった人たちを覚えるのに一生懸命で一人一人の思い出などと言っている場合ではなかったが、元々ここにいた人たちは動物園のパンダ並みに水瀬の事を見ていたのだ。
「まあ水瀬がこっちに戻ってきたって知れたんだし、今度他の友達も誘って飲みに行こう。水瀬がどんな仕事してるのかも気になるし」
「え、あ、はい……じゃなくて、うん」
 約束、と言って須藤は白い歯を見せて笑う。友達だとか、約束だとか、そんな子供だましのような言葉ばかりだったが、それでも彼ならいつか実行してくれるだろうという謎の確信があった。
――今日サッカーしよう、約束な!
「……約束」
 ほんの少しだけ、思い出したかもしれない。
「うん、約束」
 自分が苦しいと思っていただけの埃を被った記憶の蓋に、ようやく手をかける気になった。