このお話の登場人物
○村瀬瑞希(むらせみずき)
○カフェの店員(???)


「瑞希君、編集に就きたいって言ってたよね。君ならそこらの新卒取るより即戦力だし、うちにこない?」
 村瀬瑞希が齢十八にして編集の世界に飛び込んだのは、その一言が原因だった。
 村瀬の父は作家で、父と二人三脚で歩んできた担当に幼い頃からよく面倒を見てもらっていた。そのせいか父の職である作家ではなく編集職に憧れを抱いて、いつかは彼のような人になりたいと公言していた。
 その言葉が認められたのは十五の時。雑用で良いなら、と担当の彼が村瀬をバイトとして雇ってくれたのだ。もちろん最初は完全に雑用の仕事ばかりではあったが、隙間時間に仕事を覗かせてもらったり、作家さんとの打ち合わせに若い意見が欲しいからという半ばこじつけのような理由で参加させてもらったりと、バイト扱いながら二年目以降になると新卒と変わらないような仕事まで任されるようになっていた。
 進路と言う言葉が本格的にちらつきはじめた夏、大学に進むべきかと悩んでいた瑞希を拾い上げてくれたのが担当の彼の冒頭の一言だった。
 こうして、大卒が基本で倍率も目がくらむほど高いと言われる編集職に、村瀬は高卒という特殊な立場ながら他を押しのけあっさりと通ってしまったのだ。

 それが、二年前。
「(……あたま、いたい)」
 ふらふらと人の往来が激しい夕方の街を歩いていく。照らす夕日に焼かれてしまうのではないかと思うほど、初夏の日は熱を増していた。
 手には大量の資料で膨れ上がった鞄と、それでも収まりきらずに折り畳み式ののトートバックを持ち、背中には会社で読み切れなかった、ここ一ヶ月で出版した大小さまざまな本をリュックに入れて背負っている。荷物だけでも既に限界を訴えてきそうなところに、先日から続く微熱と頭痛が村瀬の体を蝕んでいた。
 今日の今日まで揺れる視界と全力で警笛を鳴らす脳に鞭を打って仕事を続けてきたが、今日の勤務でついにボロをだしてしまった。自分の担当していた作家のスケジュールを組み間違えたせいで、大事な原稿を落としてしまったのだ。
 落とした、といってもただ単純に道に落としてしまったわけではない。締め切り通りにあがらなかった作家さんの原稿を雑誌や週刊誌など、予定していた媒体に載せることができなくなる、そう言う意味合いでの落とすと言うことだ。作家としても編集としても最悪の失敗であり、到底許されることではない。作家が原稿をあげられなかったということならともかく、今回の件はスケジュールを組み間違え、間違った締め切りを伝えていた村瀬の失態以外の何物でもなかった。
 今まで失敗という失敗をしたことがなかったせいか、非常事態に面した今回の件で、周囲が何とか調整しようと必死になって走り回ってくれていた中で、村瀬は何をすることもできなかった。どうすれば挽回できるのか、どうすれば調整できるのか、作家にどう謝りに行けばいいのか、それすら分からずに先輩の言うとおりに動くことしかできなかったのだ。
 常日頃から村瀬のことをよく思っていない年上の同期や後輩たちは、それを端から見て笑っていたことだろう。彼らはいつでも村瀬がボロを出す瞬間を今か今かと待っていて、ほんの些細なことでも誇張しては笑っているのだ。
 別段村瀬が気に障る人間だというわけではない。むしろ先輩たちからはよく働く、気だても良い優秀な人材として扱われている。後輩たちが嫌うのはそんなところではなく、ただ単純に年下の先輩、という立場に村瀬がいることが気に入らないだけなのだ。
「(……あれ?)」
 ふと視線をあげたわき道の入り口に、植え込みで半分以上隠されているカフェが目に入った。突然視界に現れたそれに白昼夢でも見たかと慌てて辺りを見渡したが、いつも通りの道が続いているだけで、どうやらおかしくなったわけでも道を間違えたわけでもないらしかった。
 コーヒーでも飲めば眠気だけでも飛ばせるかもしれない。よりにもよって失敗した日に寄り道をするのは少し気が引けたが、まともな思考が働いていないまま、手は勝手にドアノブに手をかけていた。
「いらっしゃいませー」
 カラン、と小気味良い音を立てて頭上のベルが鳴る。表に人はおらず、代わりに厨房の奥にいるのであろう店員の声が響いた。
「ごめんなさい、今手が放せなくて! お好きな席にどうぞ」
 響く声にゆっくりと店内を見回して座る席の目星をつけようとしたが、見る限り自分以外の客がいない。学校や仕事で人がいなくなる真っ昼間でもないのにここまで客がいなくてこの店は大丈夫なのだろうか、と一瞬不安を感じたものの、かといって他に店を探す気にもなれず、少し奥にあるテーブル席に腰をかけた。
 体に負荷をかけていたトートバックを置き、次いでリュックも下ろして横に置く。目の奥が灼かれているかのように痛くて眉間を揉んでいると、駆け足で寄ってくる足音が聞こえた。
「すみません、お待たせしました」
「ああ、いえ……」
 差し出されたメニュー表に無意識に顔を上げる。汚れの一切無い黒いエプロンに真っ白なシャツをといういかにも清潔感のある制服を着た店員の男は目が合うなり楽しそうに笑った。
「ご注文の際はまたお呼びください」
「……あ、あの」
 一瞬、体の痛みがすべて吹き飛んだ。気がした。
「はい?」
「……この、本日のコーヒーで」
 メニュー表の裏表紙にあった本日のコーヒーを指さして目をそらす。
「他には、よろしいですか?」
「……はい」
 明らかに体の不調ではない動悸に襲われ、じわりと汗がにじみ出す。
「かしこまりました。少々お待ちください」
 ぱたぱたと軽やかな足取りで去っていく男の後ろ姿を視線だけ上げてそっと覗き見る。体のラインに沿った細めの服を着ている割にまくっている袖から覗く腕にはさり気ないながらもしっかりとした筋肉が付いている。
「(……まずい)」
 率直に言うと、一目惚れだ。顔も、身体も、声や話し方まで村瀬の好みぴったりの男だった。ただでさえ体調不良から来るめまいと動悸に悩まされているというのに、あんな男に接客などされてしまったら精神的にも物理的にも死んでしまう。
 気を紛らわせるために回収されなかったメニュー表をめくる。彼の他にもスタッフがいるのか、すべて手書きで作られているメニュー表には女性が書いたであろうかわいらしい丸文字で、メニューひとつひとつに写真と丁寧な紹介の文章が添えてあった。
 作成者は見るからにずいぶんとまめな性格らしい。文字は定規で揃えたかのようにきっちりとずれなく並び、そこかしこに出現する小さな動物のイラストもこれまた似すぎず、逸れすぎずのかわいらしさを保っているところがなんとも愛らしい。
「お待たせしました」
「っ!?」
 ぼんやりとメニュー表を眺めていたせいか近くまで来ていた店員に気付かなかったようで、真横から聞こえた声に大げさに驚いてしまった。それにまた驚いたようで男も少し肩を揺らす。
「すみません、驚かせてしまいましたか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
 手に持っていたトレイに慌ててメニュー表を手元から避けると、男は人懐っこそうな笑みを見せ慣れた手つきで村瀬の前にコーヒーを置き、側に角砂糖が入った瓶とミルクが入った小さなカップを順に置いて軽く会釈をした。
「本日のコーヒーはおかわり自由となっておりますので、お気軽に申し付けください」
 また同じようにぱたぱたと軽快に戻っていく男の背中を同じようにこっそりと眺める。
 綺麗に用意された角砂糖とミルクには申し訳ないが、村瀬はブラック派だ。落とさないようしっかりと取っ手を持ち、底にいくほど深い黒をたたえる茶褐色のコーヒーを少し眺めてからゆっくりと口に運ぶ。
「(……おいしい)」
 酸味が死にきっていない、かつ苦みがないほどの浅煎りではない。恐らく豆はブレンドなのだろう、これといって特徴的な味ではないが、するりと喉を通るクセの無さや、飲んだ後の柔らかな残り香に無意識に肩の力が抜けた。
 どこか、ほっとする味なのだと思う。
「(……そうだ、僕が落ち込んでどうするんだ)」
 ミスをしたのは自分だが、被害を被ったのは自分ではない他人だ。そう思うと、漠然としたこれからの不安が一気に晴れたような気がした。
 致命的なミスをした。それでも命を取られたわけではない。生きている限り、どこまででも挽回のチャンスはある。
 自分には、まだやらなければならないことがある。
 数回に分けて残りのコーヒーを飲み、一度深呼吸してから荷物を手にレジへと向かう。すぐに出てきた村瀬に何を思ったのか店員は少し申し訳なさそうに眉根を寄せて笑った。
「あまり、お気に召しませんでしたか」
 ふと男が片手で隅に避けた、先ほどまで読んでいたのであろう新書サイズの本が目に入った。
 そこに置いてある「問題タイプ別大学入試センター試験問題集・数学」というタイトルの本を見るに、目の前に立つ彼は大学入試を控えた高校生ということが自然と割れた。
 大学入試を控えた高校生にバイトをしている暇があるのか、などという野暮なことを言うつもりはさらさらない。
 高卒しか履歴を持っていない村瀬にそんなことを言える資格もないし、そういう固定概念で日々苦しめられていることもよく知っている。本人が決めてやっていることに口を出したり羨んだりなどはナンセンスだ。
「……いえ、すごくおいしかったです。今度は時間のあるときに、また来ます」
「……本当ですか、楽しみにしておきます!」
 途端に顔をほころばせる彼に思わず心臓が跳ねる。それを悟られないように財布を捜す振りをして顔を逸らした。
「あ、今日はお代結構ですよ」
「え、でも」
「そのかわり、また来てください。約束ですよ」
 コーヒーを褒められたことが嬉しかったのか、久々の客に浮き足立っているのかは分からないが、まるで大型犬のように一瞬で村瀬に懐いたらしい男が約束の代わりとでも言いたげに手を差し出してくる。
 近頃の高校生というのはこんな生き物だっただろうか。つい数年前にはまだ同じ生き物だったはずなのに、彼の人懐っこい笑みはどこか自分とは違う、遠い存在のように見えた。
 握手に素直に応える振りでその手に千円札を一枚押し込む。違和感に気付いた男が慌てて手の中を確かめ、顔を上げるより先に入り口のドアを押した。
 からん、と頭上でベルの音が響く。
「お金は大事にしないといつか上の人に怒られるよ、頑張れ高校生」
 制止の声は聞かないふりで、来たときよりも幾分か軽い足取りで店を後にする。背負っているリュックサックも、肩に下げているトートバックもなぜかほんの少しだけ軽い気がした。
「(……イケメンだったな)」
 明日からするべきことを少しずつ頭の中でまとめ、ずれたトートバックを定位置に戻して人の少ない住宅地を歩く。
 まだほのかに鼻の奥に残っている香ばしい香りを吸い込むたびに早鐘を打つ心臓は、体調のせいだとごまかして。