このお話の登場人物
◯コウ
◯久住廉(くずみれん)
人生を、底無し沼だと思ったのはいつの頃だったか。
もがいても抜け出せない、あがけばあがくほど沈んでいく。救いの手もなければ、助けを叫ぶこともできない。ひとりぼっちの自分は、だんだんと苦しくなる世界でゆっくりと息が止まるその瞬間を待つしかないのだと。
死に方すら分からない自分は、そうするしかないのだと。
トーストの焼ける香ばしい匂いで目が覚める。隣の部屋から聞こえるテレビの音と時おり響く生活音にしばらく耳を澄ませていると、不意にドアをノックされた。
「……なんだ、起きてるなら早く来なよね」
ノックが意味をなしているのかと思うほどあっさりとドアを開けてこちらを確認してきたコウは呆れたように息を吐くとすぐにリビングへ戻っていった。
コウ、と名乗った男に500万で買われて一週間ほど経つ。オークションにかけられた時はどんな地獄が待ち受けているのかと思っていたのだが、この男の自分に対する扱いは一風変わっていた。
「お、……は」
「おはよう。食器洗いたいからさっさと食べて」
少し小さめだがそれでも四人ほどで使えそうなテーブルに対になるように置かれたトーストとサラダ、コウの手元にはコーヒー、反対側にはホットミルクが置かれている。テーブルの中心には包装紙をはいだままのバターと小さなかごが置かれていて、その中にはハチミツや数種類のジャムが入っている。スウェットにTシャツというラフな格好でテレビのニュースを眺めながら真っ黒なコーヒーをすするコウも、すべていつも通り。ここ一週間変化はみられない。
最初はこの待遇になにか裏があるのではないかと勘ぐっていたが、どうやらこれが彼にとっての日常らしい。変わっているとすれば、対で置かれた廉のための食事だけだろう。
静かに椅子を引いて座り、すんなり声が出ないかわりに無言で手を合わせてパンを手に取る。まだ焼きたてのそれはほんの少しだけ熱かったが、早く皿を片付けたいと言われているのでのろのろと食べるわけにもいかず火傷覚悟で口をつけた。
「何か付けたら?」
横目でこちらを見るコウに慌てて首を横に振る。三食まともに差し出してもらえらるだけで十分すぎるほどの施しを受けているというのに、目の前にあるものに勝手に手を出すことなどできない。
「ふうん。……ま、いいけど」
背もたれに肘をかけて横向きに座っていたコウが突然正面に向き直る。パンの耳を両手の親指と人差し指の先に乗せるように持ち、切れ込みの上に乗せたバターが完全に溶けて染み込んでいるのを確認してからかぶりついた。
コウは朝食のパンにたっぷりのバターをつける。食卓でよく見る容器に入ったマーガリンではなく少し上質なバター。それを山ほど切り取って無造作にパンの切れ込みの上に落とし、それが溶けるまでコーヒーをすすりながらテレビを見て待つのだ。
食事が始まると、この間一切会話は無くなる。せわしなくニュースを読み上げるアナウンサーの声と、ニュースの内容によって楽しそうになったり悲しそうになったりと目まぐるしく変わるBGM、そして時折響くお互いのパンをかじる音、コウの少し目立つコーヒーのすすり音、その程度。
普通の人にとっては、その程度なのだろう。
「(……おいしい)」
暖かなごはんも、毎回きちんと冷蔵庫から出される色とりどりのジャムたちも、毎朝起きているか確認しにくる声も、食事の相手も朝日もおはようも、
「ご……ごち、そ」
「はいお粗末様、流しに片しといて」
当然のように取り上げられて生きてきた。そういうものだと思っていた。
「……ち、そ……さま、です」
感謝を伝えたい。ありがとうと言いたい。貴方のような心優しい人に出会えて幸せだと、すっからかんな知能のすべてをフル稼働させて言葉を紡いでいきたい。
「? うん」
それなのに、それなのに、それなのに!
「……っ、」
不審そうにコウが眉をひそめる。言いたいことがあるなら言えと言いたいのだろう。焦って何度口を開いても、頭の中を駆け巡る言葉は何一つ口をついて出てきてはくれなかった。
声はでない。言葉も紡げない。馬鹿な脳が声帯の使い方すら忘れたかのように、この喉からは空気しか漏れない。言葉はたくさん思い付くのに、伝えたいことだって分かっているのに。
なんて自分は滑稽なのだろうか。
「……廉」
「っ、あ」
突然立ち上がったコウは大きな手で連の頭を鷲掴みにし、そのまま前後左右に揺らした。視界と一緒に脳まで揺れて三半規管が狂ったように目の前にいるコウの顔がぶれる。
「ぅ、あぁぁ」
「無理に喋ろうとしなくてもいいよ、もう期待してないし。……それに、」
廉はただの性欲処理なんだから。
「(……違う)」
ただの性欲処理に毎日丁寧なご飯は用意しない。仕事中の空いた時間暇潰しになるようなものを用意していったりしない。わざわざ逃げられる危険性がある外に連れ出しもしないし、毎日着替えてもあまりある上等な服は用意しない。
本当の"性欲処理"という地獄を自分は見てきた。だからこそ、何度言われようと彼の性欲処理目当てという言葉を信じることが出来ないのだ。
「……コ、さ」
他人と違う自分が恨めしくて、ゴミのように捨てた親が憎くて、そんな自分を買ったコウも、きっと嫌うべきだった。そうであるべきだった。
こんなに優しい世界を知らなければ。
「あ、した、バターつけ、て……いい、ですか」
「それは俺の許可を取ることじゃないでしょ」
面倒、嫌悪、軽蔑。負の感情しか表に出さない彼の根っこに隠れた優しさに気づかなければ。