このお話の登場人物
○佐賀美響(さがみひびき)
○上村和弘(かみむらかずひろ)


 コンビニの袋をぶら下げて少し古ぼけた一軒家のインターホンを押す。何の反応もないことを確認して勝手にドアを開けた。
 無造作に脱ぎ散らかされた靴に、隅に埃が溜まった廊下、開きかけのドアには蜘蛛の巣が張っている。月に何度か来る家政婦が掃除をした後であればこんな事はないので、もう二週間ほど同じままの今が極限の状態だろう。
「さっさん、入るよー!」
 家中に響くように大声を張り上げる。靴箱の中に入っている自分用のスリッパを出して廊下を進み、突き当たりにある地下へと続いている階段をゆっくりと降りた。
 階段の終わりにはドアも廊下もなく、そこが既に部屋になっている。四角い部屋の半面に渡ってはめこまれているガラスが夕日を取り込んで乱反射させ、部屋一面がオレンジ色に染めているその中心に、彼はいた。
「カズ、また来たんだ」
「またって何さ。ほら差し入れ」
 お菓子やつまみといったいかにも体に悪そうなものが詰まっているコンビニの袋を側にある机に置き、自分はそこら辺に転がっている椅子を起こして座る。まだあまり形になっていない大きな粘土の固まりを前にして顔をしかめていた佐賀美はこちらの一連の動作を眺めて諦めたように側に置いていた椅子に身体を沈めた。
「進んでる?」
「進んでるように見える?」
「全っ然」
「だよねえ」
 何になるかも決まっていないような粘土を眺めて意味もなく笑い飛ばす。椅子ごとにじり寄って袋の中を漁ると、佐賀美も気になったのか顔をのぞき込ませてきた。
 イカの薫製、柿ピー、チー鱈、それと多種多様なスナック菓子。飲み物は既に家の冷蔵庫に備蓄させてもらっているのでコップと共に持ってきて机に並べる。
「今日はビールじゃなくて良いの」
「明日仕事早いから」
「なんでそれでここ寄るかなあ」
 クマができた目を少しだけ細めて笑う。大人しくて、感情表現が乏しくて、何を考えているのか分からないと常日頃から言われてきた佐賀美が見せる数少ない表情の変化だ。それでも本人は結構大袈裟にしているらしいのだが。
「んじゃまジュースだけど、乾杯」
「一体何の……ん、」
 疑問の声を上げる前にこちらからコップを軽くぶつけ、なみなみに注いだオレンジジュースを半分ほど一気に飲む。好物である柿ピーを真っ先に取って開けると、動きを止めていた佐賀美がようやくコップに口を付け、ちびりと一口飲んだ。

 佐賀美響と上村和弘は高校の同級生である。サボれそうだからという名目で適当に入部した美術部の部室で出会い、なぜか気が合い一瞬で仲良くなってからというもの、物静かな彼の隣が上村の居場所になっていた。それは高校を卒業し、お互い別々の大学を出て就職した今も変わることはなかった。
 そこそこ普通の大学に進学した上村はそこそこ普通の会社でしがないサラリーマンになった。佐賀美は高校の時からの夢だった彫刻家を目指して美術大学を出てから祖母の持ち家だった廃墟をアトリエとして占拠し、今も作品を作り続けている。
「次のは完成しそうなの」
「もう今から出来ない気しかない」
「そこはもうちょっと頑張れよ」
 しかし完璧主義だからかやる気が持続しないからか、佐賀美は一定期間作り続けたものを突然放棄する癖があった。つい昨日まで熱心に形を整えていたかと思えば、次の日には部屋の隅に転がっていたりする。俗に言うスランプ状態なのだろうが、佐賀美はそれが顕著に現れる。
「お前の作品好きなんだからさ、早く有名になってファン一号名乗らせてくれよ」
 同じ高校に通っていたときから、彼の作品はひとつとして完成したことがない。世に出たことも、他人の目に触れたこともない。
「……じゃあ、もうちょっと……頑張ろうかな」
「そうそう、その意気だって」
 彼が作る作品の本当の美しさは、まだ自分しか知らない。



 まだ街灯が灯っている早朝の道をふらふらと歩く。忌々しい夏が過ぎ去ったものの秋になると今度は日がでている時間が短くなるせいで同じ時間に出勤していてもひどく早くから出勤させられている気分になる。つい先日まで朝が涼しくなった、と気分良く出勤していたはずなのに。
「(年取ったのかなあ)」
 人は二十才で人生の半分を終えている、というのは誰の言葉だっただろうか。
 学生の頃よりも四季が、一年が、物凄い早さで過ぎ去っているような気がする。文化祭の準備にかけた一週間はあれほど長く感じていたのに、休み明けからの一週間の仕事は瞬きするほど短い。雀の涙ほどしか与えられない休みの日はもっと短い。
 流れ作業で定期を見せて改札を抜け、三分後に来る電車をぼんやりと待つ。後二分は家でゆっくりできたと考えるだけで仕事に行く足を止めたくなるほど憂鬱な気分になった。
 ホームに電車が滑り込み、出る人と入る人で一気にごった返す。その波に飲まれないように必死で踏ん張り既に満員状態の車両に身体をねじ込んだ。
 イヤホンから流れる音楽を聴きながら片手で手すりに掴まりもう片方の手で携帯を眺める。会社がある駅までの二十分、何事もなく過ぎ去るいつも通りの無駄な二十分だ。
「……?」
 そうならなかったのは、不運だとしか言いようがない。
「……、」
 どこかから視線を感じて携帯から顔を上げると、斜め前にいるブレザー服を着た高校生らしき女子と目が合う。普通ならば一瞬で逸れるはずのその目はなぜかじっとこちらを眺め続けていた。
 どうしようもないのでこちらから目を逸らし、少し考えてまた視線を向ける。相変わらず一心にこちらをみる女子高生に持っていた携帯の画面を少し隠しながら見せると、泣きそうな顔で小さく頷いた。
「(なるほど、ね)」
 「痴漢?」とだけ書いた携帯のメモ画面に対して頷いたという事はつまりそういう事だ。少し身体を前に出して女子高生の背後を確認すると、彼女の言う通り少し短めのスカートから覗く太ももに男の片手が這うように添えられていた。
 痴漢現場に出くわしたことがないわけではないが、目の前で助けを求められるのは初めての出来事だった。そんなことをされたくなければスカートを短くするなとか、女性専用車両に行けだとか、どうでもいい小言を言いたくもなるがどうにしろ今この社会では欲求に耐えられない醜い男が全面的に悪い扱いだ。当然といえば当然だが。
 目の前の見ず知らずのスーツ姿の男をつつき、面倒そうに顔を上げた男を視線で誘導し同じように現場を確認させる。少し驚いたようにこちらに向き直った男の胸を人差し指で軽く突いた。
「見たね、あんた証言よろしく」
「は、」
 意味が分からない、と言った風に表情を固くした男と女子高生の間に自分の身体をねじ込み目標物である痴漢の手を掴み一瞬で捻り上げた。
「いっ!?」
「……理由は分かるよね?」
 女子高生を背中に隠しながら曲げるべきではない方向に痴漢の腕をねじると、情けない悲鳴が上がった。
「……い、意味が分からない! 急に他人に暴力を振るうなんて、何考えてるんだ!」
 いきなり始まった騒ぎに電車内に居合わせた人たちが何事かと注目し始める。その視線を味方に付けようと先に動いたのは相手の方だった。
「彼が、いきなり私に暴力を!」
「痴漢がよくそんな口叩けるね」
 ざわりと空気が揺れる。どちらの言葉が正しいのか、一目見れば分かる現場だった。目立たせたくなくて背中に庇った女子高生は安堵からか泣き出してしまい、近くにいた女性にあやされている。
「出任せを言うんじゃない!」
「あ、あの〜……」
 どうするべきか無言で男の腕を捻り続けていると、横に立っていた男がそろりと間に入ってきた。
「僕も、見ました。……やめませんか」
 ぐわ、と口を開いた痴漢は少ししてそのまま口を閉じ、先ほどまでの威勢はどこへやったのかと言うほど大人しくなった。見た目が軽そうな自分には勝てそうでも誠実そうな男には勝てないとでも思ったのだろうか。そうであれば、非常に不快な話だ。
 それから程なくして着いた駅で痴漢と証言をした男、それに女子高生も連れて降りる。駅員室に行って事情を説明して、後何をしなければならないのか。どう考えても仕事に間に合いそうにはなかった。
「じゃあ後よろしく」
 痴漢を掴んでいた腕を放しまだ開いている電車のドアにもういちど身体を滑り込ませる。
「え、ちょっと」
「仕事遅れるわけにいかないから、ごめんね」
 ドアが閉まり、ゆるりと電車が動き始める。ガラス越しに彼らがずれていき、窓枠の向こうに消えたところで目を閉じた。
 面倒事から目を背けるつもりはないが、必要ないことにまで巻き込まれるつもりもない。後は彼らだけで何とかなるであろうし、痴漢を捕まえていて仕事に遅れたなどと笑われそうな理由を上司の前で言いたくもなかった。
 会社に着くまではあと三駅ほど。今度こそ何も起きないようにと腕を組んでドアに身体を預けた。



「それで?」
「それだけ」
「本当にそこで放り出したんだ……カズらしいというか、なんというか」
 目の前の男はこちらのオチもない話に苦笑しながらポテトチップスをほおばり、時折氷しか入れていない焼酎をちびりと飲む。先日は全く形をなしていなかった粘土は少しだけ人の形に近づいていた。
「普通はそこで恋愛ドラマが始まりそうなんだけど」
「こんなおっさんが高校生と恋愛なんて、勘弁してよ」
「それもそうか」
 何本目か分からないビールをあおりながら壊れた思考で引き笑いを繰り返す。
「あー……でも、あの女の子には会ったな、今日」
「へえ」
 興味深そうに視線を向けてくる佐賀美を机に肘を突いた状態で至近距離から見つめ返す。
「……どうなったと思う?」
「お礼言われて、終わりとか」
「飯誘われた」
「えっ嘘だ」
 驚きからか佐賀美の目が見開く。恋愛ドラマのくだりを自分から言い出したくせに本当にそんなことになるとは思ってもいなかったのだろう。近すぎた顔を離して背もたれに体重をかけ浮いた足を組む。
「まあでも一年生だとしても十も離れてないし……卒業したら可能性はある年だよね」
「進学希望の受験生だよ。七歳差」
 つい先ほどまでの驚きはどこへやったのか、というほど興味津々に話に首を突っ込んでくる佐賀美の視線から逃げるように目を閉じてひとつ息を吐いた。
 こいつのこういうところは少し嫌い、かもしれない。
「でも進学希望って事はなかなか手出せないよね。カズ耐えられないんじゃない?」
「まだ誘い受けたとは言ってない。ていうかなんだその俺が我慢できないケダモノみたいな言い方は」
「まあまあ。……もう俺たちだってこの先出会いが減る一方なんだし、最初から自分のこと好きな人がいるなら捕まえておいて損はないんじゃない?」
 いつだってこの男はそうなのだ。上村に女の気配がある度にそれがどんな人間であろうと祝福して応援しようとする。得意ではないくせに関係を取り持とうとする事も多々あった。その度に上村がどんな思いでその言葉を聞き流しているのか、きっと佐賀美は知らないのだろう。
「俺はお前といる方が楽しいよ」
 机の上に広がっている菓子や空き缶を雑に避けて机に突っ伏する。木製の机は丁度良い冷たさで火照った肌を冷やしてくれた。
「……カズ、酔ってるでしょ」
「さっさんに言われたくない」
「友達といる楽しさと恋人といる楽しさは天秤にかけちゃ駄目だと思うんだけど」
 何も言い返さなかったことを褒めて欲しい。
「カズ? ……もしかして寝たの、ねえ」
 長い間友達として生きてきたが、上村は佐賀美を友達だと思ったことはない。女に向けるべき感情を出会った瞬間に佐賀美に向けてしまってからずっと、今も変わらないままだ。
「寝るなら布団敷くからさ……ここで寝たら体痛めるよ、ねえカズ」
 自分が女だったら。佐賀美が女だったら。女子高生のようにドラマチックな出会いをしていたら。この世界が男女で組むように出来ていなければ。
 自分のこの感情は、気持ち悪いものにはならなかったのだろうか。
「……カズ、」
 苦し紛れに閉じた目から、ほんの少しだけ涙が零れた。



「(本当に寝た……)」
 狸寝入りだったことには薄々感づいていたが、ほんの少しして規則的な寝息が聞こえるようになってからは、揺すっても叩いても何の反応も返ってこなくなった。
「……カズって、ずるい人だよね」
 くせのない髪に指を差し込んで撫でる。それだけで酒のせいで高くなった体温が指先に伝わってきた。
 上村は昔から自分と違って友達を作ることが上手い。それなのに女性との関係は後一歩で上手くいかないことが多かった。最終的な彼の押しの弱さが原因だと思うのだが、それを指摘するとすぐに彼は拗ね、挙げ句の果てに自分といる方が良いと話題を逸らして終わらせてしまう。
「期待しないようにするの大変なんだよ」
 初めて出会ったとき、最初は口うるさい面倒な奴だと思っていた。クラスの中心にいるような、一等嫌いなタイプの人種。しかし少し話をしただけでそんな固定概念は脆くも崩れ去った。
 陰鬱に作品を作り続ける自分に「すごい」と、感情表現が乏しい自分に「そばにいて落ち着く」と、作品に嫌気が差してすぐに投げ出す自分に「お前の作品好きだよ」と、いつだって自分が一番欲しかった言葉をまっすぐに伝えてくれた。大多数から否定されてきた佐賀美響という人間を、上村だけはそのままで受け入れてくれたのだ。
 それで友情を飛び越えて好きになるなと言う方が難しい。
「はやく、どこか行ってくれればいいのに」
 同じ大学へ行かなければ、同じ場所にいなければ、自然と離ればなれになると思っていた。そうなれば、どこでも生きていける上村は自分のことなど放っておいて別の場所で上手くやっていくのだと思っていた。
 それなのに。
「こんなに無防備にさ……既成事実作られても、文句言えないよ」
 コップに残っていた焼酎を一口飲み、それでも一気に飲むには多くて、またほんの少しだけコップの底に残った液体を目の前で揺らす。喉から胸にかけて熱いものが下っていくのが分かったが、自分自身が酒に強いせいか頭も体も一向に熱くなることはなかった。
 熱が回れば、彼に手を出す勇気も出たかもしれないのに。
「……カズ、布団行こう」
 返事が来るはずもない体に声をかけ、立ち上がって上村の腋の下に手を差し込んで持ち上げる。反射的にか起きているのか、嫌そうなうなり声が聞こえたが無視して担ぎ上げ、一階まで上がり客間兼寝床に広がったままの自分の布団に押し込んだ。
「……れだから、さっさんは」
「え?」
 いきなり呼ばれた名前に反射で顔を向ける。しかしただの寝言だったようで、幸せそうな寝顔のまま布団の中に潜っていった。
 客用の布団を適当に広げて横に敷き、上村と同じように中に潜る。家政婦が干したままのその布団は普段寝ているそれと違って柔らかく、暖かいにおいがした。
「(こっちにカズを押し込めば良かった)」
 自分の布団は家政婦がこない限りシーツすら洗濯機に入ることはないので、もう二週間ほど佐賀美の汗や脂を回収しているはずだ。率直に言うとかなり汚い。そんなものに友人を押し込んだ罪悪感は少しあったが、先に寝た上村が悪いと責任を押しつけて目を閉じた。
 大学が違っても、彼だけが社会人としてまっとうに生きていても、佐賀美はいつまでも上村の隣にいた。飽きもせずとなりに居続ける彼にどこかへ行けとは言えなくて、ひとりぼっちの自分に差し伸べられる手をはねのけることはできなくて。
 甘えだと言われればきっとそうなのだろう。さっさとどこかへ行って欲しいと思ってきながらいつだってただ逃げたふりで、それでも追いかけてきてくれたのを良いことに上村を拘束し続けているのは佐賀美の方だ。
 何年経とうが、お互いが大人になろうが、いつまでも自分は彼の言葉に、優しさに、甘えて生きている。