このお話の登場人物
〇三本奏多(みつもとかなた)
〇高崎そら(たかさきそら)


 昔から泣き虫だとよく揶揄われたことがあるが、実際にその通りだと思う。嬉しいときも、悲しいときも、喜怒哀楽が顕著に出たかたちがすべて涙になるのだ。
 男なのに情けない、とよく言われた。すぐに泣く自分が疎ましいからか、あまり友達は多くなかった。そのことがかなしくてかなしくて、小さい頃は笑った顔を見たことがなかったと笑い話にされるほどによく泣いていた。
「泣き虫くん、こんなところでどうしたの」
 みんなから避けられひとりぼっちで泣きながら歩いていた帰り道、小学生の自分には眩しいブレザーの制服を着た青年は、そう言って止まることを知らない涙を拭ってくれたのだ。何度も、何度も、滅多に自分に向けられたことのない優しい笑顔で涙を拭って。嬉しくてまた流れる涙を一粒残らず丁寧に取り払ってくれた。
 どこの誰なのかも知らない彼が数ヶ月前に近くに引っ越してきた家族の一人息子だと知ったのは、それから数日経ってからのことだった。父親の転勤で引っ越しが決まっていたのだが、数ヶ月だけ残っている高校生活を別の場所で過ごすのも悪いから、ということで彼だけ遅れて家に来たらしい、と言うことを知ったのはもっと後、母親の噂話を小耳に挟んだときのことだ。
「俺の名前は三本奏多。よろしく」
 当然のように向けられる笑顔が嬉しくて、口上だったとしてもよろしくだなんて言葉がもらえることが嬉しくて、どうしようもなくて、また泣いた。何度泣いても、彼はあたたかい大きな手で、何度だって涙を拭ってくれた。
 結局二年ほどだったときに自分の引っ越しが決まり、それ以降彼とは会っていない。連絡も取っていない。連絡手段もなければ遠く離れた自分を覚えていてもらえる自信もなかったのだ。
 人生で一番泣いた別れの日から、自分を悩ませ続けた涙は突然一粒もこぼれなくなった。それはとても喜ばしいことだったが、涙と共にすべての感情もまた、何処かへ消えてしまっていた。


 だから、こんな時だって涙は一粒もこぼれない。

「今日はどうする? 私のところで良ければ泊めてあげられるけど……」
「……大丈夫です。ここに、います」
 ぴくりとも動かない両親をぼんやりと眺める。ついさっきまで元気に動いていたのに、今日は久々に夫婦水入らずでデートをするのだと張り切っていたのに、朝御飯を食べて学校に行くそらに行ってらっしゃいと声をかけてくれたのに。
「……そう?」
 明らかにほっとしたような顔で名前もよく知らない親戚の女性は一つ二つ言葉を残して足早に去っていった。
 一人っ子同士の両親の母方の祖父母はまだそらが生まれない頃に亡くなった。父方の祖父は早くに亡くなり、そのショックで認知症になり施設暮らしを余儀なくされている祖母が唯一の直系の親戚だ。先ほどの女性は、その祖母の兄弟の息子のお嫁さん、らしい。数時間前に自己紹介をするまでは、そんな存在が居ることすら知らなかった。
「……トラックの運転手、捕まったって」
 線香の匂いは既に鼻が麻痺して感じなくなった。無音を解消するために付けられたままのテレビの音が響く。暖房は付いているのに、体の奥底から冷え切ったまま体が温まってはくれなかった。
 高崎そらは、両親の突然の死と共に突然この世界にひとりぼっちで放り出された。
「……また、ひとりぼっち」
 涙が出なくなったからか友達は増えたが、本当の意味で友達と呼べる人は小さい頃よりも減った気がした。主な原因は自分の感情の欠落だ。嬉しいも悲しいも無くなった自分自身はずいぶんと扱いづらく、これならきっと泣き虫だった頃のままでいた方がずっと良かった。
「…………」
 心は全力で泣きたがっているのに、何かがそれを邪魔する。泣く場所はここではないと、こんなところで泣いても誰も助けてはくれないと、何かが自分にそう告げる。
 じゃあ誰の元で泣けと言うのか。
「……みー、くん」
 あたたかい大きな手が、優しく包み込んでくれるような声が、日だまりのような笑顔が、不意に記憶の底から溢れだした。それはとどまることを知らずに、幼い記憶と一緒に次々と溢れてくる。
 あいたい、と。
 そう気づいたときには、部屋を飛び出していた。

***

 財布の中身を使い果たしてもまだ少し足りなかった切符代は、子供の頃から貯金していたお年玉を使った。それでも片道で、戻るためにいる同じだけのお金は口座から下ろさなかった。帰らなければいけないという現実はまだ見たくなかったのだ。
 制服に学校用のリュック、それだけの装備で電車に乗り込んだ。学校から急に来た連絡のまま病院や葬儀場を転々としたせいで家に寄ることもなかったのだ。用心深い母親のことなので家の鍵は気にしなくても良いが、その閉められた鍵を自分が開けなければいけないなどと、そんなこともう思考の隅にも置きたくない。
 流れる景色が何度も都会と田舎を繰り返し、電車を何本も乗り継ぐ。一度も乗ったことがない駅ばかりだったのに、不思議と迷うことはなかった。
 冬のせいか高い位置にあったはずの陽は気づいたときには沈んでいた。それでも時計を確認すると夕方にさしかかったほどで、時間とは裏腹に焦燥感にかられた。しかしその焦燥感も乗っている間に薄れた。急いだってもう自分にはなにもない。
「次は――駅、――駅、乗り換えのお客様は……」
 暖房の暖かさについ微睡んでいたが、ずいぶんと昔に耳になじんでいた駅名を聞いて思わず身が竦んだ。ついに来てしまった。
 抱きかかえていたリュックを背負い、財布にしまっていた切符を握りしめて電車を出る。途端に肌を刺すような冷気に襲われたが、マフラーに顔を埋めて一歩を踏み出した。
 記憶の端に残っている彼の住まいへ進む。一人立ちするために一人暮らしを始めたからと自慢げに紹介された実家からさほどと遠くもない場所に建つ小さなアパートの一室。あれから十年も経っているのに今もまだ同じ場所にいる確証はなかったが、もう頼れるものはそれしかなかった。
「……あった」
 アパートの入り口で名前を確認すると、十年前と変わらない場所にその名前があった。
「みつもと、かなた……さんまるごごうじつ……」
 彼の居場所は三階の端の部屋だ。階段を踏みしめ、くるくると何度も方向転換を繰り返す。目の前に三○一号室があるのを確認してからその階の奥へ進んだ。
 明かりは付いていなかった。チャイムの反応もなし。鍵も開いていない。誰がどう見ても分かる留守だった。
「……みーくん」
 ドアノブに意味もなく触れ、開かないと分かっているのに途中で引っかかるそれを何度も回す。しばらくの間ゆるゆるとそれを繰り返していたが、鉄製のドアノブを持ち続けたことで手は真っ赤になっていて、痛みを通り越して感覚が無くなっていたことにようやく気づき、手を離してドアに背を付けて座り込んだ。今度は足下から冷気が浸食してきたが、それに抵抗はしなかった。
 苦し紛れにマフラーに顔を埋め、自分の息で暖をとる。足のつま先からだんだんと感覚が無くなっていって、ふくらはぎのあたりまで冷たくなった辺りで諦めて目を閉じた。


「……誰?」
 小さくこぼれたその声に顔を上げる。どうやら寝こけていたようで、視界の端に映る空には星が瞬いていた。
「……あ、」
 空を見ていた視線を反対側へ動かすと、片手にビニール袋を下げた男がそらを見下ろしていた。まじまじとみなくとも、すぐにそれが誰か分かった。
「……もしかして、そらくん?」
「……みーくん」
 きちんとたどり着けたことに対する安堵、会えないのではないかという恐怖、見た瞬間すぐに分かってくれた喜びがすべてごちゃまぜになって、十年もの間張りつめていた涙腺がするりとゆるむのが分かった。
「え、ちょ、どうしてここに……ってどうして会った瞬間泣くの」
 駆け寄ってきた奏多の手が真っ先に自分の頬へ当てられる。その瞬間驚いたように一度引っ込んだが、すぐに持っていたビニール袋を腕に通し、両手で頬を包み込んだ。
「すごい冷えてる。いつからいたの?」
「わかん、ない」
「わかんないって……とにかく家に入ろう、風邪引くよ」
 頬を擦って涙を拭われる。腕を引かれ立たされると、手をつないだまま片手で鍵を開け、何度試みても開くことの無かったドアを簡単に開けてそらを部屋の中へ引き込んだ。
「暖房付けとくから、とりあえずお風呂入って暖まっておいで」
 石のように動かないままでいるそらをまるで子供を相手するかのように軽やかに動かしていく。タオルと着替えを渡され風呂場に押し込まれてしまえば、もうそらに抵抗する術はなかった。


「……そっか。大変だったね」
 丈の合わない大きな服を着て、暖かい部屋でちょうど手になじむぬるめのココアを手渡され、気づけば今まで起きた出来事を全て話していた。奏多はその言葉を途中で遮ることなく、最後まで静かに聞いてくれた。
「車出すから、葬儀場まで戻ろう」
「……え、」
 突然突き放してくるかのような発言をした奏多を見ると、言葉とは裏腹に優しい顔をしていた。
「俺もお世話になった人たちだから、最後の挨拶くらいしたいんだ。それにそらくんの話を聞く限り今は誰もいないんだよね? 俺も一緒にいるから、お母さんたちと一緒にいてあげよう」
 大きな手でやんわりと頭をなでられると、また涙腺がゆるんだ。
「みーくん、一緒にいてくれる?」
「ちゃんと一緒にいるから、安心して」
 奏多が椅子に座っているそらの前にしゃがみこんで両手をつなぐ。まるで子供のような扱いから変わっていないことに少なからず不満を覚えたが、そのぬくもりがどうしようもなくあたたかくて、喜怒哀楽の全てを涙で表現していた十年前のように涙が溢れて止まらなくなった。その涙を見て彼はまた困ったように笑う。
「昔っから本当に泣き虫だね、そらくんは」
 違う、という言葉はもう紡げなかった。奏多と会っていない間、どれほど自分が冷めた人間になっていたか、両親の死にも泣けない人間になっていたかなど、伝えたところで意味はない。
 ただ、その手が必ず溢れる涙を拭ってくれると分かっているから、涙を忘れた自分の目から今これだけの涙が出るのだとようやく気が付いた。