2017.5.5発行「花は口程に物を云ふ」より抜粋

このお話の登場人物
〇小原志月(おはらしづき)
〇小野田渉(おのだわたる)


 好き、だったのかもしれない。
 無造作に束ねられているのに綺麗にまとまっている髪も、毎日花を触っている生活なのに一切荒れない美しい手も、花を生けるとき伏し目がちになるとよく分かる長いまつげも、かと思えばすべてを見透かすように向けてくるまっすぐな視線も、彼はすべてが美しかった。
「……手が止まっていますよ」
「え、あ、すいません」

***

 小野田渉が中学卒業と同時に飛び込んだ世界は、スポーツでも勉強でもなく、華道だった。家元でもなく、特に両親が進めたわけでもないのに何故華道などという世界に、それも自分から飛び込んだのかという話をすると、長くもない単純な話である。
 小学校四年生、後に人生の転機と語るこの日、渉は花好きの母親に連れられていけばな展へと向かった。その日は家元とその息子の作品も展示されるという事もあってか人が多く、まだまだやんちゃ盛りだった渉はあっという間に母親とはぐれ、好き勝手に探索を続けていた。
 どの展示も渉にとってはただの花の固まりで、特に興味を持つこともなく暇を持て余していたのだが、たった一つ、異彩を放つ作品の前で何故か足が止まった。大きなユリの花が一つぽつりと生けられていたその作品に、知らずのうちに心を奪われていた。
「……何してるんだ、迷子か?」
「え?」
 迷子、という単語に思わず顔を上げると、すぐ横に制服を着た若い男が立っていた。
「大方親に連れてこられたってとこか……可哀想にな、花なんて見ても楽しくないだろ」
「うん、面白くない」
 男の言葉に正直に応えると、一瞬目を丸めたがすぐに面白そうに声を潜めて笑った。
「でもね、これは好き」
 目の前の一輪のユリを指さす。男は一瞬そのユリへ視線を動かし、固まった。
「……そう、か」
 それきり何も喋らなくなった姿を見て不審に思い顔をのぞき込もうとすると、突然頭をぐしゃぐしゃにかき回され、抱き上げられた。一気に視界が晴れて、先ほどのユリを上から見下ろす形になる。そこでようやく、ユリの他にも小さな花がいくつか生けられていることに気が付いた。
「これは、俺が作ったんだ」
「そうなの?」
 言葉は発さずに一つ頷く。その目はまっすぐに一輪のユリの花へと向けられていた。
「お兄ちゃんすごいんだね」
「他の人は褒めてもくれないけどな」
「なんで?」
 こんなにすごいのに、と言葉を続ける。しかし男は曖昧に笑うだけで何も言ってはくれなかった。
 本当に、心の底から素敵だと思った。こんなにも心を奪われるものを作り出すことが出来る世界があるのだと、幼いながらに思い知ったのだ。
「決めた」
「ん?」
「俺、いけばな作る人になる」
「……は?」
 ずっとユリに向けられていた目がこちらを向く。吸い込まれそうなほどに、その瞳は真っ黒だった。
「どうやったらこれ作れるの?」
「いや、それは、家元に弟子入りしたり、教室に通ったり、色々あるけど……って待て、お前」
「分かった、じゃあ俺お兄ちゃんに弟子入りする!」
 大きく放ったその言葉のせいか、会場が一瞬ざわめいた。しかしそのざわめきは収まることを知らず、最終的に騒ぎに駆けつけた母親に取り押さえられてしまい、男とはそれ以上会話を交わすことは出来なかった。

***

 それからというもの、中学卒業までに親を必死に説得し、弟子入りしても勉強は怠らないという約束で高校進学を諦めてもらい、卒業と同時に家元の門を叩いたのはまだ記憶に新しい。
 結局まだ弟子を取り始めてもいなかった当時学生だった彼、先生こと小原志月にも無理を言って、苦難の末ようやく一人目の弟子になれた、ということだ。
 昔は何も知らなかったとはいえ次代家元と名の高い今の先生とのファーストコンタクトがよりによってあれかと思うと、正直胃が痛むし昔の自分を殴りたくなる。
「渉君、菖蒲の花言葉は?」
「えっ!? えっと、ううん……」
 考え事をしていたことがばれたのか、先生は持っていた菖蒲をこちらへ差し出して唐突に問題を投げかけてきた。よく不意打ちで開催される花言葉問題だ。
「……時間切れです。貴方は本当に不意打ちに弱いですね」
 そう言ってふ、と笑う先生から思わず目が離せなくなる。和服からにじみ出る色気も、端正な顔を緩めて笑う姿も、すべてが毒のように渉の体を蝕んでくる。それなのに決して苦しくはなかった。
「……さあ、菖蒲の花言葉は?」
「優しい心、です」
「正解です」
 先ほどの笑い方とは違う、楽しそうな笑いをみせる。表現するとすれば、子供を褒めるようなそんな眼差し。
 昔こそ少しくすぶっていたらしいが、今では出品すれば必ずと言っていいほど賞を取り、たくさんの人を虜にしてきた天才と呼ばれる先生は、その美しい容姿もあってかそういう方面の噂も多かった。
 虜にされた渉もまた、引きずり込まれるように先生に惚れてしまったうちの一人に違いはないのだが。
「……諦め」
「?」
「菖蒲の他の花言葉、ですよね」
 最初から叶うはずがないと分かっていた。先生に惹かれた人たちがどういう人たちだったかはよく分からないが、全員が女の人だったことは確かだ。当然のように先生に近づくことが出来る権利を持っている彼女たちですら懐に入り込めなかったというのに、男であり弟子である渉がそこに入り込めるはずがない。
「よく勉強していますね、感心です」
 子供を相手するように頭を撫でるその手が気持ちよくて、ついつい目元がゆるんでしまう。思わせぶりだとは思うが、こういう行為はきっと、すべて渉が幼い故にする行為なのだ。
 出会った頃とは違う喋り方に所作、今年で二十三歳になる彼にとって中学を卒業したばかりの渉はただの子供としてしか認識されない。
 分かっている。七つも年が離れているのに、まだ子供としての思考が抜けきっていない渉を弟子として迎え入れ、厳しく指導しながらもたまに甘やかしてくれる、それだけで十分すぎるほど貰っているというのに、それ以上を望む事こそがおこがましいことも、分かってはいるのだ。
「……そろそろ時間ですかね。ご飯にしましょう」
 頭の上に乗っていた手が離れて目の前にあるたくさんの花や道具をてきぱきと片づけていく。まだ少し温もりが残るそこを寂しいと思う気持ちを振り払って、渉も片づけを始めた。

***

 先生の弟子は渉一人だが、なにも彼の家の弟子が一人だというわけではない。先生の父親、更にその父親と歴代の家元を継いでいる彼らの元には両手の指を何回折って再び立てても終わりが見えないほどの弟子がいる。日本でも有名な流派なので、それほどの弟子がいてもまだまだ希望者が後を絶たないほどだ。
 先生は若さ故に弟子を取らないことで有名だったそうだが、その話も渉がへし折ったのだ。少なからず先生の元に弟子が流れるかと思っていたのだが、今のところどうやらその気配はないようだ。
「文代さん、じゃがいもここに置いときますね」
「ああ、ありがとうね」
 納屋から持ってきた籠いっぱいのジャガイモを机の上に置く。毎朝おなじみの光景とはいえ、これだけ大量の材料を朝から平然と使う家元の妻たちはいつ見てもすさまじい。三世帯同居の上渉のような住み込みの弟子も数えると家の住人は十を越えるので、一応妥当な量ではあるのだが。
 何人か数えるのも億劫になるほどいる弟子の中でも、住み込みで生活している人はやはり少ない。弟子、といっても大半の人が趣味の域を抜けないので、渉と同じ境遇の弟子のような、本気で極めるつもりの人間しか住み込みで生活することは許されていないのだ。余談だが渉の他はもちろん全員女である。師は全員男なのに少し不思議な話ではあるが、基本的な男女比はそんなもの、らしい。
「何かすることありませんか?」
「そうだねえ……今は特にないから志月を呼んできてくれる?」
「分かりました!」
 朝ご飯の準備も終わったところで先生の呼び出しを命じられ、恐らくもう起きているであろう先生の元へと向かった。
 純和風、としか言いようのない大きい屋敷の中は一般人が入ってしまえば二度と同じ場所には戻れないと噂されるほど、外見に違わず廊下も部屋も多い。その中でも最も奥、北側に位置する少し冷える場所に先生の部屋は存在する。最初の内は何度も迷った挙げ句先生に救出される、というへまばかり踏んでいたが、数ヶ月たった今では先生の部屋に行くことなどたやすい。目を瞑っていてもたどり着ける自信がある。
 曲がり角だらけの廊下をすいすいと進み、先生の部屋の前で止まり、ふすまの前で膝を付く。もうそろそろ暖かくなってくる時期とはいえ、早朝の北側の間はまだ肌寒く、膝を付くと足元から冷たいものが這い上がってくるような気分になった。
「失礼します、小野田です」
 その言葉にいつもは返されるはずの返事がない。不思議に思いもう一度声を掛けてみるが、それにも何の反応もなかった。
「……先生?」
 まだ寝ているのか、と思いふすまを細く開ける。そこには予想通りまだ布団の中にくるまっている先生の姿があった。
「先生、朝ですよ」
 部屋の外から少し大きめの声を出してみるも、それにすら反応しない。いつもならこれだけ声を掛ければ起きるはずなのに、一体どういう事なのか。
「……入りますよ」
 一言断ってから敷居をまたぐ。布団の側にしゃがんで膨らみにそっと触れ、一瞬迷ったが力を込めて揺すった。
「先生、もう朝ご飯の時間ですよ」
 何度か大きく揺すると、ようやく頭の先しか見えていなかった布団の切れ目から先生が顔を覗かせた。寝起きのせいか薄くしか開いていない目がもう一度閉じてしまう前に声を張る。
「先生、一体どうしたんですか? そろそろ文代さんに怒られますよ」
 彼が最も恐れる祖母の名を出すと、さすがにそれには反応した。
「……ああ、すみません。なんだか頭が重く、て」
 緩慢な動きで上体を起こした先生の体がそのまま倒れそうになるのを慌てて支えようとすると、逆にその手を取られて先生もろとも後ろ向きにひっくり返った。
「うわあっ!?」
 一般人よりも細身とはいえ、自分よりも十五センチも大きな体が覆い被さってくるとさすがに抵抗することができず先生の体に潰される。なんとか這い出そうと肩を押すも、その手も取られて畳に押し付けられた。
「せんせ、っ!?」
 いつにも増して色のない目で射抜かれた次の瞬間、反抗の声を上げようとした口はあっけなく塞がれた。少し遅れてから塞いでいるそれが先生の唇なのだと気が付いた。
 驚きに目を見開くと、ぼやけるほど近くに先生の顔が映る。しばらく呆然とそれを眺めていたが、先生の舌が口内に入りこもうと渉の唇を舐めた瞬間、渉の体は無意識に先生を突き飛ばした。
「っ、先生、何してるんですかっ!」
 先生が体を浮かせたタイミングで彼の下から這いずり出る。乱れた呼吸を直そうと必死になって深呼吸を繰り返している間も、先生は一切動く気配もなければこちらを見ることも、言葉を発することもない。
「……せ、先生?」
 違和感だらけの先生に気まずくなって声をかけてみるも、これといった反応は無い。どうするべきか悩んでいると、先生はまたふらりと大きく傾いて、そのまま布団へと倒れこんだ。
 慌てて駆け寄って先生の顔を覗き込むと、先生は両目をしっかりと閉じて眠っていた。寄せられた眉根に少し赤い首元。額に手を添えると、子供体温だと馬鹿にされる渉の手ですら熱いと思うほど熱を持っていた・
「……体調悪かったんだ」
 思い返せばおかしいことだらけだったというのに、今の今まで体調不良を疑わなかった自分自身が恥ずかしい。これでは弟子失格だ。
 下敷きになっている布団を引っ張り出して、先生の体がきちんと全身入るようにかけなおす。
「(……先生、なんであんなこと、俺にしたんだろう)」
 まだ熱が残っている錯覚すら覚える唇を指でなぞる。押し付けられた先生の唇の感触も、舐められた舌の感触も鮮明に思い出せる。思い出すたびに途方もなく恥ずかしくて、空しくなる。
 誰に、しているつもりだったのか。
 そんなもの分かるわけがない。たった一人の弟子といえど先生の恋愛事情まで管理しているわけではないのだ。そういう方面でも噂が絶えなかった先生が、その中の一人に好意を抱いていたとしても不思議ではない。そしてそれは、何があったとしても渉ではない。
「ずるいなあ……」
 自分は先生でなければ駄目だが、先生は違うのだ。先生は普通の人で、男で弟子である渉の事をわざわざ好きになることはない。そこまで分かっているのなら高熱で意識が朦朧とした先生が渉を誰かと間違えて、現実と夢を間違えて、単純な思考回路でキスをしたという仮説は成り立つ。むしろ、それしかありえないのだ。
 それなのに、キスされたことがどうしても嬉しいのだ。
「……ずる、い」
 力なくぽすりと一度布団の上から先生を叩く。これ程までに心をかき乱してくるくせに、子供としてしか見てくれないことが、渉が知らない先生がいることが、どうしようもなく苦しくて腹が立って、愛おしかった。

***

 それから実に三日間が経過した。結局先生は熱が治まらず、稽古のしようがなかった渉はこの期間、先生の父親である雅人から稽古を受けている。
 先生にはどうやらキスをした記憶がなかったのか、再び目を覚ました時も傍にいた渉に何かを言うことはなかった。
「すみませんね、こんなことになってしまって」
「気にしないでください。こういう時くらいしっかり休むべきですよ」
 持ってきたお粥を一杯分お椀にとって手渡すと、先生は落とさないように両手でゆっくりと受け取った。猫舌なのかすぐには食べようとせず、レンゲでゆるゆると中身をかき回す。
 先生がご飯を食べきるまでは食器を片付けることができない。せめて気まずい空気を作らないように部屋の換気でもしようと腰を上げようとすると、目だけで制されてしまったので、大人しくその場にもう一度腰を下ろした。
「あまり私に構うと渉君に風邪が移ってしまいますよ」
「お、俺は丈夫なんてこれくらい大丈夫ですよ」
 キスをしても移らなかった風邪が今更移るはずがない、などと言えるはずもなく苦し紛れに言葉を返す。
 少しずつお粥に口を付け始めた先生を何をするでもなく眺めていると、不意にその目がこちらに向いた。視線を逸らすこともできずに見つめ合っていると、先生は何かを懐かしむように少し目を細めた。
「……大きくなりましたね」
「え?」
 そのまま片手が渉の頭に乗せられ、犬でも愛でるかのように撫でられる。
「少し、癖っ毛なんですね」
 でも柔らかくて、触り心地が良い。
 いつもより弱っている先生の、抑えられた声で紡がれる言葉が想像以上に渉を惹きつけ、同時に締め付ける。
 何も考えていない故の行動だと分かっている。彼の感情のすべては幼子を甘やかすそれだと、一片の恋愛感情すら入り込む隙もないほど彼の対象から外れていると、分かってはいるのだ。キスの一件でそれを思い知らされたはずだというのに。
 それでもどうしようもなく、望む自分が、まだいる。
「ご飯、食べられるだけ食べてください。後でまた取りに来ますから」
 先生の手から離れるように立ち上がり、横に置いていたお盆を先生のすぐそばまで寄せ、極力先生を視界に入れないように逸らしながらそそくさと部屋を出た。
 襖を閉めてから壁伝いに歩き、邪念を取りはらおうと頭を振ったが、苦しさの方が込み上げてきてその場にしゃがみ込む。
 あのキスを先生は覚えていない。だからきっとすべては渉の見る世界が変わっただけであり、思い違いなのだ。あれ以降先生が厭に優しくなって、事あるごとに触れようとしてくるのも、すべて自分の思い過ごしで、きっとまだ熱に冒されているせいで一番身近にいる渉に甘えてくれているだけなのだと。
「だから早く治まれ動悸……」
 先生の傍にいるだけで心臓がうるさい。このまま心臓が破れて死んでしまうのではないかと思うほどに。
 好きで、好きで好きでどうしようもなくて、それでもこの手はこれだけ近い距離にいる彼に向けることも、触れることも許されていない、そんな恋で。
 それなのにまだ、先生の唇の感触は離れてはくれない。

***

「別にあいつが寝込んでるときくらい休んでもいいのに、渉君は律儀だね」
「先生に雅人さんに習えと言われたので休むわけにはいきません」
「我が息子ながらスパルタ教育……じゃあ、いつも通り自由に生けて良いからね。後で見に来るから」
 そう言って雅人は渉の前から離れ、部屋の前の方に戻ると、弟子たちを前にいつも通り説明を始めた。習う師が違う渉はその説明を聞く必要はないが、先生とは全く違う指導というのも興味深く、手元の花を選り分けながらその声に耳を傾ける。
「(……お弟子さん、多いな)」
 長机に同じ生け花のセットがいくつも並んでいて、当然その前に同じだけの人が並んでいる。その人たちの中には雅人の年すら超えていそうな年配の女性や、夫婦で参加しているのか男性の姿も見える。しかしそのどれもが昨日とは違う顔ぶれだ。つまり、毎日これだけの人数を一週間もしくは隔週で回してなお希望者が後を絶たないほど彼は有名なのだ。
 端の方で雅人の弟子とは違う種類の花を指先でいじりながら横目で他の弟子たちを覗き見る。今でこそ先生の弟子は渉一人だが、それもいつかは今見ている光景のようになってしまうのだろう。そうなってしまえば、渉は大勢の弟子の中の一人だ。住み込みというところは他の人より少し突出できているだろうが、それも先生の住み込み弟子が増えた時に、特別ではなくなる。
 これが、現実だ。渉は特別などではない。当然のように注がれていた愛情は、いつか分散して露ほども貰えなくなるのだろう。今の彼の実力なら、きっとそうなる。そしてその時の流れを、渉は止めることなど出来ない。
「……あれ?」
 メインで使いたい花、周囲に寄せたい花、使うべきではない花、もう深く考えずとも選り分けることができる手が不意に止まる。
 世界に数え切れないほど存在する花は実のところ愛を意味する花言葉を持つ花が多い。となると選り分ける花の中でいくつか愛の花言葉をかぶせて選んでしまうことも少なくはないのだが、今手元にある花は、ほぼすべてが愛を司る花ばかりだった。
 危ない、と内心で息をつく。心が乱れていると花は全くと言っていいほど応えてくれない。自分のすべてを捧げて、花一つ一つの心を汲んで、そうして花はお互いが歩み寄って一つの作品となるのだ。自分勝手な理想ばかり、心ばかり押し付けていては、花はただの花の集まりになる。
「(……なんとかしないと)」
 選り分けた花を元に戻し、深呼吸をしてからもう一度選り分ける。今度は偏らないように、すべてに気を配って丁寧に。
 それでも少し多くなった愛の花は諦め、花々が一番輝ける向き、形を考えながら作品を形作っていく。
「(……先生、)」
 集中しているはずなのに、気付けば頭の中は先生のことでいっぱいだった。ふとした瞬間に唇に感触が戻ってくるせいで心臓は無駄に駆け足になり、それなのに心は何故か研ぎ澄まされていく。最初から分かりきっていたこと、望む場所はただ一つ。
「お、渉君今日は一風変わった生け方だね」
「え、」
 いつの間にか目の前に来ていた雅人が面白そうに渉の手元を眺める。言われてようやく自分の手元に焦点を当てると、先生の作風である洗練されたシンプルな作り方とは違い、目の前に鎮座しているのは、可愛らしさを全面に出したようなボリュームのある作品だった。
「溢れる思いが止まらないって感じだね」
「えっと、その」
「……そうか。渉君、誰かに恋でもしてるね?」
「へあっ」
 にこにこと笑みを絶やさない雅人の口からとんでもない爆弾発言を投下されてしまい、思わず変な声を出してしまう。その反応を見て雅人は確信したのか、いっそう笑みを深める。
「そうかそうか、まあ今は青春真っ盛りだしね。本来ならまだ学生だし、良いと思うよ」
 誰か、などと不躾なことを聞いてこないところはさすが出来ている人間と言うべきか。しかし野次馬根性は少なからずあるのか、弧を描く口元が収まることはなかった。
「あ、あの、このことは先生には……」
「もちろん言わないよ。あいつはこの手の話は理解しきれないだろうからね」
 この気持ちは決して外に出してやるつもりなど無い。それならば最初から出てこないように蓋をするか、跡形もなく消し去ってしまう方が楽だ。今はまだ消し去ることなど不可能に近いが、奥深くに仕舞いこんで蓋をすることはできる。
 花に託した想いだけを昇華させ、醜く歪んだ欲には蓋をする。そうすれば、全てが楽になると思った。

 あの作品を作ってから、不思議なことに渉は落ち着きを取り戻しつつあった。先生を前にしても心臓が跳ねることはなく、未だに過剰なスキンシップも軽口を言って流せる程度には落ち着いている。
 大丈夫、ばれてはいない、このまま想いを消して、いつか先生の中で存在が希薄になってしまうその時まではどうかこのまま、傍に。

***

 あれからさらに数日、先生はようやくいつもの調子を取り戻し、普段の生活に戻りつつあった。
「先生、俺買い物に行ってきますね。二時までには帰るんで、それから稽古お願いします」
 先生の部屋の襖が半分開いていたので、特にかしこまることもなく顔を出して報告すると、先生は何か勉強をしていたのか本を読む手を止め、こちらを振り返って緩く笑った。
「分かりました。いってらっしゃい」
「行って、きます……?」
 その笑い方に少し違和感を覚える。何かを耐えるような、少し抑えた笑顔。
「……先生、もしかして疲れてます? 大丈夫ですか?」
 よく考えてみれば、先生の熱は数日間にわたって先生の体を蝕んできたのだ。熱が下がって平常通りの動きができるようになったからと言ってすぐに全回復出来るわけでもないのだろう。もしかすると、渉の稽古の為に多少無理をしているのかもしれない。そう思うと不安の種は次から次へと沸いて出た。
「……疲れていないと言えば嘘になりますが、このくらい大丈夫ですよ」
 もう一度念を押すように笑顔を浮かべてから、何事もなかったかのように先ほどまで見ていた本に視線を落とす。
「あの、俺にできることだったら何でもしますよ。元気だけは無駄に有り余ってるんで」
 体勢を変えて部屋の中へ滑るように入り込む。さすがにそこまで食い下がることを予想していなかったのか先生は一瞬訝し気な表情を見せたが、すぐにまた作ったような笑い方をする。
「いえ、渉君にそんなことは」
「本当に、大丈夫なんですか? 別に無理しなくても……」
 少し細められた視線が渉を刺すかのように向けられる。しかし、決して食い下がる渉に腹が立ったというわけではなく、何かを悩んでいるような、あるいは渉を値踏みするかのような、そんな視線だった。
「……そうですか。ではお言葉に甘えさせてもらいましょう」
「何でも言ってください」
 分厚い本を閉じる音が響く。和服を引っ張ることなく器用に立ち上がると、足音すら立たないほど静かに渉の傍に寄ったかと思うと、小首を傾げて微笑んだ。
「渉君、君に触れてもいいでしょうか」
「……はい?」
 先生の言葉が理解しきれずにこちらも首を傾げる。てっきり雑用を押し付けられると思い込んでいたせいで、とっさに言葉の意味を理解することができなかった。
「な、えっと、どうして……?」
「渉君に触れていると疲れが取れる気がするんです」
 言葉の意図も、先生の真意も全く分からない。今まではそれなりに理解できていたはずなのに、目の前で微笑む先生が分からない。
「……駄目だというのなら構いませんよ」
「そ、それくらいで元気になってもらえるなら、構いませんよ」
 少し哀しそうな顔をする先生に思わず口を滑らせてしまう。元々渉は先生の頼みがどんな無理難題であろうと最初から断れないのだ。決してご機嫌伺いというわけではないが、嫌われたくない、失望されたくないという根本的な心理は当然存在する。
 先生の手が最終確認とでも言うかのように頬に触れる。それに抵抗しないままでいると、先生はゆっくりと背中まで両腕を回し、渉を緩く抱きしめた。
 先生の温もりが服越しに伝わる。あれほど渇望していたはずなのに、進めるつもりのなかった現状のままで、これ程までにあっさりと手に入ってしまうなどと誰が考えただろうか。
「……さっきまで疲れていたのが嘘のようです」
 手に入ってしまった。
「不思議ですね。渉君といると、すごく安心します」
 手に入ってようやく、こんなものが欲しかったのではないと思い知らされた。
 こんなことを望んでいたのではない。いつかきちんと段階を踏んで、想いが認められて、そうしてようやく手に入るはずの温もりだと信じていた。それができない今では絶対に、何があっても手に入らないものだと思い込んでいた。
「……渉君?」
 異変に気付いたのか、先生が回していた腕を緩めて顔を覗き込む。その視界が何度もぼやけては少しだけ鮮明になる、そこまで把握して、ようやく両の目から涙があふれているのだと気付いた。
 もう、限界だった。
「もう、嫌だ……!」
「渉君、」
「先生は、俺の事からかって、そんなに楽しいですか!?」
 突然上げた大声に先生が驚いたようにびくりと震える。何事かと見つめる視線すら恐ろしくて、溢れる涙がみっともなく思えて、先生に見られないようにと必死に両手で隠した。
「先生が誰のこと好きでも、どうでもいいです、でも、こんなの酷い」
「………」
「誰かの代わりにされるくらいなら、いっそ嫌われた方がましだ……!」
 先生が顔を隠す腕をやんわりと掴む。けれどそれに屈せるほどの理性はもう持ち合わせていなかった。どれだけ声を荒げても何一つ言葉を発してくれない今の状況が、キスをされた日と被って余計に苦しくなる。
「……キスまでしておいて、これ以上俺をどう利用しようって言うんですか」
「……え?」
 不意に先生の腕を引く手が静止した。かと思えばその手は離れ、両手で肩を掴まれる。
「キス、って、あれは夢ではなかったんですか」
「え……?」
 先生の切羽詰まった声に思わず視線を上げる。そこには声に違わず動揺しきった顔の先生がいた。その慌てぶりに必要ないはずのこちらまで混乱してしまう。
「……渉君、少し話をしましょう」
「は、はい」
 部屋の襖を閉められ、座るように促される。その場に正座すると、先生はその正面に座った。これではまるでいつもの稽古と同じ風景だ。
「……まず、単刀直入に言います。私は君のことが、渉君のことが好きです。師弟の愛情ではなく、一人の人間として」
 先ほどの慌てぶりはどこへやったというのか、大胆な告白をしているはずなのに、その顔はいつも通り、どこか涼しげだった。
「あの日は意識が朦朧としていて何をしていたか未だによく思い出せません。何が夢で、何が現実だったのかもよく分かっていません」
 あの日、というのは言わずもがな、熱を出した末キスをした例の日のことだろう。
「君にキスをしたのも、夢だと思っていました。だから次に目が覚めた時に君がいたことも、そういうことだと思って口に出さないようにしていました」
「お、俺は先生が誰か別の人と間違えてしたんだと思って……あの日の先生、すごい熱だったし……」
 口が渇いて上手くしゃべることができない。今まさに渉は先生から離れようとしたはずなのに、何故告白などされているのだろうか。それも先生の方からの告白など。
「今までは確かに弟子として、愛情を持って育てていたつもりでした。でもあの日から、君のことをそういう目で見ていることを自覚しました」
 頭の中で絡まった糸が少しずつほどけていく。つまり、先生は誰の代わりというわけでもなく、渉だと認識した上でそういう行動を取っていたということだ。そうなると今までの過剰なスキンシップも納得がいく。
 しかし、そこにどうしても渉の心だけが追い付かない。叶わないと信じて疑わなかったものが突然目の前に差し出されて、何の抵抗もなくそれを受け取れというのもまた、無理な話だった。
「せ、先生は、俺のことが好き……なんですか?」
「だからそうだと言っているでしょう」
 先生がまっすぐな視線を渉へ向ける。その目があまりにも美しくて、底の見えない黒に引き込まれるままに口が開いた。
「……俺も、先生が好きです」
 言った後で自分の発言に驚いて慌てて口を閉じるも、放った言葉がなかったことになるはずもなく、呆けた顔で固まったままの先生を見て更に事の重大さに心臓が早鐘を打ち始めた。
「え……?」
「あ、えっと、その、俺もずっと、先生のことが、ええと……っ」
 何から伝えればいいのか分からず言葉がしどろもどろになる。そんな渉を見て先生は何故か一つ息をついた。
「渉君が好きで一目惚れしたのはあくまで私の作品、でしょう」
「さ、最初はそうだったんですけど……弟子入りして、先生を知っていくうちに、どんどん先生を好きになって、だから、俺は」
 そこまで言ったところで、不意に先生の手が伸びてきて抱きしめられる。全く予想していなかったせいで体勢が崩れ、倒れこむように先生の腕の中に飛び込んでしまった。
「これからは堂々とこういうことをしても良い、ということですか?」
「へっ」
「想い合っているのなら、これからは恋人でいいんですよね?」
「え、あ……両想いならそうか……じゃなくて!」
 まるですべてが解決したかのように話を進める先生を何とか引き止める。この世の摂理として踏みとどまるべき題材がまだ一度も話題に上がらないというのは一体どういうことか。
「俺は男です! 先生も、男です! それはつまり、」
「分かっていますよ」
 言葉はそれ以上続かなかった。いつかのあの日のように、口が塞がれる。目の前にあるのは当然先生の顔で、触れる感触が唇のそれだと、今度はすぐに理解した。
「その件に関しては私なりに悩んで、それですでに結論を出しています。君を好きだと自覚した時にその程度の覚悟は出来ているつもりですよ」
「……せ、んせ」
「この気持ちを、伝えるだけで終わらせたくはありません」
 そう言って緩く笑う。どこか吹っ切れたようなその笑みは、今までのどんな先生よりも格好よく見えた。
「……先生、俺、先生のことが大好きです」
「私も渉君のことが大好きですよ」
 先生の背にゆっくりと手をまわす。つい先ほど触れてしまった空しい温もりよりも、ずっと暖かくて、心地よくて、ようやく温もりを手に入れることができたのだと実感した。