20120505病気 | ナノ


帰り道。病院の出口をくぐってからというものの、僕の唇は固まったままだった。彼女もまた、なにも言わない。べつに話題に困っているというわけではない。むしろ逆で、僕は溢れ出そうな感情たちの、どれを優先して口にするべきかわからなかったのだ。
彼女はきっと、僕の言葉を待っている。飽きることもなく、苛立ちを表に出すこともなく、ただひたすらに僕の言葉だけを。そのひたむきさは、かえって僕に無言の状態を維持させた。こういうときのトウコの表情は、あまりにも神聖すぎた。彼女は自分が見られていることを知りながらも、前を見続けていた。
息を吸って吐くのにも緊張してしまうような、そんな張り詰めた空気に、少し胸が痛む。彼女は平然としていて、まるで何事もなかったかのように見える(身体的には、実際そんなことはないはずだが)……のに、僕はと言えば、「こんなに鼓動がうるさく感じるのはいつ以来だろう」と思い悩むほどには動揺していた。なにせ、要因が多すぎるのだ。
僕の頭は今のところ、多くの情報について冷静に対処できるようにはつくられていない。僕はちょっと、そういう経験を積む機会が少なかったのではないかと思う。今も昔も僕は、彼女に頼ってばかりいた。その事実ももちろんだけど、弱い自分を、現在に渡ってずっと変えることのできなかった、男のくせに女の彼女よりも根性の無い「僕」という存在は……もっともっと悲しい。
ああ、はやく言わなければ。またがっかりさせてしまう。言いたいことを言葉にしたい。僕の望みなんてたったそれだけのちっぽけなものなのに、歩行と無駄な思考の制御に一生懸命で、精一杯で、どうにも難易度が高く思えてしまう。
とりあえず、と、会話を切り出すためにやっとの思いで考え抜いた言葉があまりに平凡で、僕は、ああ僕ってやっぱり馬鹿なんだな、と思った。
まず、自分を馬鹿だと憐れむ暇があれば違う案でも考えたら良かったんじゃないか。いや、それができないから僕は馬鹿なのだろう。
自分との言い争いなんてせずに、こんなとき気のきいたことを言える僕なら、トウコも待ち続けたかいがあったのに。

「……大丈夫?」
「そう見えるの?」
「あんまり」
「でしょ」

ゆっくり、ゆっくりと、さっきとは違った様子でトウコが僕の隣を歩む。その歩き方に僕は、彼女を待たせていたときの僕を揶揄しているかのような動きを見た。
「トウヤなんかのことを待ってて損した。ううん、待っていた私が馬鹿だったのね」
……ああ、トウコの心の声が透けて見えるようだ。恥ずかしさと申し訳なさで、もう僕は消えてしまいたかった。けれどこんなことを口に出してしまえば、僕は今度こそ本当に愛想を尽かされるに違いない。女々しい自分を責める他はなかった。
しばらくあの歩き方で僕の横をついてきていた彼女は、ふっと顔をあげて、僕の方を覗き込んだ。目があうと、僕にしか聞こえないような音量で、「でも、これ位なら、すぐ治るよ」と囁く。海は一体、どんな色をしていたっけ? 彼女の瞳には、世界中の美しさを集めたような輝きがあった。大袈裟と言われても構わない。こうやって例えることでしかその煌めきを表現できない僕の悲しみは、当の彼女にだってわからないのだから。
本来なら僕が彼女を安心させなくてはいけないのに、彼女の目を見た瞬間僕は逆に安心させられてしまった。
これが彼女の意思によるものかどうかはともかく、僕の注意を他のことへ向けさせるきっかけには充分すぎた。今更だが、僕と彼女のほか、今ここには誰もいない。改めてあたりを見回しても、やっぱり僕ら以外には人っ子ひとりいなかった。
この、なんだかあまりにも魅力的な状況は、僕をどうしようもなくどきどきさせた。ありもしない妄想なんか、している場合ではないのに。けれど許してほしい、好きな女の子を前にして、そしてその子が睫毛もぶつかるような距離にまで近付いてきたとなれば、動揺したって無理はない。きっと。
こうして僕はまた自分自身に言い訳をして、「彼女は態度にこそださないけれど、実は僕に呆れているのではないだろうか?」などと考えるのだ。「実は」もなにも、間違いなく呆れているだろうに。悪いのは完全に僕なのだから。……それでも彼女の存在は僕にとって毒、としか言いようがなかった。
どうしてこんなにも駄目なやつなんだ、僕は。

「だからトウヤは心配しなくていいよ」
また、さっきよりも細い声でそう付け足すと、彼女は微笑んでみせる。考えるまでもなく嘘なのに、いや、嘘にしか きこえない のに、なぜか僕は一瞬、「彼女の言う通りなんじゃないか?」と思ってしまった。と同時に僕は、彼女が今とっても泣きそうなんだ、ということにも気付かされた。どうすればいいんだ。
トウコの笑顔から僕に対する緩やかな拒絶を感じながらも、僕は彼女の根拠のない自信を信じきっていた。これがただの、想い合っている若者の一時のすれ違いならどれほど幸せだったか。
僕はその幸せを知ることもなく、この先にもおそらく一生触れることはないだろうと思いながら、トウコの言葉にただただ頷くふりをした。


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