目に見えるのに、絶対に手が届かないもの。太陽、雲、星、月。などなど。別に頭上にあるものでなくたって、触れられないものなんて幾らでも存在する。悲しいことに、僕にとってその最たるモノは、トウコだった。もちろん本人の意思に刃向かって行動すれば、なんだって出来るだろう。けれどそれは、本当の意味で彼女に触れたことにはならない気がするのだ。
「ね、どっちがいいかな」
トウコが姿見の前で次々と服をあてがいながら僕に尋ねたことは、今日の午後来ていく洋服についてだった。
トウコによって先程この部屋へ連れてこられてからというものの、僕は一言も彼女と口をきかずぼーっと物思いに耽っていた、けれど、僕はその間もずっと彼女を見つめていたわけで、さっきの彼女の発言がこの部屋に来て初めての会話とは言え、どういった用件で彼女の部屋に拉致されたかは本人にきかずともすぐにわかることだった。昨日、彼女のテンションがいつもと違ってやけに高かったというのも、理由の一つである。
「どれでもいいんじゃないの」
「良くないからきいてるの」
あの人どんな系統が好きなんだろう。
彼女はそう続けて、開け放したままのクローゼットをまさぐりはじめた。
床に落ちた服とトウコという組み合わせが、テレビで見た光景を思い出させる。
「じゃあいつも通りで行けば?」
「せっかく二人で出かけるのにそれは……」
こちらに背を向け、何が入っているのかよくわからないクローゼットを漁りながら彼女はそう答えた。女心は難しい。
好きな子と出かけられれば、僕ならそれだけで充分なのに……。
「選んでもいいけど、僕の好みでいいの?」
「受けが良さそうなのがいいんだけど」
「……それは保障できないな」
苦笑いで返事をする。片方だけ落ちているニーソを拾って、未だクローゼットを漁り続けているトウコを引っ張って姿見の前に立たせた。
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「……ねぇ、本当に似合う?」
「うん」
トウコなんだから、当たり前だろう。
何を着たって服に着られるなんてことはまず無い、はず。
玄関の前に来てまでまだそんなことをきくのだから、余程不安なんだろうけれど。
彼女の背中についていた埃を払った途端、びくんと彼女自身が震えた。いくらなんでも驚きすぎだ。
「…かわいい?」
「うん。…可愛いよ」
自分できいたくせに恥ずかしかったのか、それとも僕の返事が嬉しかったのか。トウコは頬を紅色に染めながら、ゆっくり頷く。とても緩やかなカーブを描いて、彼女の両の口端は上がっていた。ふわふわの髪の毛がやわらかく揺れて、甘い香りが漂う。
「じゃ、気をつけて」
「……うん、行ってきます」
壁に手をついてドアの鍵を閉めると、僕は玄関に座り込んだ。ただちょっとその辺に出かけただけの彼女を、永遠に失ってしまったような気さえする。
やっぱり僕には手が届かない。
それどころか彼女に触れる勇気でさえも、僕の手には無かったのだ。