…磨りガラス越しに何が起こっているのだろうか。
荒々しく戸が閉まる音、一回。
荒々しく戸が開く音、一回。
対照的に掛けられた声は冷静で、でも、早口で。私は思わず首を傾げてしまった。
要件を素早く伝え終わったシューヤが、これまたバタバタという音を立てながら脱衣所を後にした…ことを音で判断する。
えーっと、彼は何を言っていたんだろう。
余りに忙しなく告げられたものだから、言葉を咀嚼する暇もなかった。
驚きに塗れた先程の情景の中から、彼が発した言葉を拾い上げようとした。
名前を、呼ばれて。
確か少し外出すると言っていた、気がする。
タオルと、着替えも置いておいた、なんて言葉も聞こえた気がする。あと、救急箱の中も自由に使っていいと。
確かそれだけだった、と思うのだが。
何かが足りない、もう一言あった、気がする。
パズルのピースが、微妙に合わないムズムズ感が、あるにはあるのだ。
「…だめ…思い出せない」
戦闘では命とりになるな、と意味もなく笑った。パーティを組む機会なんて、数えるには両の手で事足りるくらいだったけれど。
ーーー同時に頭の中を掠めた記憶は、"見ないふり"をした。
ふぅ、と一息ついて落ち着いてみれば、嵐が去った、という比喩表現がしっくり馴染むくらいの静寂が訪れた。
聞こえてくるのは慈雨のように頭の上に降り注ぐシャワーの穏やかな音だけ。
シューヤは外出中。ここには私一人。
この世界に来てから、確かめたいことが一つあった。
静寂に、小さな声で亀裂を入れる。
「ーーーーーっ…」
流水音に紛れ込んだ"その音"が、空気を震わせる。
口の中で緩やかに紡がれた呪文が、目の前に掲げた手のひらの上に、炎を灯した。
「……できた」
安堵と同時に、どうしてだろう、一抹の恐怖が私を襲う。
降りかかるシャワーなどものともせず、ゆらゆらと、爛々と輝く魔の炎。
杖も、護身用にとガーターに付けていた短剣も、向こうの世界に置き忘れた私の唯一の武器であり、盾だ。
もし、この、平和な世界に。
例えば、私が、あの世界で対峙していたモノ達が、現れたとして。
確かに、杖を媒介としない呪文の形成は危険だ。威力の半減はもちろん、唱えた呪文が、上級の魔法であればあるほど大きな代償を伴う。
それでも。
この身が失われることになっても。
「……シューヤだけは、守らなくちゃ」
あのモノ達がこの世界に来る確率は、極めて低いと思いたい。しかし、私がこの世界に来てしまった、いや、来れたという事実故に、否定できないのだ。
それに私は、追われる身だ。
私を追っていた輩は、一応人間という部類に属していたけれども、心は既に魔の手先のそれと同じだった。
私を匿っていたと知れば、あの輩達は間違いなくシューヤを殺しにかかるだろう。
それだけは、それだけは。
何としても阻止しなくては。
炎を灯した手は、震えていた。
ジリッと身を焼きはじめた感覚からは目を逸らして、掲げた手を湯船の中に突っ込んだ。
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「気持ちよかった…」
脱衣所に出ると、冷んやりとした空気が身体を包み込む。
こんなに爽快感に溢れる入浴はいつぶりだっただろうか。
シューヤが用意してくれたタオルで身体を拭き、シューヤ用意してくれた服に袖を通す。
ーーうん。しあわせ。
頭をよぎる4文字を否定するように首をブンブンと振る。
ダメだ。私は、そんな感情を抱いては、いけない。
雑念を振り払うように、他のことに意識を向けようと試みる。
そうだ、髪の毛。
畳まれた服の横に置かれていた麻紐を手に取り、鏡台の前まで進む。
いつも通り二つに結ぼうと鏡と向き合ったところで、思わず硬直してしまった。
一言で言えば、ーーぶかぶかだ。袖が長い。横幅も、心なしか大きい気がして、自分の体躯とミスマッチな事を知らされる。
ーーああ、これ、シューヤの服……
認知した瞬間、顔がぼんっと真っ赤に染まった。
ーーえっ、嘘、なんで!?
火照る頬にさらに羞恥が募る。隠してしまいたくて、パーカーのフードを被ると、先程抱き締められた時の光景が脳裏に鮮やかに蘇った。鼻腔をくすぐる彼の匂いがそれを助長して、加速させる。
あの時は安心しきって、しまい目には眠ってしまったというのに。
一人で洗面台の前で慌てていると、扉を隔てた向こうからガチャガチャと音がした。
まずい、まずい、帰ってきた!
何となくこの顔を見せるのが嫌で、フードをもっともっと深く被る。
扉の向こうから声が聞こえるが、焦った脳内には届かない。
「洗面台借りるぞ……………!?」
ガラリ、と横開きの扉が開かれる。
半ば反射的に振り向いた先に立つのは、シューヤでもゴウエンジでもなかった。
「おい風丸!風呂場には近付く……」
玄関から、シューヤの声が響き渡る。
目の前の少年は、驚きに目を瞠った。琥珀色の瞳が、さっと私を一瞥する。
「…豪炎寺、どういうことか説明してくれるよな?」
「…………」
目まぐるしく目の前で起こる出来事に、ついていけない。
シューヤが空色の髪の少年を押し退けて洗面台の前までやってくる。一息ついて私と向き合うと、先程の私よろしく顔を真っ赤に爆発させた。
「お、お前……!下を履け下を!」
悲鳴とも怒号ともつかない声音に、あ、これワンピースじゃなかったのか、と呑気なことを考えた。