ーーこの夢を見るのはいつぶりだろうか。
身体中を這いずり回る痛みも、手に吸い付くような杖の感触も。ボロボロになりながら石畳を必死に駆ける音も、全部あの時と同じだ。
『はぁっ、はぁっ』
これは夢だ。過去に起こった現実をそのまま閉じ込めた、リアルな夢。
だから、私はこの先に起こる出来事を知っている。心が夢の中で身体を持っているのなら、その足はガタガタと震え、口からは声にならない悲鳴が上がり、目からはとめどなく、枯れるほどに涙が流れていることだろう。
だが、過去の私は必死だった。この先に起こる出来事を想像する寸暇すら与えられず、襲い来る魔物を貫きながら、ただがむしゃらに"その時"へと突き進んでいた。
ーーーそして、"その時"は容易に訪れる。
これは、私の犯した罪だ。
炎に包まれたその場所で、一人の青年の灯火が、消える。
『い……や…………』
目の前の死に追いつかなくなった心は、目を閉じることを容易に許してしまった。
何度見ても、この光景は慣れない。絶望感と、虚無感と、吐き気と、涙と。全てが羽交い混ぜになって、死にたくなる。叫び出したくなる。どうしようもない衝動が、私を襲うのだ。
例え、これが夢だと知っていたとしても。過去に起きた、まぎれもない現実なのだから。
刹那、パチパチと爆ぜていた炎の音が消え、代わりに風をきる音と、地面を削る車輪の轟音が耳に飛び込んできた。
ーーーあれ、ここは…?
目を開けるとそこは、街道を猛スピードで駆け抜ける荷馬車の上だった。荷台に積まれた、物資の入った木箱や樽がガタガタと不協和音を奏でている。
『商人さん!もう私はここで失礼します。できるだけ早く、遠くへ逃げて下さい!』
「でもお嬢さん……」
『私なら大丈夫ですから…!ここまでありがとうございました!』
「あ、ちょっと…!」
動く荷台の柵に片手をつき、地面へと飛び降りた。かなりのスピードで走っていたため、着地した時に擦り傷を負ってしまったが、あとで薬草でも擦り込めば取るに足らない痛みだろう、と思ったことを思い出す。背中から杖を抜き取った私は、遠ざかる馬車の車輪の音を確認して、走り抜けてきた街道に向かって叫んだ。
『私ならここよ!どこからでもかかって来なさい!』
そうだ。これは、私が異世界に落とされる、直前の出来事だ。
ザリ、と舗装されていない馬車道の地面が鳴る。姿を現したのは、かなり年上の、人間の男だった。
「……ほう、逃げることはやめたか」
『…私を執拗に追い回すのは、何が目的ですか、人間』
「決まっているだろう、お前が奪った古文書を取り返しに来た」
そう、古文書。私が城の賢者に命じられ見付け出した、神代の時代から伝わる、古の呪文が記された巻物。それのせいで私は追われていたのだ。
「あの古文書には世界を滅ぼしうる力を持った呪文が書かれているらしい……使い手は選ぶが、そうだな、お前のような力を持った魔法使いに渡ると厄介だ。さあ、返して貰おうか」
『…貴方に渡して、私にメリットは』
「ああ…命だけは助けてやると言いたいところだが……あの戦いの時のお前の活躍を、大魔王様が気にかけておられる。勇者に次ぐ脅威だと」
あの戦い、その単語が示唆する出来事が頭をよぎり、不意に思考が掻き乱される。刃物の切っ先が、緩やかに頬をなぞるような、鈍い鈍い痛みを連れてくる。内心舌打ちし、振り払うように毒づいた。
『……バカバカしい、私はただの貧弱な魔法使いだと言うのに、何を恐れることが…』
そこまで言うと、男は大層おかしそうに笑いだした。耳を劈く嫌な笑い声に、眉間のシワを濃くする。
「ははは……!…そうだな!お前は人ひとり守れない、愚か者だものなあ!ははっ……!」
『………っ!!』
どの出来事を指しているかなど、明確だった。私はやっぱり動けなくなって、呆然として。挙げ句の果てに、杖を取り落とした。
不規則に蠢く心臓の音も、吸い込んだ空気が冷たく喉を冷やすのも。これも、本当に夢なのか。
全ての感覚がやけにリアルで、なにもわからなくなって。突きつけられる言葉に頭を揺さぶられて。
「どうして大魔王様がお前のような強敵に、強い魔物ではなく、俺のような人間を差し向けたか判るか」
『…し、りません……』
「お前が、人ひとりの死に囚われる、弱い心を持っているからだ。お前は、人間である私に手出しする事はおろか、動くことさえできないだろう、と」
その通りだ。私には人を殺すことなんて、出来やしないのだ。
気が付けば、どこからか現れていた魔物達に取り囲まれていた。杖は既に敵の手に渡り、私に残された手段は短剣を抜き、小さな抵抗を見せることぐらいだった。
しかし、気はもう既に動転していて、まともに戦えない。
それを見て男は、笑っていた。
ここで、視界が暗転する。次に目を開いたときは、彼の、シューヤのいる世界で人形のように地面に弛緩した体を投げ出しているはずだ。
もう嫌だと心が叫ぶ。お願いだから、現実に帰してほしい。こんな悪夢は、早く終わって欲しいと切に祈った。
しかし、祈りは虚しく夢は醒めなかった。目を開くとそこはシューヤのいる平和な世界ではなく、未だ私が本来いるべき世界だった。
ーーー天を仰ぐと、星が流れている。
ここで漸く、今繰り広げられている場面を理解する。
夜空をかける流星、私の手にあるのは、杖ではなく真っ白なユリの花。
ーー背筋が、凍った。
もう、やめて。実体を持たない私の心は声にならない悲鳴をあげた。誰にも届かない、軋み、歪んだ心の音。
意思に反して足は棺へと、ゆっくりと、ゆっくりと歩みだした。過去の私の手も、震えている。
そして、今度こそ悲鳴は実体を持った。
棺の中で瞼を閉じ、冷たくなって横たわっていたのは、青年ではない。私とそう年も変わらないような、優しい優しい少年。
「………しゅ……う……や……」
これは、きっと罰なのだ。私は、前を向きすぎた。忘れようと必死になって、忙しい日々に身を委ね、夢さえ見れないよう泥のように眠り、死に近いほどの戦いを生き抜き、それが彼のためと信じて。
きっとこれは罰だ。決して忘れてはいけないのに、忘れようとしたこと。あの世界で少年と出会い、少しでも幸せを感じてしまったこと。
ーーーいや、あのシューヤという優しい少年は本当に存在した?摩訶不思議なあの世界も本当に存在していた?本当は襲われた時に死んでいて、生前犯した罪の贖罪に追われているのではないのか?
これは、本当に夢?
もう何も、何もわからない。真っ白になって、溶かされる。
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「魔法、か……」
誰に聞かせるわけでもなく呟いて、ノートパソコンの電源を落とした。
食事もそこそこに、ソファーで眠りこんでしまったりーぬを自室のベッドまで運んでから、一時間が経過していた。エルフの目撃情報が無いかと探していたのだが、案の定めぼしい情報は見つからず、溜息が溢れる。
代わりに得た情報は、彼女はーーエルフはこの世界において、伝承として語り継がれる存在であるということ。つまり、神話に記された生物なのだ。数多の説が存在するが、一般的に美しい容姿と長い命を持った、伝説の種族とされている。
そして最大の特徴がーー魔法が使えるということ。
そう言えば、出会い頭に魔法がどうのと言っていたことを思い出した。あまりにもたくさんの出来事が一気に起こりすぎて、有耶無耶になってしまっていたが。
「…ということは、あいつ自身も魔法が使えるのか……?」
しかし、りーぬが本当に魔法を使えると言うのなら、僧侶など呼ばずとも自らの手で傷を癒せばよかった筈なのだ。
「ますます、分からないな……」
目の前の事実を信じるべきなのか、古くからの伝承を信じるべきなのか。そんなものはりーぬに一言聞けばハッキリするはずなのに、どうしても口に出して告げるのが怖い。
ーー怖い……?なぜ?
思わず眉をひそめる。何を恐れているのだ、俺は。氷の湖に亀裂を入れてしまったような違和感に、動揺する。
タイピングの音も、マウスを動かす擦れた音もなくなったリビングで、気味の悪い静寂が流れる。
ーーーいや、そもそも魔法とは癒しだけの手段なのか……?
「…いやああああああっっ …!」
「……ッ!?」
静寂を切り裂いたのは、りーぬの悲鳴。その悲痛さがギュッと俺の心臓を潰す。フローリングを蹴飛ばし、ドアを叩きつけるように開けて部屋へと飛び込んだ。嫌な予感に、胸が騒ぐ。頭をよぎったのはりーぬの体中にばら撒かれた傷達のことで。
「りーぬ!?どうした!?」
サイドテーブルに置かれたライトの頼りない光では、りーぬの顔もよく見えない。
ぱちん。手探りで部屋の明かりを点けると、そこには。
「……りーぬ……?」
ベッドに半身を起こして、ただ涙を流し続ける少女が、そこにはいた。焦点の合わない硝子の瞳が、虚空を見つめている。頬をするすると滑り落ちる涙と、顔に乗る絶望の色。見ているこちらの息が詰まりそうなその表情に、思わず言葉を失った。
近付いて、腰を屈めて。どうした、の言葉を紡ぎだすのに、永遠とも思える間が空いた。
ぼんやりとりーぬの瞳が、俺の顔を映し出す。
「……しゅ…うや……?」
「…ああ」
すると、突然ゆるゆると動き出した彼女の手が頬を這った。酷く冷たい手だ。
「……っ……」
どきりと蠢いた心臓の音。突然の接触に、別の意味で息が詰まる。するすると柔らかくもない頬を滑った彼女の手は、やがて動脈に触れた。
最初、出会ったときに俺が取った行動を彼女は、今。
「……生き……てる?」
「…ああ」
「これも……夢?」
「…いや、現実だ」
「本当に…?」
「ああ、本当に」
その瞬間、りーぬの目が光を取り戻すと同時に、俺に向かって飛び込んできた。驚きに少しよろけるが、それでも受け止められるほどに彼女は華奢で、軽い。
「どうした?悪い夢でも見たのか?」
「ごめんなさい……私、わたし…っ、守るから……!」
「お、おい!?」
「ごめんなさい…っ……ごめんなさい……!」
細い腕で、きつく抱き締められる。肩口に触れる涙に、既視感を感じる。シューヤ、シューヤと繰り返し呼ばれる名に、背を撫でることで返事をする。
「私に……あなたを守らせて……っ」
カーテンの隙間から覗く曇り空が、俺たちを見守っていた。星ひとつ見えない、夜の色。
悲痛な嗚咽と共に、俺とりーぬの始まりの1日が、終わりを迎える。