この日までに、『彼』の事は忘れようと思っていたのに、出来なかった。
思い出す度、苦しくて、切なくなって、心が悴んでしまうのだ。


そう、今日は、許婚との、結婚式の日。


昔から定められていた婚姻は私の気持ちを、暗く沈んだものにした。
私は小さな街の富豪の娘。相手は大きな城の大臣の息子。何度か会っているけれど、あの下品な笑い方が、貴族面した性格が、如何にも気に食わない。正直言って気持ちが悪いし、眩暈がする。
家柄なんてなければ、と何度運命を呪ったことか。


あの祭壇の前に立っているのが『彼』なら、どんなに幸せだったのだろう。

純白のドレスの裾を踏まないように、淑やかにバージンロードを歩みながらそんなことを思う。

瞬く銀色の美しい髪、憂いを帯びた紫群青の瞳、片方の口角を上げて不敵に笑う様、ぶっきらぼうな様で、心の底の優しさを隠して。

ああ、その全てが恋しく、愛おしかった。

『彼』は流浪の剣士、『私』は小さな街のお嬢様。

『彼』と過ごした僅かな日々は、甘く、時に苦く、全てが輝いていたんだ。


『世界を救って、いつか、迎えに来る』


そう言い残して彼は仲間達と共に旅立っていった。
やがて、世の中に平穏が訪れた。
彼の生を意味するそれに、私は心から安堵し、喜んだ。

ーーー私、あの言葉、信じていたよ。
でも、今日がタイムリミット。

今からでも、あの男から私を、奪ってはくれないだろうか。




隣で、神父の声に誓いを返す、夫となる男。そして、神と近しい初老の男が私に問いかける。

健やかなる時も、病める時も、一緒にいるのは貴方が良かった。テリー、貴方が。


「……誓いますか」


老いた、くぐもった声が響く。静寂が満ちる。対する私は、喉がカラカラに乾いて言葉が出ない。

隣の許婚も、神父も、怪訝な顔をしている。
誓います、その一言で全てが終わるのに。

次第に木立が揺れるように、集まった人々がざわめき出す。

言わなきゃ。
夢見てちゃいけない。
言わなきゃ…!!!


意を決して、口を開いた、その時だった。


ギィィィ……

教会の両開きの戸が、軋む木の音を、大きく響かせて、開いた。

開け放たれた扉から漏れる光のなんと眩しいことか。
そして、逆光になった影に、息を呑む。


「ステラ」


この声音、あの体格。腰に帯びた剣。

間違いない、テリーだ。

嬉しくて、夢を見ているみたいだ。
走り出そうとすると、隣にいた男にガッと手首を掴まれる。


「どこへ行く気だい?」


知らないでしょう、あなたのその笑顔、私すっごく嫌いなの。思わず顔を顰めると、手首に込められる力が強くなる。

お願い、彼の元へ行かせてーー!



…シャラン
剣を抜く、独特の音が響いた。私の腰を後ろから抱き寄せ、許婚の喉元に剣を突きつけるテリー。


「コイツを離せ」


ーーーーでなければ斬る。
その言葉は省略されていたけれど、所詮貴族のボンボンの男。鋭い眼光に怯み、あっさりと手首を離してくれる。


呪縛から解放された、瞬間だった。


テリーは私の手を引き、走り出す。


「ステラ、オレと、結婚式やり直そうぜ」


ああ、光の先には、どんな未来が待っているのでしょう。
彼とならば、どんな未来でも構わないかな。



≪いっそのこと、奪ってよ≫





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