霧雨が、優しく…そして冷たく降る、夜のことだった。
朧月も雲のカーテンに隠され、どことなく暗い印象を与える。
「僕、記憶がなくなる前は、すっごく悪いやつだったんじゃないかな」
世界を滅ぼしてしまうような。
彼女ーーーステラはそう言った。
前線で悪と対峙し、人が傷付くのを一番嫌がるような奴が何を。
そう思いながらも、天に浮かぶ空艦のデッキで、雨に濡れながら呟いた、その時の彼女の笑顔が妙に頭の中にこびりついて、離れなかった。
悪戯っぽく、冗談めかした笑顔の裏に、月の光ように淡い悲しみを垣間見て。
不覚にも、そして場違いにもほどがあるが。
ーーー綺麗だと思ってしまった。
「そんなこと、今のお前には関係ないだろ」
なんとなく、そう、なんとなく、呟いた声に、少女は目を見開く。
雨に濡れるのも厭わずに、屋根の下から躍り出て、少女の方へ近付いた。
テリー、濡れるよ、なんて声が聞こえた気がしたが、あえて無視した。
少女の折れそうに細い手首を掴む。いつも大剣を振り回しているとは思えない程華奢で、ああ、こいつも女だったんだな、なんて、そんなことを考えた。
「ほら、風邪引く前に早く入れよ」
そう言って、手を引いた。
「……ありがとう、テリー」
小さく、虚空に溶けた言葉に振り返る。その頬を濡らしていたのは雨粒なのか、それとも他の何かだったのかは、深く考えないようにした。
ーーーーーーーーーー
「あら、ステラさん?何を悩んでらっしゃるの」
かけられた声に振り向くと、微笑を浮かべるフローラさんが居た。紺碧の髪を靡かせ、ニコリと笑うその姿は、同性の自分の目から見ても麗しく、彼女の周りで花が綻んだように思えた。
優雅な仕草で私の横に腰掛けると、ステラさんと同じものを、と酒場のマスターに声をかける。
ルイーダさんが慣れた手つきでティーカップを彼女の前に置くと、礼の言葉をのべ、サッと僕の方へ向き直った。
「で、ステラさん?もしかして恋のお悩みだったりするのかしら…?」
「ええっ……!?や、やだな、フローラさん…僕はそんな恋なんて…」
慌てて否定するがニコニコと笑うお嬢様に嘘はつけず、スイマセン、ハイソウデス、と明後日の方を向きながら返事する。
まあ……!素敵ですわ……!と嬉しそうに顔を輝かせた彼女の視線が痛い。
「それで…わたくしに何か相談に乗れることはないかしら……相手はテリーさん、なのでしょう?」
「ええ!どうしてそれを!?」
あら、やっぱりそうなのですね…!という声にウッと顔が引きつる。しまった、これでは肯定してしまったようなものじゃないか。
「うふふ、最近テリーさんのことをよく見てらっしゃるな、と思っておりましたの」
「そ、そんなに見てましたか…」
「ええ…!わたくしが気付いてしまう位ですもの。きっとビアンカさんはもっと早くに気付いてらしたのではないかしら…」
何故この閉鎖空間にこんなにも鋭い人達が揃ってしまったのだろう。ハハ、と乾いた笑みが浮かぶ。
「そうですわね……でもテリーさんもステラのこと、気にしてらっしゃると思いますわ」
無意識にテリーのことを見ている、だとか、みんな気付いている、という言葉が頭の中で駆け巡って、フローラさんのそんな呟きは耳に入って来なかった。
次に現実に戻されたのは、酒場の扉がバン!と開く音と、メーアさんの次元島に到着したから用意してね!という言葉だった。
慌てて立てかけていた両手剣を背負い、ブーツの紐を結び直していると、用意の済んだらしいフローラさんが少し寂しげな微笑を浮かべて言った。
「ステラさん……気を悪くなさらないで聞いて欲しいのですが…想いを伝えるのは…早いに越したことはありませんわ。わたくし達、いつ離れ離れになってしまうか、わかりませんもの…」
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「ああ、くそッ」
近くに煮えたぎった溶岩が流れ、かつ足場も悪いそこで戦っているのに、いつものように、目の前の敵を屠ることに集中出来なかった。
先程の、神官達との会話が何度も頭の中で反芻されて、苛立っていた。
ラッパの練習に付き合わされたと言うのに、何故自分が諭されねばならないのか。
『テリーさん、私達、いつ離れ離れになってしまうか、わからないんですから。伝えるなら早いほうがいいですよ』
ステラさんのこと、好きなんでしょう。
自分のことを棚に上げて何を。そう切り返すと、ほ、ほら私には立場というものがありますし!なんて。
好きじゃない、と、それでも言うことが出来ない自分を呪う。
偶然側を通りかかったおてんばなお姫様に、何?クリフト好きな人がいるの!?と詰め寄られて、壊れたオモチャのようにギクシャクする姿はひどく滑稽だった。
姫を宥めて、ふう、と一息つくとまた俺の方へ向き直って。
『それに……ステラさんはその、記憶がないのでしょう。この旅が終われば、どうなってしまうか分かりませんし…伝えるなら早い方がいいかと』
『そうよテリー!それに、案外ステラだって、それを待っているかもしれないわ』
そうですよね、姫様さすがです!そうでしょクリフト!
繰り広げられる会話に溜息しか出ない。
ああ、もうイライラする、なんなんだこいつらは。
お前らに何が分かるんだ。
それにあいつが、ステラが、オレの事が好き?あり得ない。
そっけない態度をとってしまっているし、それにあの時だって。
霧雨の中、泣いていた彼女に。気の利いた言葉の一つもかけてやることができなかった。
……オレはバカだ…
呟きは空気に触れることはできなかった。代わりに、苛立ちを乗せるように剣を振るうのみ。
自分の振るう剣先から迸る雷光を、他人事のようにぼんやり眺めながら、押し寄せる魔物の大群を屠った。
だから、最初は分からなかった。
少し離れたところでまおうのつかいと対峙していた彼女が、突然後ろを振り返って何か叫んだ理由が。
「ドルマドン!!!!!」
凛とした声が辺りに響き、自分の背後で、轟音と共に断末魔の叫びが上がった。
「なっ……!?」
そう、もう一体のまおうのつかいが、後ろに迫っていたのだ。
大きな巨体が崩れ落ち、地面を僅かばかり揺らす。
ああ、助けられたのかーーー何て思ったのも束の間。
目の前の状況に息を呑んだ。
強敵に背を向けたまま、凍りつくステラ。
魔物の唱えた氷結呪文を、オレを庇ったことによって、避ける間も無く受けたのだ。
その後の光景はヤケにスローモーションで。
バイキルトで攻撃力を増幅させた一撃がステラの体を吹っ飛ばした。
地面に叩きつけられ、氷が融解した体からは夥しい出血。なんとか大剣を支えに立ち上がろうとするステラだが、うまく体に力が入らないみたいだ。
さらに、トドメを刺そうと、迫る魔物。
あの一撃が決まってしまうと、彼女は明らかに取り返しのつかないことになってしまう。
ーーーそんなこと、
「……させて!たまるかッ……!!!!」
風よりも早く、一陣の風の如く、突風を起こすように駆けた。元の世界で、青い閃光と揶揄されていたように、一撃の重さよりは、俊敏力の方が自信があった。
目にも止まらぬ速さで切りつけ、冥府から呼び出した雷を容赦なく落とす。
魔物は、あっけなく霧散した。
気を失った彼女を抱える。
姉さんを目の前で失った、あのときの恐怖がじわじわと胸の中を侵蝕した。
ーーーそうか、もしかしてオレは。
これ以上守るものが増えてしまうのを。
恐れているんじゃないだろうか。
だからこの気持ちを吐露することを。
こんなにも恐れているんじゃないだろうか。
『あの日』みたいに守れないことを、無意識の内に想像してーー
でも、伝えなかったら?
守れないまま、どちらかがその生を終えてしまったら…?
それとも、あの日みたいに目の前からいなくなってしまったら……!
神官の言葉に、死別と言う意味も込められていたことを知って、唇を引き裂かんばかりに噛み締めた。
「ステラッ!?」
その声にハッとする。
遠くで戦っていたアクト達も、魔物を片付けたようで、急いでこちらに駆け寄ってきた。
「……悪い、手当てを頼む…」
ーーーーーーーーー
「………う……ん……?」
優しい、穏やかな光のヴェールに包まれて、僕は目を覚ました。鼻を劈くような薬品のにおいと、無機質な色をした壁。カーテンは開けられていて、そこから光が溢れているようだった。
どこだろう、ここ。壁から推察するに、バトシエの内部だろうか。それに僕は何をしていたんだっけ。
ーーーもぞり。
……もぞり?何かが動いたような気配がして、左のほうをみると、そこには。
僕が寝ていたベッドに、寄りかかるようにして眠る少年がいた。
星のように鈍く輝く白銀の髪、いつもの鋭い視線を遮断するように瞼を閉じて。青い旅装束と胸当ては、どこかで脱いで来たのか、ラフな黒いアンダーシャツ姿にズボンと言う簡素な格好をしたその姿は。
ーーーテリーだ。
「……な、なんで」
呟いてからああ、そうかと思い出す。魔物がテリーに武器を振り上げるのを、目の端で捉えてしまって。テリーはそれに気付いていなかったみたいで。思わず呪文を唱えたのはいいけど、目の前の敵に完全に隙を見せてしまって……
「キミが…助けてくれたのか…」
ありがとう。という気持ちを込め、思わず放り出された手を握ると、少年が身じろいだ。
「………あ、あ……起きたのか」
慌ててパッと手を離す。ああ、えっとごめん、などと脈略のない言葉が口をついた。
「…その、助けてくれて、ありがと……う」
しどろもどろになりながら、感謝の言葉を述べると、テリーはハァっと溜息をついた。
「……全く、オレを守ろうなんて百年早いぜ。まあでもーーー助けてくれて、感謝している。悪かった、オレのせいで」
いつもの自信満々な態度は何処へやら、目を伏せて悲しそうに頭を下げる姿に、ひどく驚いた。
「……なんだか、テリーが素直だと調子狂っちゃうよ」
素直な感想を述べると、バカ、と言って頭を軽く叩かれた。
「どうだ、傷の方は」
「うん。大丈夫だよ、ありがとう。テリーは?」
「……誰かさんのおかげでホイミで治るような傷しか負ってない」
「それはよかった。なんだかメガンテでもした気分だなあ」
冗談で言った言葉に自分でクスクス笑っていると、テリーが押し黙った。
「……くね……よ」
「……て、テリー?」
「よくないって言ってるんだろ!」
「……は?」
えっと、今彼の気に障るようなこと言ったっけ。怒声に対して、思わずすっとぼけたような間抜けな声が出た。思わず彼の表情を伺うと、苛立ちと苦しさが羽交い混ぜになったような、そんな顔をしていた。
「お前に死なれると、オレが困るんだ」
「…なんで」
「………ヘルムードとの戦いの時に不利になるだろう」
「そ、そう」
なんだか釈然としない答えだなぁ。テリーはまだ憮然とした表情をしていて、全く真意が汲み取れない。
「……それだけじゃない」
テリーの言葉が考えを止めた。
彼が見たこともないほど、真摯な、真面目な表情をしていて、こちらを見据えていた。
ああ、僕はキミのことが好きなんだよ、だから、そんなにジッと見ないでほしいな。今にも顔から火が出てしまいそうで、思わずかち合っていた視線を逸らした。
だけど、それは叶わなかった。手袋を外したテリーの手が、顎の下に伸びて、僕の視線を強引に奪った。
「…ステラ」
「…な、に……」
「好きだ。だからお前に死なれると、困るんだ」
オレを一人にするな。
言葉に、息が詰まりそうになった。見た目麗しいだけでなく、態度は冷たいかもしれないけど、心の底に優しさを抱え、あることに対しては直向きで、熱くて…世界一素敵な、孤高の剣士様が、この、弱虫でどこの流れ者ともつかない、僕が好き?
あり得ない。これは都合のいい妄想なんじゃないだろうか。
「…夢なら醒めて」
「夢じゃない」
「それに、僕は元がどんな奴かも、知れないし、キミには、似合わないよ」
「そんなこと関係ないって言っただろ」
ステラの、正直な気持ちをきかせてくれ。なんて、見たこともないくらい柔らかい表情で笑うものだから。
心臓の音が、人にも聞こえてしまうんじゃないかってくらいうるさい。
「……あの雨の日、本当に僕は救われたんだ…キミのことが、嫌いなわけないでしょ、ううん、大好きです…世界中の誰よりも」
自分の身を顧みず、助けた位なのだから。
そういうと、テリーは目を見開いて、それから、笑った。満足そうに。満ち足りた表情で。
「なぁ、お前、あの時自分が悪い奴だったかもしれないっていっただろ」
「えぇ、ああ、うん」
「オレも昔、魔王の手下になった。姉のために強さを求めて、次第に強くなることだけに目的がすり替わって。その力で、知らないうちに姉を殺そうとした」
「……そう、なの」
「嫌いになったか」
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「なら、そういうことだ。お前が悪い奴なら、オレだって同罪だ」
お前が地獄に落ちるなら、オレだって一緒だ。
ーーそう言って、彼は僕に口付けた。
陽の光が、きらきらと僕たちを包む、そんな穏やかな午後の出来事だった。
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