ここは君のための世界なんだ
ならば、それならばさ
君が要らないと思うものなんて
――この世界に、必要ない
そうだろう?
―笑顔を消した勧告者―
〜disuse person〜
逃げ出した。
笑顔を浮かべるそいつの前から。
思い出せないからと、いうたびに。
悲しそうな表情を見せる、そいつらの前から。
“トオル”は俺にとって大切な人間なのだと、言い放った。
“トオル”にとって俺は大切な人間なのだと、言い放った。
そいつは笑って俺の肩を叩く。
俺を見ながら、悲しそうに笑う。
どうして。
俺は
……俺は、思い出せないのだろう。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ思い出せた気がしたのだ。
何かを。
何かはわからないけれど。
あいつは
あいつら、は。
俺にとって大切な人間らしいのだ。
「本当に?」
不意に聞こえてきた声に体を揺らす。
振り返って視線を向けた先にいたのは、にこやかな笑顔を1度も崩すことをしない帽子屋だった。
心を見透かすような、
何かを知っているような、気味の悪い男が俺にゆっくりと近付いてきた。
「……エニグマに物語の筋書でも聞いたのか?」
だから、知っているのか?そう問いかける。
帽子屋は嘲笑して俺に視線を向けた。
じっとりとして暗い、真っ暗な闇のような瞳。
時折赤く光っているようにも見えた。
「僕は物語を聞いてしまったら反抗心が踊ってしまいそうでね。聞かないようにしているよ」
楽しそうに、そいつは笑う。
まぁ、それならば別にいいのだが。
これも物語通りなのかどうか、わからない。
「先ほどの言葉……どういうことだ」
「あの彼はね、前回のワンダーランドの“王様”なのさ。以前の僕が、よく知っていた」
あぁ、そういえばジャックがトオルを王様だとかなんだとか言っていたか。
前回のワンダーランドなぞ知らないが、あいつは偉い人間らしい。
「世界に王様は1人で十分だろう、キング?このままじゃあ、君は、彼にその座を奪われるよ」
「……馬鹿馬鹿しい」
「おや?どうしてだ?」
にこり。
気持ち悪いほどに清々しい笑顔。
「あいつは俺の大切な人間だ」
奪おうだとか、そんなことはしない。
俺の言葉に帽子屋は笑う。
「どうしてそんなことを言い切れるの?君は何も
思い出していないのでしょう?」
「思い出した、はずなんだ」
そうだ、思い出したはずだ。
ぱきり。
木の枝が足元で弱弱しく折れた。
「じゃあ教えてよ。彼と君は前回の世界でどんな関係だった?彼のことをどう思っていた?アリスとはどうやって出会った?ジャックとは?――君は、生きていた?死んでいた?ほぅら、教えて、教えてちょうだい。僕に教えてみせてごらん、誰かに伝えてみてごらん!だって君は
思い出したんでしょう!?」
思い出したはずだ。
何を?
誰を?
どんな状況を?
……わからない。
わからないわからないわからない。
俺は誰。
何を思い出したっていうの。
何も、何も記憶にないのに。
どうして思い出せたのだと、思ったの。
「大切な、はずで」
「そんな曖昧な錯覚に、希望を抱いているというのかい、キングはさぁ」
――可哀相だね?
帽子屋の笑い声が脳に響く。
森の中に、響く。
消してやる。
こんな狂者、消してやる。
睨み付ければ、そいつは楽しそうに笑った。
俺が何を思い、何をしたいのかがわかっているようだった。
「“キング”は“キング”の居場所を奪うよ。現に、彼は、アリスの隣を奪ったろう?」
そうだ、あいつは。
アリスと親しげで。
「俺から、奪う?」
「そうさ。もうすぐ、すぐ、君の居場所はなくなってしまう。君は必要とされなくなる。だって王様は『1人で十分』だもの」
奪う。
俺なんて必要なくなる。
誰にとっても、いらない人間になる。
最初に、戻ってしまう。
1人ぽっちの、あの暗い部屋に、戻ってしまう?
エニグマの狂言物語の筋書か。
本当のことか。
わかりはしないけれど。
不安定だった空が、真っ暗に濁る。
大きな雨粒を、落とす。
ごろごろと、大きな音を立てる。
「キングは奪われたくないだろう居場所を役職を……アリスを。全部全部全部、奪うつもりなんだよ君から。彼はね」
いやだ。
嫌だいやだ嫌だいやだ。
俺は失いたくないよ。
何を。
全部。
今までのもの、全部。
「君から全てを奪おうとする彼が、憎いでしょう憎い憎いにくいニクイ憎いねぇそうでしょう?」
憎い。怖い。あいつ、そう。
俺はあいつが、憎い?
――いらない。
俺から奪おうとするあいつなんて。
“トオル”なんて。
イラナイ要らないいらない。
帽子屋も、悲しそうな表情と、憎悪に満ちた表情を浮かべた。
「――殺してしまえばいいよ」
静かに。
低い声で。
笑ったような、声で。
帽子屋は告げる。
俺に伝わった言葉は
残酷で
最低で
苦痛的で
非日常的で
非人間的で
それでも
……それ、でも。
“甘美な、言葉。”
「君が気に食わないと思う人間なんて、この世界に必要ないだろう?」
声は変わらず楽しげで、いつも通りで、狂気的で。
それでも、男は。
幼く見える顔を持つ、その男は。
――笑って、いなかった。
「君の憎悪は僕らの憎悪。君の喜びは……僕らの喜びさ」
帽子屋は静かに告げる。
僕ら、他の誰を含めているのだろうか。
……住人、全員か?
「君の心を代弁してあげる僕らが君を理解してあげる。あいつなんていらないいらないいらないいらないこの世界に必要ない君には必要ない」
綺麗な紫色の唇が弧を描く。
いつものように、笑えない。
俺も帽子屋も、笑いはしない。
いびつな帽子屋の笑顔が、目に映った。
空は大粒の涙を止めた。
ただただ、真っ暗で。
何も見えないくらいの、漆黒。
「大切な“彼女”を奪われたくないだろう?僕らもそうだ。大切な世界を、奪われたくない」
だから、だからさぁ。
「ナイフを手に取って、僕らを守って。
“キング”」
静かに
ゆっくりと。
ナイフを手に取った。
手はやけに、冷めたように思えた。
俺は、王様。
世界を、この世界を。
守らなければ、ならない。
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