――例えるなら、深い海に沈んでいくようだった。
溺れて、戻れなくて。
暗闇に沈んでいく。
誰もそこにはいなくて、泣いても当然のように誰も気付かなくて。
なぁ、感情を殺し続けて。
人のいいなりになって。
道具として生き続けて。
手の中に何か残った?
何も。
何も残ってない。
ひとりぼっち。
このまま、消えてしまう。
深く沈んで、もう感情を殺す必要もないよ、だなんて声が聞こえてくる気がした。
そう言われて湧き上がってくるのは沈んでいくことへの恐怖心。
死への、恐怖。
もがいたって上には上がれない。
嫌だ、死にたくない。
まだ、生きていたい。
普通の生き方なんて知らないし、生きていけるかもわからない。
それでも、生きたい。
そう願ったとき、温かい手が引き上げてくれるような感覚があった。
音が、フェードインする。
ぴ、ぴ、と一定の感覚で流れている音。
外から聞こえてくる子どもたちが楽しそうに騒ぐ声。
誰かがつけっぱなしにしたらしいテレビから、よくわからない漫才と笑い声。
それらに違和感を覚えたと同時に、あぁ、戦争は終わったのかと確認する。
楽しそうな子どもの声も、テレビのバラエティーも戦争や抗争の間にはあまりない。
聞いたのなんて、いつぶりだろうか。
目を開いて、息苦しさにせき込んだ。
口にマスクのようなものがついていて、あぁ、これのせいかだなんて無理矢理外した。
視界には、白。
怖くなるほど清潔な白。
ここは、どこだ?
病院、か?
自分はベッドに寝かされていて、よくわからない管が繋がれている。
体は全身が痛いのかというとそうでもない。
足はよくわからないが、痛みを感じない。
起き上がろうとして、理解をする。
足は痛くないんじゃなくて、感覚がない。
動かせない。
自分のものじゃないみたいな感覚だった。
生きていたのか。
死ななかった、死ねなかった。
部屋には俺しかいない。
自分でもよく、わからないけれど。
ぼたぼたと、涙が零れた。
嬉しいのか悲しいのか苦しいのかわからない。
おそらく、生きていることへの、安心からのものだ。
あぁ、馬鹿だなぁ。
こんなん道具じゃない。
人間でもないなら、俺は何なの。
もしかしたら救うだけが人間じゃないんだろうか。
こうやって、感情的になれたらもう人間でいいんだろうか。
よくわからん。
息苦しさに口を動かす。
息の吸い方すら忘れたように、はくはくと惨めに口を動かした。
ドアの開く音がして目を向けると、ナース服を着た女が驚いた顔でこっちを見ていた。
看護師か。
「今先生を呼んできます」だなんて言って部屋を出て行って、10数分もすれば白衣を着た白髪のおじいさんがやってくる。
「あなたの名前は?」
「……刹那、小野寺刹那」
「歳は?」
「にじゅー、ろく」
何かの確認なのか、単純な質問をいくつかぶつけられた。
意識は大丈夫のようですね、と笑いかけてくる。
あぁ、意識の確認だったのか。
優しい笑みを浮かべるその人から悪意は感じられない。
医者はテレビを見るかどうをを俺に問いかけ、それに答えるように首を横に振るとテレビを消した。
テレビが消え、誰もいなくなった病室は嫌になるほど静かだった。
ここには、
馬鹿みたいに騒ぐ馬鹿も
控えめに笑う少女も
いない。
あの2人はどうしているのだろうか。
どこにいるのだろうか。
無事、なのだろうか。
もぞり、と身動ぎをして横にあるテーブルの上に手をついた。
途中、体がついていかなくてバランスを崩した。
テーブルの上には、ピンク色の花。
不思議なくらい、生き生きとした花。
ただでさえ、戦争が終わって道具の必要がない世界で。
体の自由を失って、必要とされないはずの自分が。
この花を見たら、なんだか、誰かに必要とされている気がした。
気がするだけか。
花に触れようとして、またバランスを崩して。
花瓶ごとひっくり返し、それは無惨に床に崩れた。
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