窓を開ければ、湿気のある嫌な空気が入ってきた。マスクをして、雑巾を持って。私は今、長期休暇に向けて大掃除をしている。持ち越されない分の有給を使い果たすために、長期休暇をとった。その時間を部屋の掃除にとられるのは嫌だったからだ。
それにしても、こんな雨上がりのジメジメした日を選んだのは、失敗だった。そうはいっても、もう掃除をする準備をして閉まったからにはするしかない。意を決して私は山積みになった物たちの片付けにかかった。
ひとつひとつ手にとって、要るか要らないかの選別をするのは酷く時間がかかる。それでも、間違えて大切なものが紛れ込んだりしていたらいけないと分別をしていく。思い返せば私の人生も分別してばかりだった。要るか要らないかの付き合いばかりで、ちっとも子供らしくない人生を送ってきた。
元彼から貰ったアクセサリーがでてきた。初めてのデートのときに、炉端に出店をしているアクセサリー屋で買ってもらった華奢なブレスレットだ。デザインが可愛くて気に入っていたけど、これは要らないな。ゴミ袋の中に放り込んだ。
他にも幾つか出てきたがすべてゴミ袋の中へ消えていった。高校の友人からもらった手紙もぜんぶ。誕生日にもらったぬいぐるみも、昔好きだったアーティストのCDも全部全部捨てていく。
これから生きていく先には私に必要ない物たちばかりだからだ。そして私の手元に残っていくのは、仕事のファイルや得意先の方の名刺ばかり。自分が酷く虚しい人間に思えてくる。
ふと埃が被った箱が、隅の方に放置されているのに気が付いた。それを手に取り開けようとするが、鍵が掛かっているようで開かない。鍵の在り処を記憶に巡らせてみれば、自分の財布にしまい込んだことを思い出した。
今時珍しいスケルトンキー状の鍵は、ガチャリと無機質な音を立てて開かれた。中には、更に小さな袋と、一枚の写真が入っていた。
そういえば、こんなところに入れたっけなと記憶が蘇ってくる。写真に映る彼、不動明王は私の最初で最後の初恋の相手だった。
思い出したくない。けれども決して忘れたくない、そんな思い出の中に今もまだ住み続けている。
あの頃の私はほんとうに綺麗な恋愛をしていた。穢れなんて知らない、無垢でキラキラした水面上の世界。そんな世界で生きていた唯一の私だった。不動は、私にそんな綺麗な思い出をくれた人であり、それ以降の私を狂わした人間でもある。
初めてのキスは、彼の家だった。お互い初めてで、見ている方が恥ずかしいほどに顔を赤らめて。それでも嬉しそうにはにかんで笑う彼の表情は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
普段は悪戯に私をからかっては意地悪い笑みを零す彼だったけど、そのときだけはほんとうに綺麗な顔をして笑っていた。私も、ほんとうに幸せで、心から毎日笑えていた。いつまでも不動が隣にいる日々が続くと思っていた。それだけが、私の唯一無二の現実であると、信じて疑わなかった。
「なまえ、」
私の名前を呼ぶ不動が好きだった。顔を赤くして私に手を差し出す不動が好きだった。不動が最後に発した言葉は、なんだったか。
「幸せにしてやれなくてごめんな。なまえはなまえの幸せを信じて、俺の分も生きろよ」
最後の不動は、そうやって弱々しく呟いて、最後のくせに笑って。馬鹿だよ、不動は。病気は彼の体を日に日に蝕んでいった。治ることはないと医者に宣告されてから、最初から最後までずっと私は不動のそばにいた。不動はいつも口癖のように私の名前を呼んでは、幸せそうに笑っていた。それでも、時々悔しそうに涙を流した。そして最後まで私を不動のそばで見守ることを許してくれた。
きっと、見られたくない事だって沢山あっただろう。隠したい事だってあっただろう。それでも、私のそばで全てを見せてくれた。最後くらい自分の為に生きればよかった。最後まで私のこと気にかけて、謝って。一番辛いのは自分のくせに無理して笑って、俺の人生は幸せだったよだなんて思ってもないこと言っちゃって。
思い出すほどに涙は止まることなく溢れていった。笑って逝った不動のことが、忘れられる訳なく、今だってこうやってズルズルと引きずって生きている。齢14のまま、私も不動と時が止まってしまったようだ。あの時の思い出だけは、心の深いところで変わらずに鍵をかけておきたかった。それ故の、箱だった。いつでも、ついこの前のことのように思いだせるように、いつでも何度でも自分のことが責めれるように。一生、不動のことを愛していられるように。
不動がこんなこと望むはずないことくらい自分が一番よく分かっている。それでも、不動を忘れて誰かと繋がったとき、その瞬間こそ不動の本当の死だと私は思った。不動は一生私の中で生き続ける。私の肺を経由して息をきっとしている。私の視界を通して、きっと世界を見ている。そう思うと、幾分心は軽くなった。私が不動を生かしている。不動が私を生かしている。そのギブアンドテイクの関係が、学生の頃から形は違えど変わらずに今も続いているのだから。
小さな袋の中には、紫苑の花弁の押し花と、もう私には小さすぎる指輪が入っていた。不動が私の誕生日にくれた、ビーズのアクセサリー。透き通ったピンクと赤が交差した、可愛らしすぎるもの。
紫苑の押し花は、不動が入院中に一緒に作ったものだった。もしかしたら、不動はあの時から自分の先を知っていたのかもしれない。薄い紫の花弁は、今もなお淡い色合いを保ったまま存在している。
私は、指輪と押し花をもう一度袋の中にしまい、写真と共に箱の中へ収めた。そしてまた鍵をかけて、もとあった場所へ戻す。大切なものという言葉では表しきれないこの箱は、場所を変えるでもなく変わらずに同じ場所に存在し続ければいい。そしたら、自分ももう一度学生だったあの頃に戻れるような気がした。不動のいる、あの世界へ。
大概あたしも変わってないな。自嘲地味た笑みを零して、私は涙を拭った。
あの時を振り返る時以外は、前を向いていこうと決めた。不動がそうしていたように、不動のように生きていこうとしたかった。あの頃は失敗を恐れていつまでもうじうじと悩むような意気地なしだった私だけれど、変わった。
不動のように、堂々と。まっすぐに生きていくように努力をした。その中で、何度も不動以外と恋をして、第二の人生を生きていこうとも考えた。それでも、私は不動以外と恋をする事はできなかった。いつも心のどこかで不動と比べる自分がいた。その度に言葉に出来ない悲しさが込み上げて、自分にナイフをつきたてる。
これからもきっとあれ以上に本気の恋なんてできないんだろうな。自分の心を埋めようと何度違う人に抱かれようとキスしようと、心はより一層穴は広がっていくばかりで、ちっとも埋まらない。それどころか、終わったあとに更に喪失感が私を襲った。
もう居ないんだから比べるものがない。不動を失ってから、得るものなんてひとつもなかったよ。全部全部、失って、捨てていくばかりだ。だからこうして、要るものと要らないものを分けていかないと、自分の存在さえも区別できなくなってしまいそうなんだよ。
とことん報われないなぁ、あたし。
紫苑140705
prev /
top /
next