目を開ける瞬間、瞼の裏にこびりついた鮮やかな蒼や碧、紅の剥がれる感覚がして、ああまた遠いところへ来たんだと思い知る。天蓋つきの真っ白なベッドと、水色のクッションと金色のカーテンに囲まれた部屋。
飛び起きて、私はカーテンを開ける。布が厚くて、子供の腕には重い。だけどそれすら慣れたものだ。下をめくって、潜り込めばいい。そうしてカーテンと窓の隙間から、外の色を見る。空は黄昏をようやく過ぎた藍色。今回も、目覚めは比較的早く済んだ。
ドアを開けて外に出ると、長い廊下がまず目に入る。どちらに進んでも最後には同じところへ着けるから、左右は確認しない。金色の丸いドアノブが並んでいる。絨毯は柔らかくて、ふわふわして走りにくい。ゆっくり、ゆっくり生きるようにできているのだ、ここは。辛いことを何もかも、忘れるための場所だから。
「あら、シロちゃん。どこへいくの?」
「階段は遠い?」
「そうねえ、まだずっと先よ。もうすぐ夕ご飯だから、今日はやめておいたら」
見覚えのない、だけどどこかで会った気のする綿菓子のような人が、エプロンの裾から温かいシチューの匂いをさせながら話しかけてくる。にんじんやじゃがいも、たまねぎの溶けた匂い。何ともなかったはずのお腹がきゅうっと鳴って、私はすぐにでも、その人について行ってごはんを食べなくちゃならないんだという気持ちになる。けれど。
「ううん、ごめんね。せっかく用意してくれたのに」
「あら、来ないの? みんな待っているのに」
「私、行かなくちゃならないから。どうしても、どうしても」
誘いに乗ってしまったら、きっと今夜はもう、階段を探しに行くことはできなくなってしまうだろう。お腹がいっぱいになるのは幸せで、幸せは人をのんびりさせる。見覚えのない、けれどどこかで知り合いだった気のする友達がいっぱい話しかけてきてくれて、私は人形遊びと絵本にあと五分、あと五分と気を取られてしまう。
そうしている間に、外は暗くなって、すっかり夜になって。見覚えのない、だけどお母さんみたいな人がもうおやすみ、とランプを消しに来て、私は手を繋いで部屋に帰って朝までぐっすり眠ってしまう。
自分が何者だったのかも、忘れて。
「あら、シロちゃん。夕ご飯は後にするんですってね。クッキーあるけど、食べる?」
「いらない。それも後でね」
「シロちゃん、お風呂にはもう入ったの? まだならお兄ちゃん、お姉ちゃんと一緒に入ったら」
「うん、分かってる。でも、私に兄弟はいないよ」
「シロちゃん、こっちにね」
「後で行くよ」
「シロちゃん、シロちゃん、ねえ」
「ありがとう、みんな。優しいね」
おいでおいでと、私を招く声はどれも優しい。その優しさがまがい物でないことは、もうすぐ、この吹き抜けになった螺旋階段の上から食堂を見下ろしてみれば分かる。
長方形の大きなテーブルに、たくさんの子供や大人が並んでいる。みんな一様に幸せそうな顔をして、温かい夕食を頬張っている。
綿菓子みたいな、お母さんみたいな、おばあちゃんみたいな人がたくさんいて、みんなのお皿にシチューをよそって回る。パンにバターを塗ってくれる。ローズマリーの香りのする水を置いて、ゆっくり食べなさいね、と笑う。
オイルランプに照らされた、笑い声の絶えない食堂を見下ろしながら、私はカンカンと音を立てて錆びた金属の階段を駆けた。柵は腐食して、手すりは所々落ちている。板にも穴が空いていて、食堂の明かりや空の青が覗いて見える。
遙か、雲さえも遠く見えるほど、ここは高い。下を向くと足が竦んで動けなくなってしまう。一秒でも無駄にしてはいられないから、前だけを向いて駆け上がり続ける。
階段はとても長い。息を切らして上り続ける間に、夜が深くなって、食堂の明かりは消える。代わりに部屋が並んでいる二階の廊下と、食堂の隣の図書室に明かりが灯される。紙飛行機が廊下を飛んでいく。小さな子たちが遊んでいるのだ。大きな子と大人は図書室に集まって、本を読んだり、ゆっくりと喋ったり。
何度、この景色を見たかそろそろ数えても思い出せなくなってきた。いつも見ているだけだ。入ったことはずいぶん前に、一度だけ。あそこに行けば幸せなことは分かっているけれど、今の私にその選択はない。そしてこれからも、きっとない。例えばあのひとが世界から消えるだとか、よほどのことがない限り。
「――来たか」
カンカンと鳴る靴音よりも荒い呼吸のほうがうるさくなって、月が天頂にかかるか今かというころ、やっと螺旋階段は終わりを迎えた。フードで顔を覆った、死神みたいな男が一人立っている。石の柱で作られた、門がある。それ以外には何もない、小さな頂上だ。
「来るとは思っていたが、何も本当に来ることもあるまいに」
「……っは、はあ……、赤ん坊は……?」
「案ずるな、まだ誰も生まれていない」
息を切らして訊ね、男の返答に、どっと力が抜けた。足下に崩れ落ちた私を、男は無言で見下ろしている。間に合った。その事実だけで、ぼろぼろに砕けそうに疲れたと思っていた体の奥から、温かいものが湧き上がってくる。
男が小さく、長いため息をついた。
「ゆっくりしていけば良いものを」
「あなたまで、綿菓子みたいなことを言う」
「特別に甘やかしているわけではない。当たり前の恵みを、お前が受け取らないだけだ」
「シチューとか、クッキーとか、温かいお風呂とか」
「ああ」
「忘れるための、時間とか?」
「……そうだとも」
に、と唇に笑みを浮かべる。五歳の姿で死んだ私は、五歳の少女の形をしているけれど、不釣り合いな表情を浮かべても男は今さら驚かなかった。石の床に転がっていた体を起こして、大きく夜の風を吸い込む。
すぎたほどに澄む風の匂いは、あの神殿の生活と似ていた。
「お前たちには、忘れる権利がある。そしてそのために、世界から恵まれる権利が」
抑揚のない、ぼそぼそとした声で男は語る。五歳の子供に聞かせたところで、理解できるはずのない言葉で。
階段の穴から明かりを見下ろす。小さすぎて、もうなんの明かりなのかは分からないけれど、かすかに人々の笑い声が聞こえてくる。
ここは贄として死んだ人たちのための、転生施設だ。どこの世界から来たのかは知らない。みんな、誰かの創った神様に捧げられた一つの命。それらがあらゆる世界を跨いで、この場所に集まってくる。そしてゆっくり、時間をかけて辛い思いや怖い思いを忘れていく。大切にされて、悲しみが癒えたら次の生を選んで旅立っていく。贄の来世はとても広い選択肢に恵まれている。王様でも貴族でもいい。大概のわがままは願えば叶う。
多くはみんな、とびきりのいい生か、少なくとも平凡より少し幸せなくらいを望んでいくらしい。その頃にはもう、自分がどうしてここにいるのかなんて忘れているけれど。
「して、どこへ行く?」
「同じ町へ」
「……何者として」
「次代の『シロ』として」
私は、二度目にここへ来たときから、同じ転生先しか口にしたことがない。男が沈黙に、かすかにフードを下げた。
一度、贄として彩の神に捧げられ、ここで過ごして、別の生を選んだ。けれどどういう因果か、私はその後の生で、また彩の神の贄になった。
私は、この人を、知っている。
無限に紅葉する山のような、異形の神の前に立ったとき、思い出せない既視感で立ち尽くしてしまった。呆然として、何も言えずにいる私を丸呑みにする彩の神は、玉虫色の瞳に深い悲しみを負っていた。何も分からないまま、呑まれ、食われ、抜け殻となって――そうしてここで目を覚ましたとき、すべてを思い出したのだ。
二度目だった、と。
この場所も、この生も、すべてが二度目だ。だから彩の神に見覚えがあったのだ。
命が消える瞬間の謎が解けたとき、私の足は一度目の記憶を辿って、階段を駆け上っていた。忘れたくなかった。もう一度生まれて、言わなくてはならないんだ、と思った。
あなたが泣いていることを、私は知っているからね、と。
「扉を、繋いで」
息を整え、膝に力をこめて立ち上がる。絨毯の上で暮らすための、柔らかな靴は壊れ、爪先に血が滲んでいた。赤い、紅い、痛みの記憶。死すれば忘れてしまうその熱さを、あのひとはずっと、抱えて、抱えて。
「……分かった」
男が静かに、柱の前で手を翳す。見えない幕が上げられたように、風が強く、吸い込まれていく。門の先は私の望んだ世界、望んだ生に繋がっている。
彩の神の神殿のお膝元。シロが死んだと噂に暮れる小さな町の、今まさに生まれようとしている、赤ん坊に。
「幸せか」
「分からない」
「そうだろうな」
「でも」
男がゆるりと顔を上げた。フードが風に煽られて、クロと瓜二つの、寡黙そうな顔が覗く。
「幸せであることだけが、本当の望みとは限らないの。少なくとも、私はそう。その望みを叶えるために、何度だって生きる」
来世の私はまた、何も知らない赤ん坊として生まれて、今の記憶など引き継がれずに神殿に運ばれて、贄になるだろう。けれど繰り返す同じ生は魂の轍を深くして、いつの日か、たくさんの私が埋め続けてきた思いを掘りあてる。
私がずっと、あなたの『シロ』でいてあげるから、だから。あなたは多くの人間を食べてなどいない。深すぎる罪を負う必要は、もうないのだと。
「……業だな、もはや。解き放たれたくなったら、そのときは話を聞こう」
その一言を伝えるためだけの、何度目の生と死だろうか。前世も、そのまた前も前も、私はあなたの噛み痕で死んだ。
繰り返される極彩色の傷口は膿んで、爛れても尚、色鮮やかに私を浸食し、駆り立てる。ああ早く、早く、誰よりも早く。
「ありがとう、さよなら」
あのひとの元に、逝かなくちゃ、と。