東の彼方に管理者を失った世界があると聞いて、生きているなら再生の余地があるなと足を踏み入れた。自然のエネルギーを循環させる管理者が、どうやらここを捨てて、別の世界に飛んでいってしまったらしい。原始のように荒ぶる自然をもう一度手なづけ、生き物にふさわしい環境に調整していく必要がある。
想定よりは時間がかかったが、できない作業ではなかった。自然は適切な秩序を取り戻し、混乱していた生き物たちも元の生活を取り戻した。
そして俺は力を使い果たし、休養のためにしばらく眠るつもりだった。だが、眠りを許さない生き物がいた。人間である。
彼らは俺が眠っている間に、もう一度、自然のエネルギーが上手く回らなくなることを怖れていた。管理者なき世界の恐怖はまだ、彼らの中に根深く残っていて、言葉で宥めても消せるものではなく、このまま起きていても今の自分には大したことはできないと説明しても無駄だった。何があればまたこの世界を守ってくれるんだ、という。力だ、そのために眠ると答えると、眠り以外で補う方法はないのかと訊ねてきた。
――贄がいる。
そう答えたときの彼らの顔を、今でも時々浅い眠りの夢に見る。あれは希望だった。絶望でも畏怖でも失望でもなく、ああなんだそんなことでいいのかと、彼らは俺に同胞を捧げ出すことに、希望を見いだしたのだ。
その日から、俺と彼らの長きに渡る、守る、捧げるの関係ができた。
ほとり、ほとり。
黒曜石の水面が揺らぐと、一滴、また一滴と水が溢れ落ちてくる。それは寝ころんだ俺の唇に触れ、歯列を伝い、じんわりと舌に染み入った。
「ホトリ」
落ちる水滴の音ではなく、その涙の主の名前を呼ぶ。漆黒の髪、漆黒の瞳。彼女の名は、ホトリ。かつて名前を持たなかった彼女に、透明な涙の音を付けた。
「なんでしょう?」
「もういい、充分だ」
絹の衣をぴったりと纏った膝から起きあがって、長い髪に隠れた小さな肩を引き寄せる。眦に残った涙を舌の先で掬うと、伸ばされた腕が遠慮がちに首へ絡み、すぐ近くで目が合った。
「シキさま」
その目のふちから、湧水のようにまた一粒、彼女が涙を浮かせるものだから、もったいないと舌を這わせる。抱き上げた体が膝の上で、ぐずるように身じろいだ。
「もっと飲んでくださればいいのに」
「目覚めを維持する分には、これくらいで足りる。いつも言っているだろう、ホトリ」
「……はい」
「俺は、お前からはできる限り、何も奪いたくないんだ」
巡る、巡る。管理者とは、自然のエネルギーを体内で作り出して調整し、外に振り分ける装置のようなものだ。管理者の生命の維持には、一定量の力が必要とされる。眠らないのであれば、一度振り分けた力を、どこからか自分のためにもらい受けなければならない。
俺はそれを、人間から供給され続けてきた。人間が望んだ目覚めなのだから、他の生き物から奪うのではなく、彼らからもらうことが世界の理だ。
振り分けられた自然のエネルギーは、人間の内に溶け、大部分が血液として巡る。一人の血を糧として、一年は目を覚ましていられる。世界を見守るため、目を開けているだけでいいのなら、それで充分だ。
一年に一人、月が最も青く光る夜に、贄は差し出された。男の姿をとっているからか、美しい娘が差し出されることが多かったが、青年のときもあれば老婦のときもあった。年老いた人間の中には、流れる力がわずかに少なくなる。俺は余計な力を使わずに済むよう、森の奥の泉に術を張り、そこでは時間がゆっくりと流れるようにした。
睡蓮の花が咲き揺れている。これは何年前に開いた花だろう。丸く広がった葉の上には、いつかの朝露がまだ転がっている。そして泉を囲う木々だけは、森が冬を迎えても青々と茂ったまま。
いつしかここは「時の止まった場所」と呼ばれ、限られた人間と贄だけしか出入りをしなくなった。俺が管理者であった過去は薄れ、まだらな情報だけが口承され、神となった。創った覚えのない世界を、たまたま再生して、頼みに従って見ているだけなのだが。気づいたときにはそんな真実を口にしても、取り合ってくれる人間は皆、土の下だった。
俺がここで何をしているのか、知る人間はいなくなった。
自分たちの祖先が望んだとも知らず、そこにいるから贄を差し出す。差し出さなければ不可思議で恐ろしい目に遭わされると思っているから、より美しく、より従順で、より健康なのをと血眼になって見定める。
理の端が、静かに綻びていくのを感じた。彼らにとって、いつか俺はまごうことなき畏怖の対象となり、やがて敵対する日が来るのだろうと。今更ここを棄てて、遠くへ行けるだけの力もない。俺は彼らによって殺される。
ホトリが贄として贈られてきたのは、そんな諦観の足音が聞こえ始めたころだった。
「もっと、と言っているのは、あなたのためではないのです」
囁き落とすような、小さな声に顔を上げる。わたしの来るべき場所はここで合っているでしょうかと、何年前か、何十年前か、睡蓮の橋に足をかけて訊ねたときと同じ声。
共を一人も連れず、触れれば折れそうに線が細く、消え入りそうな声のわりに、凛とした眼差しでまっすぐにこちらを射る少女だった。招いた手に、手が重ねられた。真っ青な月の下、予感が胸を貫いた。
「わたしが今日はもう少し、傍にいたいから。涙を分けているときはずっと、言い訳がなくても、あなたと触れ合っていられるから」
自分はきっと、この少女が欲しくなる。
贄としてではなく、一人の人間として。血ではなく、言葉や眼差しや、心が欲しくなるだろうと。
予感は正しかった。馬鹿げた真実になる前にと儀式を急いだ俺に、彼女はやっと聞き取れるくらいの小さな声で言ったのだ。
あなたは何者なのですか、と。
わたしを取り込む前に、どうかあなたが何者で、なぜここで出会ったのか、わたしが安らかに眠れるように、わたしたちが知らないことを教えてください、と。
二度と、誰にも問われることはないと思っていた俺のここにいる理由が、本当の姿が、解き放たれた瞬間だった。長い月日の話をした。気の遠くなるような、人間との話を。俺が人間を必要とするようになった、きっかけの話を。管理者、と呼ばれていた、正しい名前を持っていたころの話を。
気づいたときには、月はとっくに森の彼方へ傾き、木々の向こうの空が白んでいた。
別れのときだとは、一思いに踏み切れなかった。
俺は彼女に、最初で最後の嘘をついた。
即ち、お前が真実を分かって傍で支えてくれるなら、贄として命を落とす必要などないのだと。
「……引き替えにするものなどなくても、時間ならすべて、お前にやる」
「シキさま?」
「時間だけではなく……、俺の手に届くすべては、とうにお前のものだ」
その日から、ずっと。ホトリは俺に、血の代わりとして涙を捧げ続けている。彼女に与えられる涙で、俺の目は覚め続けている。それは本当だ。けれどその程度で、この世界中に満ちる自然のエネルギーを管理する力など、足りているはずもなく。
「愛している、ホトリ」
こぼれそうになる無様な真実を、隠すように唇を重ねた。
世界はすでに滅びている。正確には彼女の知っていた、穏やかで、人間の生きていられる地上はもう存在しない。空と海が混じり、植物が土を覆った。生き物は絶滅を繰り返し、過酷な荒廃に耐えられるものだけが残った。
泉を覆う木々の外は、もはや太古の森そのものだ。その森すらも一つ、また一つと滅ぼして、俺は一人の少女とこの場所を守ることだけに力を注いでいる。
ホトリ、彼女は俺に捧げられた、世界を守るための贄だった。
今は世界が、彼女の贄だ。層を成して沈む億万の亡骸の上、潤んだ両目に手のひらを当て、いつか終わる果てしのない時を、口移しで捧げる。