その少女を呑み込んだ日から、声が聞こえるようになった。
「ねえねえ、竜さん」
「……なに」
「今日はどんな天気なの?」
 紛れもない、私の胃に沈んだはずの少女の声が。私以外には聞こえない、けれど私には確かに届く。虫の声よりも、風の唸りよりも、自分の呼吸の音よりも近く。
「快晴よ。東の空に雲はなくて、風も穏やか」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ミモラの花もまだ散らないね」
「そうね、雨の匂いもしないから、この調子ならまだ何日かは春らしい景色が続くでしょう」
 私の内側から、その声は聞こえてくる。
 初めて会話になったとき、私は百万年の寿命が終わるかと思うほど驚いた。翼を広げたのなんて、何年ぶりだったか。洞穴から飛び立ちそうになった私を、待って待ってと引き留めたのはやはり、同じように驚いている彼女の声だった。
 少女は、私の贄だった。人がやってくる遙かな昔から、この村の岩壁に風が作り出した、洞穴に棲みついていた私への贄。私は百年に一度、洞穴を出て百の動物を狩る。十年に一度、一人の贄を差し出すから、その百年ごとの狩りの対象から自分たちを外してほしい――それがヒトの願いであり、私の受け入れた契約だった。
「ミモラの花を一つ取ってよ」
「どうして」
「毎年、春の終わりには髪に飾るの。それで輪になって、村で一番幹の太いミモラの周りで踊るのよ。そうするとね、来年の春もたくさんの花を咲かせてくれるから」
 契約に従い、私は今年、捧げられた贄の少女を口にした。もう何度めの行いだったか、ヒトも私も覚えてなどいない。
 それがなぜ、今年に限ってこんなことになったのかは定かでないが、私の中に贄の一部が残ってしまった。肉でも骨でも血でもない、何かが。
 少女いわく、人間には時々、手術で心臓をうつすと持ち主の記憶を受け継いでしまう人がいるという。他にも、臓器をうつすと能力や感覚の一部が引き継がれることというのは稀にあるそうだ。
 ならば、私にあなたの何が引き継がれたというの。
 そう訊ねると、彼女はしばらく黙って、心と言った。
「踊りたいの、あなたは」
「気分だけでも」
「人間は変なものね。ミモラの花なんて、たくさん咲いても別にあなたたちの食料にはならないでしょうに」
 ふう、と息を吸い込めば、洞穴の外に咲いていたミモラの枝から花がひとつ、ぷつりと外れて吸い寄せられてきた。これをつける髪ももうない。踊る手足もない。どうしろというのかしら、と思いながら、小さな桃色の花を咀嚼する。
 味はない。小さすぎて、喉を通ったのか、腹に行き着いたのかどうかもよく分からない。
 入れ替わるように、少女のくすくす笑う声が聞こえた。
「確かに、私たちは食べないけど」
「ええ」
「でも、蝶や蜂が蜜を吸うわ。たくさん集まって、畑にも下りてくる。鳥が実を食べて、山に種を運ぶわ。ミモラの花が山の頂上でも満開になると、そろそろ季節が夏になるって合図なのよ」
 洞穴に、花の匂いを積んだ風が吹き込んでくる。大きく息を吸って、吐いた。ミモラの花を毎年囲んでいたはずの彼女は、なんの反応も返さない。やはり、この身の内に少女の肉体や五感は何一つ残っているわけではない。
 最初で最後の朝に見た、小麦色の髪がぼんやりと思い出された。
「……見たい? もう一度」
「ミモラの花を? そうだね、みんなで外に出て、春だーって騒ぎたい」
「素直な子」
「えへへ、隠してもつまらないかなって思って。でも私、これはこれで楽しいと思ってるよ。竜さんのこと、好きだもん」
 はじめましてと笑った顔を、もっとちゃんと見ておけばよかった。繰り返される別れの一つと、安易に扱ったりしないで。
 肉体や骨は儚く溶けて消える。ならばそこに宿されていた心は、いつまで私の中にあり続けるのだろう。
「……竜の目から見るミモラの花も、小さなものだけれど、美しいわよ」
「どうしたの、いきなり」
「私はね、あなたをもう一度、自由にしてやりたいの。器をあげて、心がもう一度、動けるようにしてやりたい」
「え……?」
「今年のミモラは、溢れんばかりに咲いているわね。知っていた? ミモラがこんなふうに開くのは、千年に一度――」
 風や空とは違う。命あるものは、永遠ではない。まして命を過去にしたものには、きっと、すぐに刻限がやってくる。
 その前に、心をうつしかえる器を、私が作れれば。
「竜が、繁殖を許される年の合図でもあるって」
 形なき声が、息を呑むのが聞こえた。
 ばさりと翼を広げれば、とたんに先が岩壁を掠める。此処は暖かく、暗くて狭い。はばたきの音が反響する。
「村を出るわ。つがいを探して、私はあなたを産む」
 青空の下、千年ぶりに広げた翼が風を切った。
 ミモラに染まる山を越えてゆく。誰にも見えない荷物をはらからに、見下ろした地平線は、遙か遠く青い。


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