ばくん、と口に入れた魂はまだ随分と幼かった。ぬるい水を噛むような感覚。親族の声が鼓膜にキリキリと五月蠅い。
「叶恵、叶恵。お願い、目を開けて」
「お母様、あまり揺すらないように。ただでさえ危険な状態なんです」
「でも……!」
見下ろせば、手術台のようなベッドの上で子供が眠っていた。小さな身体から延びる管や、囲む手の夥しいこと。心電図はまだ辛うじて動いている。どうやらこの魂は、この少女のものらしい。
(……なるほど、ねぇ)
 咀嚼する前の魂には、生命のデータが残っている。柏木叶恵、二歳。出生時、心身ともに異常はなし。一人娘で両親に愛されて育つが、本日午後五時二十分、母親が目を離した隙に二階のベランダから転落。生命の危機に陥る。
 風船ガムを弄ぶように、しばし魂を転がす。不運なことだ。人間とは、こんな些細なことでも魂を手放してしまうことがあるのだから不便で不憫な生き物である。自分だったら生まれた時点で発狂しているだろう。脆弱な身体を守り抜くだけの云十年なんて、到底耐えられない苦行である。
 ―――だが、しかし。俺はそこで、思わず自分の唇に笑みが浮かぶのを堪えられなかった。そうであってくれ、それでこその人間、悪魔の餌である。くつくつと零れる笑みで押し出すようにして、俺は一度口にしかけた魂を、宙へ吐き出した。
「あ……っ!?」
「心電図が!」
 吐き出された魂が、所在を求めるように慌てて元の身体へ帰ってゆく。低迷していた心電図が、まさに息を吹き返すようにびくりと震えた。途端に騒がしくなる、人間の群れ。母親と呼ばれていた女と、隣に寄り添った男の目に光が射す。
 幼い魂を、純粋な味わいだと言って探して喰らう者もいるが。俺にとっては、ただの味気ないものにしか思えない。人間の魂の味は、持ち主がそれまでに経験した不幸の量で決まる。不幸が多いほど苦くなる、と思ったら間違いで、正解は全くの逆だ。人の何とかは何とかの味。不幸に喘いだ魂ほど、甘いものはない。
 俺にとっては、比べるまでもなくそちらのほうが好みだ。魂を戻された少女の瞼が、今にも開きそうに震えている。医師と親族の背中越しにそれを見つめて、俺は笑った。
 ―――ああ、なんて不幸な子供。
 悪魔に魂を売る、という言葉がある。ニュアンスとしては死を連想させるが、本当のところは逆だ。人間が悪魔に魂を売るときというのは、人の身で持てるものでは何を支払っても対価にならないようなことを成し遂げたいとき―――例えば、死を覆すことであるとか―――、そういったときに行われる、契約行為である。死を覆した結果、死ぬのでは意味がない。だから、そういった場合に悪魔が魂を手にするのは人間の願いが達成されてからということになる。つまり、人間がその生涯を終えるとき。売られた魂は天ではなく、買い取った悪魔の手に渡るのだ。
 そして驚くべきことに、人間の中には死に直面したとき、何の知識も知恵もなくとも、悪魔を呼び出してしまえる魂の持ち主というものが稀にいる。
「……」
 目の前の少女が、まさにそれだ。まだ言葉も辿々しいような歳にして、悪魔の呼び出し方など知っているはずもない。しかし、彼女は現にこうして自分を呼び寄せた。それは一言で言えば、天性の体質なのである。神々しい言葉で言うならば、願いの力とでも言うところか。
 しかし、どう足掻いてもそれは加護とは呼べない。天使であれば安らかに天へ導いてしまうだろうし、悪魔であればそれは、呼び出した悪魔の判断次第である。我関せずを貫く者、正当な契約としてその人間を生かす者、ものも言わず貪る者。すべては当人の運一つで、どうとでも転んでしまうのだ。
 しかし、彼女は生き残った。呼び出した悪魔は幼い魂に興味が薄く、幸いにそれほど飢えてもいなかった。九死に一生、まさに奇跡的。彼女には今、若干二歳にしてこの先の人生の安泰が手に入ったようなものなのだ。
 だが、それには当然、対価が払われている。魂を売った悪魔がその魂を契約と称して手に入れれば、それが対価ということになるが、彼女には返されたのだから。代わりに別のものを失っている。運である。
 生命の危機を彷徨い、悪魔によってその暗闇から引き上げられた。そんな奇跡の対価は恐らく、彼女が生涯で使える幸運の半分くらいに及ぶだろう。柏木叶恵。彼女はこの先、不運の多い人生を送ることになる。それは不公平なのではない。ただ今この瞬間に幸運を大量に消費してしまった、それだけの話なのだ。
「ご愁傷サマ」
 目を開けた少女に群がる人間たちの後ろから、そう呟く。まだ焦点の合っていないであろう幼い両目は、そのすべての視線を飛び越えて、俺を映していた。彼女にはこれから先、多くの不運が降り懸かる。乗り越えるか、飲まれるかは彼女次第。乗り越えるたび、その魂は一層甘いものになる。
「人生のラッキーを半分使って、見逃されるんだ。退屈なところで死ぬんじゃないよ、まあ言っても分かんないか」
 契約を結ばないということは、この魂を監視下に置かないということ。だからこれは、ある種のゲームだ。気紛れに見逃したこの魂が、今後どう生きるのか。そして俺は、最後にそれを手にするのか、途中で飽きて貪るのか、或いは忘れたり、別の何かに奪われたりするのか。すべてはこの先の彼女にかかっていて、誰にも予測ができない。
 だから、面白い。主食になるべき人間もいれば、スパイスになるべき人間もいる。俺にとって彼女は、この瞬間に後者となった。
「あんたが、大人になる頃に。元気で生きてたら、また会おうね」
 バイバイ、今まで俺を呼んだ中で最も幼いお客さん。心の中でそう笑って、幼い両目に手を振って、消えた。

 それから、二十年の月日が流れた春の話。
「やあ、そこのお嬢さん。嘘はお一つ如何かな」
 あのとき、微かに歯を立てた魂の香りを辿って、俺が彼女を見つけたのは閑散とした公園だった。目の前でヒールを折って二度も転ぶものだから、すぐに確信が持てた。想像以上に不運に、そして何より。
「……貴方、誰?」
「さあね。あんたは?」
 その不運を乗り越えて、必死になって強がっている。
 期待以上の甘い魂の香りに、喉の奥が疼いた。咲き急ぐヘリオトロープのような、人知れぬものを呼ぶ香り。よくぞこれまで、他の悪魔に狙われずに生きてきたものだ。嗚呼。
「叶恵。……柏木、叶恵だけど」
 ―――叶恵。ここで会ったのが、あんたの二度目の運の尽き。すぐに喰らうにはあまりに惜しく、放っておいて他の者に手を出されるのは忍びない。
 悪魔に興味を持たれるなんて、この世の何にも勝る不運を手にしたその魂が、どこまで熟すのか。この目で見届けようと思ったとき、すべては始まった。

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