月曜日のシリウス



 ぐるぐると胃の中で、炭酸が音を立てて回っている。始発列車に人はほとんどおらず、七号車に乗っているのは僕たち二人だけだった。人目がないのを良いことに、長い座席に足を広げて座り、空腹から来る微かな気分の悪さを紛らわすように背もたれへ腕を乗せて窓を見た。通り過ぎてゆく景色は鈍い。ガタンタタンと、不規則な揺れが視界を戸惑わせる。
「あー、吐きそう」
「直球だなぁ」
「腹へった。コンビニがないなんて思ってもみなかったよな」
隅に追いやったはずの気持ちの悪さを、左隣の声に引き戻されて溜息をついた。考えることが同じ、ということが必ずしもいいとは限らない。口に出す派か出さない派か、本当に重要なのはそちらである。とはいえ、引き戻されたところで彼の言うとおり、僕たちの腹の中には出るものもそうそう入っていないので構わないのだが。オレンジの炭酸飲料が、五百ミリずつ。そんなものだ。満腹や酔いではなく、空腹から来る遣る瀬無い吐き気である。
「重いから向こうで買おうって言ったの、誰だよ」
「悪かったって」
「別にいいけどさ。僕は平気だけど、お前どうするの」
「え?」
窓に張りついていた腕を剥がして、少しだけ汗ばんだ膚を擦って僕は視線を隣へ向けた。視界の中を流れていた、緑の向きが逆になる。飛び込んでは遠くなっていく景色を背にして、春に明るくなった髪をかき上げ、彼もこちらを向いた。ガタン、と車両が声を跳ね上げるように揺れる。
 「飛行機、乗れるのかよ。そんなんで」
 一人分には満たない座席の隙間を転がった、自分の声がぼやくように無愛想に聞こえた。海外へ発つとは到底思えない、小さなトランクに肘をついていた彼が瞬きをする。どこから見ても真新しいそれは、キャスターに近い下の部分に乾いた土がついていた。一晩中引き回したのだから、無理もない。
「平気だよ。何か食えば治る」
「時間、ないだろ」
「機内で食うから」
「ああ、……そっか」
小さな駅を通過して、快速電車はのろのろと走る。膝の間で両手を組んで、僕はちらと自分の鞄を見た。草の上に投げ出したわりには、綺麗なままだ。裏返してみても、それは変わらなかった。
 「結構、良かったよな」
 「何が?」
 「星」
 そう思うだろ、と。満足げに笑って足を組んだ、爪先がトランクを軽く蹴る音が響く。土に汚れているが、気取った靴を履いていた。ジーンズも心なしか良いものに見える。当然か。
「ああ、うん。そうだな」
僕は答えて、身軽だが同い年にしては整った身なりの彼を眺め、頷いた。旅に出るようなものだ。草臥れたスニーカーと服では、あまりに心許ない。
 「いい思い出に、なった」
 「そうか」
 日曜日、夕方から待ち合わせて星を見に行った。夜空に興味はそれほどないが、たまにはそれも悪くないか、と。いつものように電話で約束をして、自動販売機でジュースを買って、帰宅する人たちと反対へ向かう電車に乗り込んで。そうしてコンビニもない無人の駅で降りて、どこから仕入れた情報なのか、彼の見つけてきた星がよく見えるという小さな山へ登って、望遠鏡ひとつないくせに点が煌くだけの夜空を見上げたまま、日付を跨いだ。空が白む頃、草の上に寝転んだせいで痛む背中を伸ばしながら山を降りて、反対のホームで電車に乗った。
 そして彼は今日、この電車の終点で降りて飛行機に乗り換え、日本を出る。
 「イギリスとの時差って、どれくらいだっけ」
 ぐるぐる、炭酸が回っていた。腹の奥にある空白を持て余すように。彼の行こうとしている街は、僕に想像もつかない場所だ。電車がまた一つ、それほど小さくもない駅を通り過ぎた。電光掲示板の表示は特に変わらない。
「九時間くらいだな。日本のほうが早い」
「ふうん。飛行機には、何時間くらい?」
「十二時間と少し」
「長いなぁ」
「食ったり寝たり、食ったり、寝たりするわ」
「ははっ、だろうな」
彼が空の上でスナックを片手に欠伸を噛み殺すところを想像してみたら、あまりに容易に思い描けて、声を上げて笑った。終点の空港の名前を繰り返すアナウンスが、ぴたりと止んで静かになる。
 僕はもう一度、隣を見た。何の言葉も交わしていなかったが、確かに目が合った。徐々に明るくなっていく空が、彼の背中に零れる。
「……勉強なんて、いつからしてたんだよ。お前が英語で話すところ、想像つかないわ」
「俺も。去年くらいからかな、留学なんて考えたこともなかったけど、案外できるもんだって分かった」
「できるかどうか、これからだろ」
「そうだけどさ」
空は、不思議だ。あれほど見上げていた星が、もうどこにも見えない。十二時間も飛んでいくのだから向こうに着く頃にはまた夜空を見上げそうなものだけれど、九時間の時差を遡るように飛んでいくのだから、実際はまだまだ明るいうちに着くのだろう。なんだ大して変わらないな、でも、とてつもない場所まで来た、でもいい。その明るさが少しでも、彼にとって幸先の良いものに映ればと思う。
「二年だっけ」
「そう、それで帰ってきてからこっちでもう一年」
「じゃあ、僕のほうが一年早く卒業することになるな」
「ああ」
組んでいた両手を離して、そんなささやかな願いを宙に解いた。トランクを近くに引き寄せて、彼が言う。
「先に行っててくれ。俺は少し、寄り道するけど」
「うん」
「帰ってきたとき、お前に前へ立たれたと思ったら、すぐにまた追いつこうと思えるような気がする」
「あ、そう」
電車がゆっくりと減速して止まった。終点が近くなると、大きな駅が増えてくる。七号車にも人が乗ってきた。だが、まだまだ少ない。新たな乗客は僕たちを見ると、辺りを見回してから少し離れた場所に腰かけて新聞を広げた。始発の、この車両の常連なのだろう。
 「仕方ないから、僕は真っ直ぐ歩いてやるよ」
 何だか吹っ切れた気持ちになってそう笑って言えば、彼は少し驚いたような顔をして、それから穏やかな声で、そうか、助かる、と笑った。長いようで短い、二年という時間だ。彼は簡単に帰国できないだろうし、僕は会いに行くかもしれないし、行かないかもしれない。模様の書かれた切手も、彼が送ってくるなら別だが、僕が日本のものを送ったところで彼にとっても面白味はないだろう。元気でやっているか。たまにはそれくらい聞きたいと思いながら、聞かないまま、二年が経つという可能性だって十分にある。
 けれど、それでもいいのだろう。二年後、彼がどんな姿をして帰ってくるのかは知らないが、きっと同じ電車に乗って、この七号車の窓から近くなる空港を見つめているような、そんな想像はつく。
 『次は成田、終点成田空港―――』
 くぐもったアナウンスが、ガタンタタンと揺れる電車の音の間に挟まって聞こえた。新聞の畳まれる音がする。土のついたトランクを、視界の端で動いた手が掴む。気がつけばいつの間にか、腹の奥の空白は忘れていた。思い出しても帰ってくることはなく、コンビニ行こうぜ、と誘った声に、僕はただ彼と別々の場所で食べる朝食を何にしようか、そんなことを考えて空腹を擦りながら立ち上がった。

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