第三章 入隊


 ――大尉にお願いがあります。
 正午を少し過ぎた頃、軍議を終えてラウンジに戻ってきたナーシサスを見て、開口一番千歳は立ち上がって宣言した。
 ――私に、戦線部隊の入隊試験を受けさせていただけないでしょうか。
 新兵の思い切った頼みとあって、言ってごらん、と鷹揚な態度で待ち構えていたナーシサスだったが、これには呆気に取られたようだった。ケイは事情の説明役にされるのを逃れるために、窓の外を向いて、二杯目のコーヒーを啜っていた。まあとりあえず、座って聞こうか。外套を脱いで腰かけたナーシサスの元に、話が長くなる気配を察したのか、女給がやってきて注文を伺った。
 千歳の言ったのは、こういうことだ。
 橘の毒が通常より強く、適合すればそれだけ高い効果をもたらすというのなら、自分はいずれ今よりも遥かに強くなれるのではないか。二人の適合率が良いことは、ここ数日の自分が誰よりも実感している。ならば自分は後援部隊に収まっているのではなく、その力を以って、前に出て戦うべきではないのか。多くの人を守るために、前線の戦力はいくらあってもいいはずだ。
 将来的な戦力を減少させないために、女を後援部隊に回すという国の事情は、分からないとは言わない。でも、自分はまだ家庭を持つ相手も、子供を持つ予定もない。あてのないうちだけでも、戦線部隊で力を発揮したいと思うのは間違ったことだろうか。戦うつもりで軍に入った。その覚悟を、せめて試験で見てもらうことはできないか。
 ナーシサスは目を閉じて、しばらく唸っていた。だが千歳の「お願いします」という何度目かの言葉に、とうとう折れて、試験を許可してくれた。その代わり、条件があった。何の準備もなく、今これから、すぐに試験を受けること。それで合格できる実力がなければ、諦めて慣例に従い、後援部隊に入隊すること。
 ――私としてはね、君のような兵は歓迎したいのだよ。
 オレンジジュースを半分ほど、一息に飲み干してナーシサスは言った。
 ――だが戦線部隊は男の社会だ。女性というだけで、非力なものと思って、心ない評価を下す者がたくさんいるだろう。君にそれらの、実体のない評価や批判を跳ねのけるだけの力があるかどうか、確かめたい。……どうだ、やってみるかね?
 千歳は迷わず頷いた。そうして見事、ナーシサスを含む五人の上官の前で炎を操ってみせ、四人からの可判定をもらい、入隊を果たした。
「貴方は私に実戦経験がないから頼りにならないって言うけど、誰だって初陣の前は経験なんてなかったはずよ。判断するのは、せめて私を戦わせてからにして」
 試験に合格したということが、千歳の中に小さくも確固たる自信を持たせてくれていた。昨日は面と向かって言えなかった言葉も、今日は口にできる。橘の眉間の皺が、一層深くなった。
「それだけ聞いたなら、ナーシサス大尉から言われただろう」
 苛立ったような舌打ちと共に、視線がわずかに揺らぐ。
「俺は適合者が少ない。もっとはっきり言おう。稀だ」
「聞いたわ」
「最初の契約者が市街戦に巻き込まれて戦死してから、ネリネが見つかるまでの間、半年がかかった。さらにお前が見つかるまで、一年だ」
 ネリネの名前が出されたことに、千歳は不意をつかれて鼓動が跳ねた。だが橘は、本題ではないことに足止めをされるつもりはないのか、淡々と話の先を続けた。
「契約者を失えば、体の自由は日に日になくなっていく。お前が死んだら、俺も戦場に立てなくなるんだ。小隊の指揮くらいは後方から執る。だがそれだって、契約者のないままいつまでもできることじゃない。分からないのか? お前が一人加わって増える戦力と、お前が死んだら欠ける俺の戦力と、どちらが優先すべきものなのか」
 空気が重さを含んで圧しかかってくるような声だと、千歳は思った。この人は決して、思い通りにならない自分に癇癪を起しているのではない。正しいと信じる主張のために怒っているのだと、圧し潰されそうなほど分かった。
 確かに、そうだろう――今は。千歳は実戦のいろはをひとつも知らない新米で、橘は小隊を率いる少尉だ。橘のために、君には安全なところにいてほしいとナーシサスにも諭された。
 でもそれは、千歳にとっては檻の中に閉じ込められるに等しい苦しみだ。
「……だから、安全な場所に置かれて、のうのうと、貴方の餌になっていろって?」
 ぐっと、握りしめた手のひらに爪が食い込んだ。橘は否定をしない。驚いた顔も見せず、ただ腹を括ったように、千歳の言葉を受け止めた。
「冗談じゃないわ。後援部隊にいたままじゃ、いつまで経っても貴方に勝てる日なんか来ないでしょ。東黎のため、軍のために戦うけど、私は貴方の敵なの。……忘れないでよ」
 報復をしていい。そう言ったのは橘だ。後援部隊の仕事も大切な戦力の一部であることは重々承知しているが、そこに閉じ込められてしまったら、磨かれるのは補助の能力ばかりで目的を果たせる日など永遠にやってこない。
 気づいていながら、安全な後方に下がって、守られて、惰性のように橘と生き長らえていくことなど、どうしてできようか。大人しく後援部隊に入ったら、ネリネに合わせる顔がますますなくなる。
 軍にいる以上、戦いには全力を尽くす。が、尽くす場所は自分で選びたい。これだけは退かないと決めたのだ。駄目だと言わせないために、試験にも本気で臨み、結果を出した。ここまでカードを揃えてもまだ、橘が戦線部隊にいさせないというのなら、明日にでも香綬支部を出ていく。
 そうなったら自分は路頭に迷って、橘は貴重な契約者を失って、二人揃ってお先断絶だ。貴方の自由になんか、なるもんですか――黒水晶の目を高揚と緊張で爛爛とさせて、全身から挑みかかるような熱を発している千歳に、橘は長いため息を吐き出した。
「ひとつだけ言っておく」
「どうぞ? 何でも」
「お前が死んでもネリネは還らない」
 どきりと、千歳の胸が大きく跳ねた。そんなの、分かっている。言い返す言葉が、喉に痞えて声にならない。
「良いことなんて何もない。俺は使い物にならなくなり、ナーシサス隊は異例の対応で入隊させた女の新兵をみすみす死なせたと言われ、戦力は下がり、後援部隊もいれば使えたかもしれない手をひとつ失う」
「分かってるわよ……!」
「それでも――誰もお前を守らない。そんな余裕はない。誰かが助けてくれるなんて、甘い期待をしたら終わりだ。自分の身は、自分で守るしかない」
 どうにか絞り出したときには、奮い立たせた心がぎりぎりまで追い詰められていて、悔しいことに声が震えていた。すべて分かっていたことだ。でも、面と向かって言われると銛が打ち込まれるようなずしんとした重さがあって、一言一言が一撃となって胸を抉られる思いがした。
 泣き顔など、絶対に見せるものか。袴の陰で握り込む拳の力を強くして、視線を逸らさずに立ち続けている千歳の顔の横に、橘が手をついた。退路を塞いでいる木製のドアを、正装を解いて手袋を外した手が、ぎしりと軋ませる。もう一方の手が、千歳の顎を掴んで上向かせた。
「犬死にするなよ」
 答える間もなく、唇が降りてくる。……貴方に言われなくたって。言い返す代わりに、千歳は引き結んでいた唇を開けて、噛みつくように待ち構えた。
 薄く伏せられた琥珀色の目が、睫毛の絡みそうな距離にきて滲む。固く閉じた瞼が、触れ合う舌先の感触に震えた。


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