貴方を愛するということの結末

 結婚式をしてみたい人生だった。そう言ったらレースのベッドカバーを我が物顔で陣取ったそいつは、じゃあ明日挙げようか、と尖った歯を覗かせて。コンビニの新作スイーツにプラスチックのフォークを下ろす私に、ん? と首を傾げた。
 その口に、桜のモンブランを突っ込む。
「何言ってんのよ」
「提案したんじゃん、あんたがやりたいっていうから」
「無理に決まってるでしょ。式ってそんなに、思い立ってすぐできるものじゃないの」
 準備もいるし、お金もいるし。第一、貴方の身分をどう説明することもできないんだから。なんて、まともな話をいくつしたところで、この人の耳には猫が泣き喚いている程度にしか聞こえていないのだろうけれど。分かっていながらそんな言葉でしか返せなかったのは、挙式と聞いてこの人が「自分と」という前提で話をした。それだけのことに、自分でもびっくりするくらい動揺していたからだ。
 てっきりまた、どこの誰と? とでもからかわれるとばかり思っていた。あんたって御多分に漏れず、どっちがケーキだか分かんないような派手なドレスとか好きそうだよねえ、だとか。人間って死んだらお別れなのに約束が好きだよね、とか。
 そういう言葉に「うるさいわね」と言う準備ばかりしていたから。なんだか拍子抜けしてしまって、妙に生真面目な返事しかできなかった。
「……フーン、そ」
 黒髪の隙間から、夜より深い黒の眸が覗く。奥深く、不機嫌を滲ませたその視線にあれ? と思った瞬間、手の先でプラスチックがばきんと音を立てた。
「あっ!? ちょっ、フォーク!」
「あっはっは」
「ちょ、やめてよね! 何でもかんでも食べるのは普通じゃないからって、何度言ったら覚えるの!」
 お腹痛くなっても知らないわよ! と叫んで口をこじ開ければ、あっけらかんと出された舌の上には、もはや透明の残骸ひとつ残されておらず。後には先のなくなったフォークが、つくしみたいに握られているだけ。
「……覚えさせられると思ってんのが、あんたの面白いところだよ」
 頬を引っ張った私の指に、蛇のような長い舌が絡んだ。桜色のクリームを舐め取って、ついと、その陰から現れた歯を立てる。――食われる、と本能が身を引かせたときには時すでに遅し。まだまだ壁には当たらないはずの背中に、半透明の黒い影がぶつかって、退路が阻まれた。
「どーかした? 叶恵」
 白々しく言う男の操る影が、私を少しずつ、前へ押していく。このままでは、ベッドに挟まれて窒息するだろう。
 どうもこうもないわよ、と言い捨てて、ベッドに乗り上げる。途中、ローテーブルの上のケーキだけは救出するのを忘れずに。ああそういえばフォークがないんだったわ、と思い出してタルトを手づかみした私を、漆黒の目は面白いものでも見るような笑いを浮かべて見ていた。

 ――それが、思い出せる限りの最後の記憶。

 目が覚めると、降り注ぐ洪水の中に立っていた。ざあざあと雨嵐のように鼓膜を叩き回る、止むことのない洪水。喝采、というものだと理解したのは、ぼやけていた頭が覚醒してからだ。
 コツ、と目の前に歩み出てきた人を見て――覚醒せざるを得なかった。
「な……、なに、それ」
 コツ、コツ。固い絨毯の上を歩く焦げ茶色の革靴は、一足ごとに足音を響かせる。細い脚に纏わりついた、皺ひとつない白のパンツ。薄くラインの入ったグレーのベストには、透かしの彫刻がされた銀のボタンを並べて。
「何って、正装?」
 膝下まである白のロングタキシードに包んだ肩を竦めて、真っ黒な髪に白の帽子をのせたそいつは、尖った歯を見せて笑った。蜘蛛のような手で帽子を掴んで胸に押し当て、片足を引いて恭しく一礼する。
 その手の先の爪の黒さも、目元を覆う髪も、歯も、笑った顔も。すべてが私の恋人に違いないと分かるのに、真っ黒な衣服で全身を覆っていない姿など初めてで、衝撃に頭がついていけなかった。
 正装。まじまじと眺めてから呟いて、瞬きをする。帽子を被り直しながら、彼は「あれ?」と首を捻った。
「違った? あんたの持ってた本の表紙、参考にしたんだけど」
「本?」
「『大富豪と月極フィアンセ〜愛のセレナーデ〜』ってやつ」
「人の本棚の一番奥を漁るの、お願いだからやめなさいよ」
 どうりで何だか見覚えのある格好だと思ったのだ。同期が次々と恋人を作って、言いようのない寂しさに襲われた数年前、魔が差して買った乙女な小説を勝手に見つけ出さないでほしい。何度か読んだ形跡があるだけに、尚更。
 人の秘密を全身に纏ってどういうつもりだ、と近くにあったものを掴んで振りかぶった私に、彼はまあまあ、と両手を広げて、
「いいじゃん、買ったってことはあの表紙の絵とか、そこそこ好みだったんだろ?」
「う……っ、それは、まあ」
「あんたも思ったより似合ってるよ。そのケーキより派手なドレス」
 言われて初めて、私ははたと自分の姿を見下ろした。最初に見えたのは、胸元を覆う華やかなレースだった。純白のそれは規則的な花の模様を透かしながら、首の後ろで結ばれたリボンと、胸から下のドレスとを繋いでいる。大きく開いた肩の先で、肘から指の先までを、ドレスと同じ真っ白なサテンの手袋が包んでいた。
 あの本のヒロインと同じ、ウエディングドレスだ。物語の中でヒーローが最後に、もう一度二人だけの結婚式を挙げようと言って彼女に贈った、愛の証と同じ。
「なんで……?」
「言ったじゃん。じゃあ明日挙げようか、って」
 にやりと笑って正面に立った男の言葉に、眠る前、そんな話をしたことを思い出した。結婚式をしたい人生だった、じゃあ明日挙げようか。同時に――今日が何月何日だったかを思い出して、私は思わずぷっと噴き出した。
「まさか本気にしてくれたの? それでこんな手の込んだことを?」
「そうだよ。献身的な悪魔だからね」
「ええ、本当にね。らしくもないわ――夢にまで出てきて、夢を叶えてくれるなんて」
 掴んでいたのは聖書だった。説教台に置かれていたそれを取り上げた私に対して、神父様は怒るでも慌てるでもなく、無言の拍手を送り続けている。見渡せばあちらにもこちらにも、教会に集った見覚えのある顔の人々が大勢、私たちを見つめて喝采を続けていた。
 桜のモンブランを齧ったとき、ベッドサイドに置かれた時計の指し示していた時刻が、三月三十一日の午後十一時。あれから眠りに落ちて、今はきっと日付が変わり、四月一日。
 どんな突拍子もない嘘も許される、一年に一度の祝祭だ。
 最初は何事かと思ったけれど、今年はずいぶん粋な計らいだこと。この人が優しいなんて、それこそが最大級の嘘だわ、と呆れて笑いながら聖書を台に返したとき、その隙間からはらりと一枚の紙が落ちた。
「あ、」
 何か聖歌の譜面でも落としてしまったのかと思い、屈んで拾い上げようとする。途端、その紙は独りでに舞い上がって、息を呑む私の目の前でぴたりと浮かんだまま止まった。
 見慣れない文字で綴られていた文言が、じわじわとインクの滲みを組み替えるように動いて、形を変えていく。
「契約書……?」
 冒頭に浮かび上がった文字を、私は思わず口に出して読んだ。
「そう。契約書」
「なんの?」
「読んでみな」
 腕を組んで笑った彼に促され、私は次々と変貌していく文字を目で追いかけた。私、柏木叶恵は■■■――ここだけ文字が知らない文字のままで読めない――と契約を結び、その望みと引き換えに魂を永劫に譲渡することを、ここに誓約する。
 読んでいくうちに、これが一体なんの契約書であるのか察して、固唾を呑んだ。ああ、これは。
「二年前、あんたが望んだことだけど。書きたくなければ、しばらくそのまま持っててもいいよ」
 魂の、契約書だ。
 書いたら破棄できないからさ、と普段通りの調子で言う彼の声が、鼓膜に小さな針を刺す。二年前、すべてをあげるから傍にいてと望んだ私に、彼が結んだのは「仮契約」だった。本契約と違っていつでも破棄ができて、私に危険が迫ったときは察知できる。その代わり、察知ができるだけ。本契約のように影を媒介してすぐさま現れたり、私の魂を他の悪魔に奪われないように拘束する力は、ない。
 本契約を結べば、私の魂に触れることができるのはこの人だけ。悪魔や悪霊どころか、天使さえ手が出せなくなる。天国への道は断たれ、私の魂は輪廻を外れて、この人の腹の底で煌々と燃え続ける。
 食らわれて、ひとつになる。いつかこの人の命が終わる、世界の終わりのように長い時間の果てまで。
「あなたって、勝手ね」
「心外だなァ。せっかくあんた好みの舞台まで用意してやったっていうのに」
「プロポーズは普通、式の日取りを決める前にするのよ」
 人間ならね。私はそう笑って、契約書の右下に親指を押し当てた。眠る前、彼の歯が食い込んだそこから、薄く血が滲んでいた。
 風もないのに契約書がざわりと震え、読めなかった文字がみるみる形を変えていく。――これが、この人の名前。思わず顔を見上げた瞬間、契約書ごと腕を引き寄せられ、唇を塞がれていた。
「汝、病めるときも健やかなるときも――」
 神父様は驚く様子もなく、淡々と誓いの言葉を紡ぐ。息もつげずに立ち眩む私に、観衆は一切手を緩めず、拍手を送り続けている。
「……はい」
 その中でたった一言だけ、呼吸のようにこぼされた言葉が。私の耳には、満場の喝采よりも鮮やかに聞こえた。
 世界が段々と、色褪せてゆく。ねえ、と離れた手に指を絡ませて、秘密の話のように声を潜めた。
「素敵ね」
「お気に召した?」
「ええ。どこまでが嘘?」
 作られたドレス、作られた教会、作られた招待客と神父様。すべてが偽物でもおかしくはないこの夢の中で、彼と私だけがいつまでも色褪せない。一体どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが嘘なのか。今ここにいる自分の実在さえ、曖昧になっていく。
 眼前で唇が、月のような弧を描いた。
「さあね。あんたが嘘だと思えば、全部嘘だよ」
 気づけば彼の服はいつのまにか、真っ黒に染まっていて、私の腕に手袋はなく、ドレスではなく部屋着のパーカーを着ていた。きしりと膝の下でベッドが軋む。私を腹の上に乗せて、悪魔は声もなく笑いを漏らす。
 四月一日、午前二時。私はその笑いを食らうように、悪魔にキスをした。



『貴方を愛するということの結末』/end

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -