終章 私のあなた


 飴色に染まった木の階段をこつ、こつ、と革靴の音が上ってくる。中を窺うように押し開けられたドアが鳴らすベルで、私は我に返って、読んでいた本から顔を上げた。
「すみません、画廊オセローはこちらで合っていましたか」
「ええ」
「三時にお約束させていただいている、上嶋です」
 壮年の、いかにもビジネスマンといった印象の男が、ポケットから名刺を取り出して頭を下げる。私も急いで立ち上がり、名刺を受け取って深々とお辞儀を返した。
「お話は伺っております。来年にオープンする、カフェの内装の件ですね」
「ええ、そうです」
「お待ちしておりました。ただ本日、まだ……」
 ちらと机の隅に置いた時計を見やる。約束の時間には、三十分近く早い。
「すみません。初めて来る場所だったもので、迷ったらいけないと、早く出すぎてしまいまして」
「申し訳ありません。三時までには必ず戻ると思うのですが」
 上嶋さんは私の表情から、言わんとすることを察したらしい。大丈夫です、と大きく頷いて、緊張をほぐすようにネクタイを直した。企画書でも入っているのだろうか。重そうな鞄を提げて、いつ誰と会っても良いように磨かれた革靴を履いている。
 私はええと、と首を巡らせて、自分の後ろにあるドアと右にある部屋とを見比べた。
「座って、中でお待ちになりますか。それとも、画廊のほうでお待ちになりますか?」
「よろしければ、画廊のほうを見させていただきたいです。作品は何度か拝見しておりますが、ご本人とお会いする前に、こちらにあるものも見ておきたい」
「では、どうぞ」
 一礼して、上嶋さんはブロンズの小さなシャンデリアをくぐった。その奥は十六畳ほどの一室になっていて、出入り口以外の壁すべてに絵画がかかっている。
 大学を卒業して三年。二十五になった私は都内の片隅に立つビルのワンフロアで、画廊を開いていた。正確には開いたものを預けられている、という表現が正しいが、ここの管理と経営を任されているのだ。画家・久藤八積の作品を主に展示、売買する、二十二歳のときに両親の援助を得て彼が開いた画廊。私は卒業と同時に、ここに勤めるようになった。
 五年前、私と久藤くんの関係がひとつの終結を迎え、まったく別の形に生まれ変わった年の春。彼はT大を辞めた。退学して、一年間の浪人を経て、すぐ傍にある美大に入学した。曰く、「もう同じ学校にいなくても、会いにいけるから」だそうだ。
 入学後すぐに画廊を開く計画に着手し、二年生になるときには、まだほとんど無名のまま〈オセロー〉を開業した。その後、在学中にいくつかの賞を取ったり、友人たちと共同で展覧会を開いたりと精力的に活動し続け、画廊が少しずつ客足を伸ばす中、今年の春に四年で卒業。院へは進学せず、本格的に画家としての道を歩み始めた。
「いい紅葉ですね」
 上嶋さんが、奥から声をかける。
「今年の作品ですか?」
「ええ、そうです。先日完成したばかりで、まだ絵具も柔らかいくらいだそうで」
 へえ、と光の角度を変えるように首を傾けて、上嶋さんはまた観賞に戻った。私は机に伏せてあった本に栞を挟み、傍らに備えつけられた細い本棚に戻した。
 小さな真四角の窓の外は、高い秋の空が広がっている。毎年、この季節になると、雨上がりのキャンパスに漂っていた銀杏の匂いを思い出す。銀杏の匂いが連れてくるのは、温かい手をした人の朧気な思い出。片山くんとはあれ以来、交友はない。
 私が彼の手を振りきって久藤くんの元へ行った翌日、私と片山くんは直接会って話をした。久藤くんが同席すると言ったが、頑なに断ったのを覚えている。片山くんとの交際は、私が始めたことだから。私が、剣も盾も持たずに行かなくてはならなかったのだ。
 学校の近くの、手狭なカフェで向かい合って座った。二言三言の後に、珈琲が二杯出てきて、二人でそれを飲んだ。
 片山くんはある程度、予想をつけていたようだ。珈琲を半分ほど飲んで、たった一言「八積?」と訊いた。私はカップを握りしめて、無言で頷いた。うん、と片山くんは珈琲を飲み干した。それが私たちの、最後の会話になった。
 以来、片山くんとは一度も顔を合わせていない。キャンパスで時々すれ違いそうになるときも、私は彼の目に入らないよう、できるだけ人の流れを挟んで離れた場所を歩いた。もう一度、知人として言葉を交わすことなど不可能だと分かっていたからだ。二度と近づかず、彼の心に波を立てないことだけが、私にできる唯一の悪ではない行いだった。
 卒業後、地元に戻って大手の銀行に勤めていると、久藤くんの知人を通して風の噂で耳にしたが定かではない。私などより善良な、美しい人と出会っていることを願う。でも善き人であることだけが心を惹きつけるわけではないと、分かっているからこの秋もまた、願うことさえ偽善だと口を噤むのだ。
「似ていらっしゃいませんか?」
 声をかけられて、はっと瞬きをする。
「久藤さんの絵に人物が入るときは、大抵が黒髪の女性だと言われているのは存じておりましたが。もしや、あなたがモデルでいらっしゃるということなどは?」
 顔を上げた私に、上嶋さんは好奇心を覗かせた目で訊ねた。からかいの中に、ほんの一匙、もしかしたらという直感のようなものを秘めている冴えた眼差しだった。どきりとしてスカートを握りしめる。
「光栄です」
 私は眼鏡の奥で、笑顔を作った。
「この画廊にお勤めさせていただくにあたって、少しでも久藤さんの作品の空気を壊さない者であれたらと思い、黒髪にしているのです」
「おや、そうだったんですか」
「無名の……とても昔から、久藤さんは私にとっては画家でしたから」
「応援されているんですね」
「はい」
 上嶋さんは嬉しそうに笑みを浮かべる。ぜひうちのカフェができたら遊びにいらしてくださいという、ビジネスマンらしい滑らかな集客に、もちろんと頷いた。
 背にしているドアのむこうから、くぐもった電話の音が鳴り響く。
「すみません、ちょっと」
「ああ、どうぞ」
 画廊の従業員は私一人だ。電話に出るのも、私の仕事である。快く許可してくれた上嶋さんに頭を下げて、私はドアを押し開けた。応接室であり、倉庫であり、事務室であり、非常階段であるような、用途の繁雑な狭い部屋だ。
 入ってドアを閉め、手探りで電気のスイッチを探す。その手が、誰かの手に掴んで引き寄せられた。
「一介のファンみたいな言い方しちゃって、つれないじゃない? 未央」
 耳元で落とされた私の名前を呼ぶ声に、上げかけた悲鳴を呑み込む。慣れた香水のかおり。掴まれている手首のひやりとした冷たさに、ようやく気がついた。
「モデルですって、言ってくれるかと思ってたのに」
「久藤くん」
「遅くなったみたいでごめんなさいねェ。これでも結構、早めに作業を切り上げたんだけど」
 スイッチが押されて、部屋に電気が点いた。同時に電話も切れる。どうやら久藤くんが、自分のスマートフォンを使って鳴らしていたらしい。


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