七章 爆ぜる星々の叫び


 銀杏の実の落ちる匂いが、雨上がりの石畳の匂いに混じって、木々が広げる涼しい影の中を漂っている。百舌が一羽、枝のあいだを囀りながら飛び回り、やがて数羽の群になってどこかへ飛び去った。
「ごめん、お待たせ」
「片山くん」
「教授と話してたら、遅くなっちゃって。雨上がったね」
 真横からかけられた声に空を見上げていた視線を下ろせば、Tシャツに薄い綿のシャツを羽織った彼は、私と目を合わせて親しみのこもった笑みを浮かべた。今から行く、というメッセージを表示したままだったトークアプリを閉じ、スマートフォンを鞄に滑り込ませる。
「じゃ、行こうか?」
「うん」
 今さらどこへ、と確認するまでもなく、私たちは連れ立って水曜の昼食会のために歩き出した。秋、私は片山くんと付き合っている。何食べようか、という彼にそうだねえと返しながら、生徒で賑わう昼休みのテニスコートを横目に正門へ向かう。
 夏休みの前、告白を受けたいと応えた私に、片山くんはナポリタンを巻いたフォークを持って口を開けたまま固まった。そうしてみるみる目を大きくして、本当に、と噛みしめるように聞き返したのだった。
 彼曰く、私がなかなか返事をしなかったので、もう諦めようかと考え始めていたときだったそうだ。諦めて友達として出直して、しばらく経っても気持ちが変わらなかったら改めて告白するつもりだったという。
 片山くんは喜んで、これからよろしく、と私の手を取ろうとして水をこぼした。あんまり慌てて謝るものだから、何も理由のない私までつられて謝ってしまって、テーブルに広がった水たまりをハンカチで拭きながら、二人顔を見合わせて笑った。そんな始まりだった。
 休みの間に何度かデートを重ねた。若者らしく話題のカフェなどで語らってみたり、片山くんが好きだというので人生初のサッカー観戦に出向いたり。とはいえそれほど大きな変化があったわけでもなく、たまに電話をする以外は何も変わっていないように感じていたのだが、こうして久しぶりにキャンパスで顔を合わせると面白い。以前と同じ場所に、以前とは違う関係でいることを新鮮に感じる。どうやらひと夏の間に、少しずつではあるが、私には彼の恋人なのだという自覚が生まれていたらしい。
 片山くんはそんな私の遅々とした歩みに、私が思っていた以上に足取りを合わせてくれるつもりのようだ。元々同じ高校で地元が近いこともあり、お盆に実家へ帰省した際、二人で近所の夏祭りを観に行った。泡沫の光と音の喧騒に紛れて、水ヨーヨーの屋台の前を通り過ぎるとき、手を繋いだ。でも私がほどいてしまった。嫌だったのではなく、ただあまりにも人と触れ合うことに慣れていなすぎて、違和感を堪えきれなかったのだ。
 帰り道、彼は私に「今度は群山さんから繋ぎたいって思わせられるように、頑張るね」と言った。以来、私たちは爪の先一枚触れ合わせたことがない。
 前に、後ろに。ジーンズの横で揺れる、片山くんの腕時計をしていないほうの手を見ながら、私は肩にかけた鞄を両手で支えていた。いつか私から、この手を取る日が来るのだろうか。
(……分からない)
 私は何かを探していた。片山くんと付き合うようになってから――特に、夏祭りを過ぎてから。デートのたび、電話をするたび、一人のときに彼を思い出すたび、優しさに包まれた幸福の中で、いつも何かを探さなくてはならないような焦燥感に急かされていた。
 上手く言葉に言い表せないそれは、恋の心臓のようなもので、即ち核、この恋愛の中心点なのだ。熱くてぐつぐつと煮え立っていて、あまりに熱いから、触れると一瞬冷たいものかと思い違いをしてしまう。そういう星の核みたいな何かを、手探りで見つけようとしている。
 あらゆる熱は爆発から生まれる。恋を育てるには、何かひとつ、起爆剤が必要なのだ。今までの中で最も起爆剤に近い印象を残したのは、コンサートの帰り道、手首を掴まれたとき。あのはっとするような瞬間を越えるものを、私は求めているのかもしれない。片山くんに、本当の意味で恋をするために。
 漠然と恋愛ごっこをするのではなく、私は彼と、最初で最後でもいいのだと思える恋愛がしてみたい。そのためには今、ぼんやりと温かいだけの綿菓子みたいな私の中に、精神の形を作り変えてしまう爆発を起こす必要がある。
「群山さん?」
 思い切って左手を、穴の開くほど見つめていた右手の指先に引っかけてみた。片山くんが驚いたように私を振り返る。
 繋いでみれば、ロミオとジュリエットのような甘い雷撃が走って、この瞬間が永遠に胸を焦がすのではないかと期待したのだ。現実にはそれほどの衝撃は訪れなかった。ただ、片山くんの眦がじんわりと赤くなって、温かい手のひらが私の指を確かめるように包み込んだとき、静かな喜びが胸を打って湧水のごとく広がるのを感じた。
「嫌だったら、離しても」
「嬉しい」
 それは私が数多の本で読んで憧れていたような、壊れるほどの胸の高鳴りとは違う。自分という存在が何かをすることで、誰かが喜んでくれるという、喜びを分かち合えた喜びに対する胸の高鳴りだった。
 もしかしたら現実の恋愛というのは、こういうものなのだろうか。私の言葉を遮って、照れくさそうにしながらも嬉しいと言い切った片山くんを見ていると、この人の喜ぶ顔がもっと見てみたいと思う。今は家族に対する感情とそれほど変わらないこの思いが、いつか降り積もって音もなく、恋に姿を変えるのだろうか。
 そうだとしたら恋とは随分、穏やかで優しくて、少し寂しい。
「なあ、購買の前のあれ見たか?」
「あれ?」
 会話が途絶えて、手を繋いだまま黙って歩いていた私たちの横を、数人の男子学生が足早にすれ違っていった。思わず顔を上げて、通り過ぎた彼らの話に耳を欹てる。
「八積の絵だよ。同好会で出したのが、優秀賞かなんかだと」
 久しく接点をなくしていた名前に、どきりとして、思わず手に力が入ってしまった。片山くんが足を止めて、彼らのほうを振り返る。
「何回か惜しいところまでいってたらしいもんな。とうとう入賞かあ」
「俺見たよ。すごかったよな」
「へえ、やっぱ一目見て出来がいいって感じ?」
「いや、なんていうかな。出来がどうっていうより、色んな意味ですごいよ。あれを世に曝け出せる辺りも含めて、あいつすげえなーって感じ」
「それな、芸術家気質っていうのかね? 作品だっていうのは分かってるし、観る側としては素直に尊敬するけど、同じ技術があっても俺は描けないと思う」
 すでに観てきた様子の数人が頷き合い、残りの数人が興味を引かれた様子で詳しく聞き始めた。彼らが遠くへ行ってしまったので詳細は聞こえてこなかったが、購買の前に久藤くんの絵が展示されていることだけは間違いないだろう。


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