一章 ある犬
久藤八積(くどうやつみ)はT大で知らない人のいない有名人だ。百八十センチを優に超える日本人離れしたスタイルに、ブリーチの効いたススキの穂みたいな金の髪。がり勉か天才しかいないこの大学では、外跳ねした彼のハーフアップは、黒い夜の波間に浮かんだ誘導灯のように明るく目立つ。手や耳を飾る厳ついシルバーのアクセサリーが、印象に拍車をかける。
目鼻の交点は彫が深くて、ブラウンに抜いた眉の下の目は、いつも淡い影の奥に潜んでいる。中世の厳しい山岳国家に生きる兵士のような、眼差しの強さと憂いがある。けれども彼は決して、その目で誰かを睨みつけるようなことはなく、むしろほとんどの場面で彼の瞼は笑みによって閉ざされていた。
晴れやかな性分をしていた。男も女も老いも若きも、彼にとっては全員が愛すべき対象で、尊敬の対象のようだった。彼が笑うと、場が華やぐ。そんなだから、彼には入学当初から友達が多かった。昨年の学園祭でミスターコンテストの優勝に輝き、その光はますます強くなったように思う。
優勝スピーチでも、彼は決して、いつもの自分を偽ることはしなかった。――光栄だわ、私が優勝なんて夢みたい。頬に手を当ててそう喜びを語った彼に、今さら驚く人はいなかった。
「あら、久しぶりじゃないの!」
はっと、前方から聞こえた声に私は顔を上げた。頭の奥で、今まさに再生機を回していたのと同じ声がしたからだ。金の髪、銀のピアス、彼は日を弾くものでできている。眩しさに目を細めて、その横顔を眼鏡の奥から見た。
「やっちゃん! 久しぶり、風邪引いちゃってさあ」
「えっ、やだ大丈夫なの? 体調は?」
「もうばっちり。ああそうだ、あとでノート貸してくれない?」
「いいわよォ。ていうか、言ってくれたら何か買っていったのに。飲み物とか、おかゆとか」
「あはは、やっちゃんは優しいなあ。彼氏より優しいよ」
「だって女の子の一人暮らしじゃ、そういうときのお買い物は大変でしょ? だめよォ、ちゃんと頼りにしてくれなきゃ」
えーほんとに、と、親しそうに笑っている女の子の名前を私は知らない。彼女だけではなくて、彼の友達のほとんどを、私は顔も名前も知らない。それはつまり、T大のほとんどを知らないのと同じだ。群山未央(むれやまみお)、名前に反して私に友達と呼べるような相手はいない。
ただ一人――友達、と呼ぶにはあまりに対等でない相手を除いては。
「未央」
とん、と肩を叩かれて、小さく息を呑んだ。気づかれないように、足早に通り過ぎたつもりだったのに、いつのまにか傍へ来られていたらしい。
「久藤くん」
「今日、五限でしょ。終わったらいつもの場所でね」
ぎこちなく振り返った私の顔を、頂に雪の残った山岳の兵士みたいな冷静な目で見下ろして、彼はすっと瞼を細めた。私の返事を待たずに背中を向けると、ごめん何だっけ、と先刻の友達の元へ戻っていく。彼女も気にせず、話の続きを始めた。久藤八積は友達が多い。彼が誰かに話しかけたり話しかけられたりするのを、今さら気に留める人など、彼の周りにはいない。
いっそ、あの子が久藤くんを好きで、私のことを「やっちゃんの何なの?」と問い詰めてくれたらいいのに。無理な話だと本を抱いて遠ざかりながら、まだ漏れ聞こえてくる二人の世間話を聞いて、思った。
もし問い詰めてくれたなら、私は迷わず「犬」と答えるだろう。
私の首には、もう五年も前から、久藤くんのつけた首輪がかかっているのだ。
路地裏の喫茶店で読んで面白くない本など、この世に何冊あるだろうか。恋愛、ミステリー、純文学、エッセイ。古今東西の文学のどれにも、珈琲の香りほど似合うものはない。
丸い室内照明を受けて琥珀色に光るテーブルの上で、先日買ったばかりの文庫本を捲りながら、私は少し温くなった珈琲を傾けてため息をついた。店内はぱらぱらと人がいたが、一人での利用が多く、喋り声は時折しか聞こえてこない。邪魔にならない音量のジャズがそれすらも吸収してしまうので、実質、内容まで耳に届いてくることはなかった。
本を読むのにはもってこいの店だ。ぱらりとページを捲って、また珈琲を傾ける。カップの底に描かれた蒼い花が覗いた。でも、ちょうど物語が良いところだったので、追加の注文はせずにそっとカップを置いた。
ドアのほうで人の話す気配がしたが、私はジャズの作る膜の中でそれを聞いていた。頭の中には登場人物たちの生き生きと弾む会話が鳴り響いていて、それ以外のことはあまり耳に入っていなかった。だからテーブルの間をぬって大股にやってきた久藤くんが「未央」と言って伝票を取り上げるまで、足音にも気づかなかった。
「あっ」
「お待たせ。行くわよ」
慌てて本に栞を挟んで、かばんに押し込む。ジャケットを腕に引っかけて先に出て行った久藤くんは、店主に挨拶をして伝票を渡し、そのままドアを開けて私を促した。
「待って、お金」
「もう払ったわ」
何かを言う間もなく、ベルの音を鳴らしてドアは閉まる。春の風が街路樹の青い匂いを運んで、自転車がその中を突っ切っていった。道路を渡る久藤くんに小走りでついていきながら、かばんの中で財布を探していると、いらないと断られた。
あまりしつこく言うと、また「私がいらないって言ったんだけど」と怒られそうだ。礼を言って、ご馳走になる。
「別にいいわよ。バイト代のかわりだとでも思って」
立ち止まった背中にぶつかりそうになったとき、前を横切った車の音に重なりながら、久藤くんがそう言ったのが聞こえた。どういう返事をしたらいいのか分からなくて、聞こえなかったふりをしてしまった。彼はまた歩き出して、私もそれに黙々とついていく。
T大の近くを走る私鉄に乗って三駅。ここは久藤くんの一人暮らしするアパートの最寄駅だ。ついでに私のアパートも同じ駅ではあるけれど、線路の反対側にあって、今いる方角とは真後ろになる。大学に進学するとき、どこに住むの、とだけ訊かれて、駅名しか答えなかったから反対側になった。
こちらのほうが、喫茶店やスーパーがあっていいな、と思う。雨曝しの細い階段を上がって、久藤くんが自室の鍵を開けた。
「お邪魔します」
以前は拝啓と敬具みたいに、これを言うと「どうぞ」と返ってきた。でもあるとき、久藤くんは「私が『どうぞ』なんて言うのも、変な話よねェ」と言って、それきり口にしなくなった。そんなことを言われてもどう返事をしたらいいのか分からないから、そのときもやっぱり、私は黙っていたように思う。
玄関に靴を並べる。久藤くんの靴も爪先をドアに向けておく。シャッとカーテンの引かれる音と、窓の開く音が聞こえた。
「準備するから、座ってちょうだい。これ羽織って」
「うん」
「できるだけ、この前と同じ姿勢を思い出してくれると助かるわ」
壁際に寄せてあったイーゼルが運ばれてくる。私はテーブルの上に貼った目印のテープに腕をついて、一番自然だと感じられる姿勢を取った。スマートフォンの写真と見比べて、もう少し足を横に、と指示が出される。言われた通りにすると、イーゼルにキャンバスがのって、久藤くんが丸椅子に腰を下ろした。
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