終章 私のあなた


 見上げれば灰色の天井に浮かび上がる、眩しい金の髪。パーマとブリーチで外跳ねした毛先に、紅色の絵具が一筋ついている。自宅で絵を仕上げていたのだろう。卒業した美大の、新年度のポスターか何かに使う絵だったと記憶している。
 外の非常階段から上がってきたのか。まったくもう、と驚かされた心臓がやっと落ち着いてきて、私はシャツの胸ポケットから預かっていたものを取り出した。
「大丈夫。今、展示見て待ってもらってるから。これ名刺ね」
「ありがとう」
「ねえ、八積」
 上嶋さんの名刺に目を通していた久藤くんが、なに、とこちらを向く。
「モデルだって言ってくれたらよかったって、本当?」
 問いかければ、その目が一瞬丸くなって、満月に雲がかかるようにゆっくりと細められた。
 そうねェ、と彼は満足げに笑みを浮かべる。手にしていた名刺をローライズのポケットに滑り込ませて、その指先がついと、私の輪郭を撫でて上向かせた。
「嘘。あなたも大概、私の考えそうなことが分かるようになってきたわよねェ」
「十年傍にいれば、多少はね」
「はいって答えられてたら、挨拶もせずに飛び出していくところだったわァ。審美眼のある人って嫌いじゃないけど、勘が良すぎるのは困りものよね」
 声を落として囁き、久藤くんは私の眼鏡に手をかける。フレームが耳の上を滑り、遠ざかるレンズの中で縮小されていく世界が、外された途端に抽象画のように滲んだ。
「お客さんだよ。大事にして」
「分かってるわ。でも……」
 ぼやけ方についていけなくて、小言と一緒に思わず目を瞑る。久藤くんはそんな私に額を寄せて、彼の影の下でだけ聞こえるか聞こえないかの、呼吸のように密やかな声で言った。
「あなた以外とひとつの部屋にこもって絵を描くのなんて御免だけど、あなたが綺麗なことを知っているのは、私だけでいいんだもの」
 ゆるやかに巡る、冷たい水のように。透明すぎて魚一匹棲めない彼の感情は、放たれた言葉から、重なった唇から私の中に流れ込み、深い渓谷を駆け抜ける。
 あなたも大概、私の考えそうなことが分かるようになってきたわよね。今更ながらに先の言葉を思い出して、胸がぞくりとした。この人のこんな内面を、他に誰が知っているだろう? 華々しい久藤八積の中にある、切り立った氷の崖のような断面を、星の数ほどいる彼の周囲の人間の中で、私の他に誰が理解できるというだろう? ――誰もいない。
 この人は、どこまでいっても私だけのものだ。
「行ってくるわ」
 それを孤独だと同情するのではなく、身の毛がよだつほど法悦を覚えるのだから、私も同じ穴の底の人間なのかもしれない。久藤くんはそんな私の心情を垣間見たのかどうなのか、くすりと笑ってドアに手をかけた。
 画廊のほうから、ああ、と上嶋さんの声がする。
「お待たせしてしまったらしくて御免なさいねェ。初めまして、上嶋さん」
 晴れやかに、華やかに、久藤八積は来客に歩み寄って手を差し出した。私はそっと、テーブルの上にあった数枚のスケッチを片づけて、戸棚から珈琲カップを二つ取り出した。



『私のあなた』/終


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