七章 爆ぜる星々の叫び


 さようなら、という寂しさの綿に、安堵の蜜を重たくなるまで含ませたような。
 理性の軋みと手放すことの喜びを綯い交ぜにした、胸を掻き毟られる、一目見たら忘れようのない笑顔だった。
「いなくなって、未央。二度と私に捕まらないで、幸せになるのよ」
 彼が座っていた椅子の前には、古いイーゼルが広げられていた。立てかけられているさほど大きくはないキャンバスが、日差しを受けて象牙色に艶めく。思わず食い入るように見つめてしまった。色をのせる予定のなさそうな、鉛筆一本で光や影まで描き込まれた、モノトーンの絵だ。
 背中を丸めて本を読む、黒髪の女の横顔。目許と口許が例えようのない、淡い幸福感に包まれている。
 紛れもなく私だと分かる素朴な横顔なのに、息を呑んで手を伸ばしたくなる美しさがあった。鮮やかな色彩も、背景もないのに、奥に太陽が隠れているかのように光り輝いている。
「これ……」
 あなたの目には私が、こんなふうに映っているというのか。問いかける意味で見上げた眸に、返ってくる眼差しは、もう何も語ろうとはしない。
「さあ、行って」
 合図とばかりに首肯して、久藤くんがドアを開ける。一歩、また一歩と踏み出してゆっくりとそこへ近づきながら、私は星がひとつ、生まれようとするのを感じていた。
 冷たい手で握り潰された心臓を核にして、煌々と燃える星が。爆発のあとには必ず、新しい何かがそこに残る。
「久藤くん、前に言ったよね」
「何?」
「窮地のときに助けてって言えない恋は、だめだって。なら、その逆は?」
 マントルは溢れて溶岩となり、溶岩は血のように辺りを駆け巡る。熱が眠っていたものたちを呼び覚まし、望むと望まざるに関わらず、万物はまったく新しく作り変えられる。古く安定していた形は壊され、二度と同じには戻らない。
 瞬きをした久藤くんの目をまっすぐに見つめて、私は震える心臓に手を当て、言った。
「いなくなれなんて言わないで、助けてよ」
「未央?」
「熱くて苦しくて、どうにかなりそうなの。あの絵を見てから、心臓が焼け爛れそうなほど熱くて。瞼を開けても閉じても、目の前に久藤くんがいるみたい。聞こえてくるのも、私を好きだって、愛してるって。殺したいほど好きだっていう、久藤くんの声ばかり」
 ああその私を見下ろす、驚いた顔が。眼窩に残ったままのナイフを取って、刺し返したいほど憎い。噴き上がる感情を堪えきれなくて、生まれて初めて、握りしめた拳をドアに叩きつけた。久藤くんによって開かれかけていたそれは、けたたましい音を立てて激しく揺れた。
 自分が手を離せば、すべてが終わりになるとでも、まだ思っているのだろうか。そんな思いもよらないみたいな罪のない顔をして、まるで今までの私みたいではないか。
「少しくらい不完全燃焼でも、想像していたものと違っても。一生に一度だけ、普通の、幸せな恋愛ができればいいって思ってたのに。それを叶えてくれる人とも、やっと出会えたところだったのに」
「未央」
「全部あなたが壊したんだよ。あんな剥き出しの感情の、塊みたいな絵を描いて。私たちの間に何もなかったなんて、あれを見て思えるはずがない。分かってたけど、見せたんでしょう? 私と片山くんの間を、突き崩すために」
 同じ手で、今度は久藤くんの胸ぐらを掴んだ。彼は何も答えない。肯定も否定もせず、ただ私の言葉を受け入れようとするみたいに、唇を強く噛みしめて立ち続けていた。
 堪えていた涙が堰を切って溢れる。言いたいことを凶器に変えて、ぼろぼろになるまで投げつけてしまいたい。襟刳りから覗く白い膚を、思い切り殴ってやりたい。その唇に触れて、噛みつきたい。
 ああ私は本当に、おかしくなってしまったのだ。
「そうだったら嬉しいって、思っちゃったんだよ」
「え……?」
「最低でしょ、恋を壊されて喜ぶなんて。でもそう思っちゃったの。穴だらけで、歪んでるよね」
 押し当てた手のひらで涙を拭いて、自嘲する。『私のあなた』を一目見たとき、私はまず衝撃を受けた。でも、その後に湧き上がった感情は、怒りでもなければ悲しみでもなく、屈辱でもなく。
 キャンバスの全面から響いてきた、私へと向かう久藤くんの絶叫。悲しむ人を思う理性も、冷かして笑う人への体裁もかなぐり捨てた、断末魔のような。何を壊しても私が欲しいと叫ぶ、その渇望に、どうしようもなく喜びを覚えたのだ。
「久藤くんが私を作り変えてしまったんだよ。恋をぶつけて、爆発を起こして、あっちこっちに歪みを残したでしょ。それなのにいなくなれって言われたら、誰がその亀裂を埋めてくれるの? 核まで届くほどの強い愛なんて――あなた以外に、誰が」
 誰がくれると思うの、と。問い質そうとした言葉は、最後まで声にならなかった。ひやりとした唇が、八重歯を立てて私の唇に噛みついている。思わず竦んだ肩を後ろに回した腕で押さえられて、頭共々、逃げ出すことが叶わなかった。
 タン、とドアの閉まる音が耳の横で聞こえる。最後の涙が鱗のように床へと落ちていったものの、感情的なものなのか生理的なものなのか、もはやその区別はつけられそうになかった。
「いないわよ。一生、私以上にあなたを欲しがる人間なんていない」
「うん」
「だから、未央」
 私の熱を奪っていった唇で、久藤くんは囁く。呪いのように、鎖のように。この人を失ったら、もうこれ以上の愛は手に入らないのだ、と刻みつけるように。
 囁いて、口づける。言の葉を、私の芯まで吹き込むように。
「……二度と逃げられないわ」
 その声はいつかの、電話越しにおやすみと言った優しい声と同じだった。私は頷いて、分かってるよ、と答える代わりに目を伏せる。
 瞼の裏で、光を取り込む窓が静かに閉ざされた。外は快晴の空が広がっている。その窓に、鍵はない。


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