六章 群山未央


「宗から電話よ」
 その名前を聞いた瞬間、私が感じたものは何だったのだろう。氷の手のひらで背中を撫でられるような、久藤くんから度々放たれる、何かとてつもなく底冷えした感情への恐怖。電話の発信者というまったく予期せぬ第三者の存在が、この閉鎖空間に突如として降って湧いたことへの動揺。
 閉ざされた空間の中で、あまりにもずっと、久藤くんとだけ接していたせいだろうか。私には一瞬「宗」という言葉が指すものが何なのか、思い出せなかった。それは遠い世界の、知らない言語のような響きだった。私はその人のために、今こうしているのだというのに。
 これらの衝撃や動揺が、わずか一秒足らずの間に私の脳を駆け巡って、まともな言葉を発する力を麻痺させてしまったみたいだった。気がついたらすぐ隣に久藤くんの気配があり、彼は静かに、私の頬にスマートフォンを押し当てた。
 筋肉が引き攣れたように固まってしまった喉から、待って、と止める暇もなく。
「……どうぞ?」
 コツ、と指先が画面を叩く音が、耳元で響く。騒ぎ続けていた着信音がぴたりと止んだ。目隠しの下で必死の形相をして訴えた私の懇願も虚しく、久藤くんは電話を繋いだのだ。
 あ、と思わず困惑で絞り出すような声が出た。途端、電話のむこうから、覚えのある声が聞こえた。
「もしもし、群山さん? 俺だけど」
「片山くん……」
「ああ、良かった。なかなか出てくれないから、繋がらないかと思った」
 心から安堵したように、片山くんが苦笑する。笑う顔が目に浮かんで、夢から覚めたように彼のことを思い出した。彼の声や手の温もりや、私を見る眸の煌めき、そのすべてを。それらの元に帰るために、私が今、ここにいたのだということを。
「急に電話してごめんね」
「ううん。でもどうして?」
「水曜日だからさ、一緒に食事できないかと思って。昨夜連絡したんだけど、返事なかったし……もしかして、学校休んでる?」
 目隠しの奥で開いた目に、景色が次々と飛び込んでくるようだ。キャンパスの片隅、木立の見える廊下の柱に寄りかかって、私に電話をかけている片山くんの姿が今にも見えるようだった。
 私は久藤くんの持っているスマートフォンに耳を寄せて、その声を聞き漏らすまいとしながら、一所懸命に頭を巡らせた。けほ、と噎せるように軽く咳をする。それからできる限り平静を装って、明るい声を出した。
「そうなの、ちょっと風邪引いちゃって。昨夜は早く寝ちゃったから、連絡気づかなかったのかも。ごめん」
「やっぱりそうか。大丈夫? 群山さん、一人暮らしだよね。薬とかは?」
「あ、えっと……お母さんが持ってきてくれるみたい。大した風邪じゃないよ。だから……」
 久藤くんの指が、ひやりと頬を掠める。溶き油の匂いをごまかすための香水のかおりが呼吸と一緒に忍び込んで、嘘をつく私を身の内側から、あの山岳の兵士みたいな厳しい目で観察している思いがした。
 でも、もうそれにも構うものか。私はこの人に縛られる生活を、終わりにすると決めたのだから。電話のむこうで、群山さん? と訝しげな声が返事を促す。私は見えない相手に向かって、大きく微笑んだ。
「心配しないで。片山くん」
 物言いたげに何かを訴えかけた声が、やがて「そう」と言葉を飲み下し、了解したように挨拶を述べて電話を切る。ツー、ツー、という規則的な音を聞いたとき、罪悪感で胸が破れそうになった。
 頬を離れたスマートフォンが、テーブルに置かれる音がする。再び訪れた静寂の中で、ラジオドラマのエンディングがやけに明るく流れ始めた。
「助けに来てって、言えばよかったのに」
 からかうような声色で、久藤くんが言う。
「そんなこと、本当に言ったら困るのは久藤くんでしょ?」
「だけど、あなたにはその権利と機会があったわ」
「権利も機会も、使うか使わないかは自由だもの。第一、私だって……片山くんに知られたら困る」
 助けを求めたりなどしたら、久藤くんと私のこれまでのいきさつを、片山くんに話すことになる。そんなことをしたら、私の古い秘密だって白日の下に晒されるのだ。本当のことなど、言えるはずもない。
 久藤くんはふうんと、呆れを隠そうともしない声で相槌を打った。
「好きな相手を、窮地のときにも頼れないようじゃ、そんな恋は無理よ」
「それ……っ」
 覚えのある台詞に、思わず顔を上げる。骨ばった指が顎にかけられて、喉が苦しいくらいに上反り、息が詰まった。
「昔と何一つ変わってない。あなたは宗に自分のすべてを見せることはできないし、宗はあなたの言葉の外にあるSOSに気づけない」
「久藤くん……」
「それでも――あの男と、恋をするの?」
 一瞬、頸動脈をその手で凍らせられるのかと思った。顎を離れ、首をなぞった指が、冷たい軌跡を描きながら私の耳へ伝い、こめかみへと潜り込む。そのまま目隠しが持ち上げられて、思わず細めた瞼のあいだに光が飛び込んできた。
 久藤くんの影に遮られた、蛍光灯の光が。私を見下ろして淡く光る髪の、金色の粒子のような眩しさを見つめながら、私は一度、奥歯を噛みしめて唇を開いた。
「するよ」
「どうして?」
「片山くんは素敵な人だから。それに、私を好きになってくれる人なんて、きっともう他に現れないもの」
 瞼を覆っていた布が、結び目を解かれて床に落ちる。ぱさりと、花の首が落ちるような軽い音が立った瞬間、こめかみに触れていた久藤くんの手が電気に触れたみたいに震えた。
「本気で言ってるの?」
「こんなこと、冗談で言うとでも思う?」
 質問に、真面目に答えるのが情けなくて、質問で返す。本気でなければ言わない。こんな憐れな自虐など、笑いにもならない。
 常々思ってきた通り、私は本当に、特別な輝きなど何一つない塵のような星なのだ。名前もなく、瞬きは控えめで、肉眼では見えない地味な星。こんな私を掬い上げてくれる人など、人生で二人も現れるとは思えない。
 奇跡を味わってみたいと思うことの、何が悪いだろう。片山くんは私から見れば、ずっと大きな、眩しい光だ。だから例え片山くんが、自分の陰で私が放つ、小さな炎上の気配に微塵も気づかなかったとしたって、そんなことは仕方がないと納得できる。
 眩しい彼が私を特別だと言ってくれる、その喜びだけで、私は満足していられるだろう。客観的には、虚しい痩せ我慢に見えたとしても。
 は、と息を漏らして、久藤くんが笑った。
「あなたって、本当に……」
 卑屈よね、と言われるのだと思った。あの冷ややかな、呆れ果てた声で。思わず身構えた私の前で、彼は頽れるように笑い、天井を仰いだ。顔を覆っていた長い指が、蜘蛛の巣を剥がすように離れる。
「悪女よね」
 逆光が作り出していた影が彼の上を退いて、私は三日ぶりに、久藤くんの顔をしっかりと見た。
 渓谷のような彫を描く白い膚の奥で、泣き腫らした二つの目が私を見下ろしていた。息を呑んだ私の目の中で、彼の眸の光は瞼と共に細められ、眼窩に沈んで、永遠に抜けないナイフのように煌めいた。



- 21 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -