ベアトリーチェがいたところは、ひんやりとした水の底だった。銀の練成釜に満たされた、水銀、亜鉛、海水、様々な物質を溶かした水。
 そこでは外の世界の音や光が、ぼんやりと届いてきていた。雨が降っている、晴れている、賑やかである、明るい、暗い。
 ベアトリーチェの意識は水の中で、他のいくつもの意識と混在して漂っていた。互いの存在は無意識の中に感じ取っていたが、何せ自他の境界は常に曖昧で、自分たちを大きなひとつの塊のように感じることもあれば、まったく別個の存在に感じることもあった。
 どこからどこまでが〈自分〉なのか――ベアトリーチェがそれを知ったのは、彼女が彼女として生まれたとき。八年前の、月のない夜のことである。
 水面のむこうから、何かが落ちてきたのだ。静けさを泡立たせて、最初に沈んできたのは銀の鎖。水底に漂っていた無数の意識が、なんだなんだとざわめいたり、逃げたり、囁き合ったりした。次に、薄紅や紫の花をいっぱいに詰めた花籠が落ちてきた。そして最後に、煌めく象牙色の砂を閉じ込めた、光砂の砂時計が。花の網を破って、釜の底へ来て、鎖の上に横たわった。
 それらのものは、声を放っていた。最初に聞こえたのは、俺に従い、如何なる事態からも秘密を守れという強い命令。次に聞こえたのは、どうか応えてくれという切なる懇願。最後に聞こえたのは、もしこの願いを聞き入れてくれる者があるならば、自分にとって唯一無二の、宝や光となりうるだろうという、独白のような予感。
 形は三者三様だが、投げ込まれた三つのものからは、すべてこちらに向かって強く求めてくる声が響いていた。ある者は困惑し、ある者は好奇心を抱きながらも躊躇い、皆その強さに戸惑っているようで、なかなか近づいていこうとしなかった。
 誰が行くのか、誰も行かないのか。探り合いのような沈黙が広がったとき、ふと、進み出たのがベアトリーチェだった。こんなに強く私たちを揺り起こすのは、一体誰だろう、と思ったのだ。声の主に興味があった。誰も行かないのなら、自分が行ってもいいか、と思った。
 鎖と花と砂時計が、釜の底で折り重なっている。そこに触れた瞬間、ベアトリーチェの意識は一気にその他の大勢から切り離されて鮮明になり、三つの品の中心に向かってぐんぐん吸い込まれていった。水がうねり、三つの品を打ち砕いて、一輪の火花と共に高く噴き上がった。
 そうして、目を開けたときには。
 ベアトリーチェは人型の体を得て、釜の中から立ち上がり、声の主を見下ろしていた。

「ん……」
 さら、と手首に触れた綿布の感触で、今いる場所が水の中ではなかったことを思い出した。
 二度、三度、まばたきをすると、視界が良好になる。窓から射しこんだ橙の光が、シーツの上を斜めに横切っていた。日暮れだ。北に向いた窓からは、西の梢の彼方に沈む夕日が、いつも天蓋の隙間からベッドの上に割り入ってくる。
 少しの転寝のつもりが、結構長く眠ったらしい。ベアトリーチェは起き上がって、手のひらで、髪がほつれていないかを確かめた。それからサイドテーブルに手を伸ばして、赤い缶に入ったキャラメルビスケットを一枚、口に運んだ。
 眠気覚ましに甘いもの――なんて、まるで人間みたいだと可笑しくなる。本来ならば睡眠も食事も必要ないこの体にも、怠惰や飽食の楽しみは芽生えないわけではないようで。八年も続けていると、もはやそういった生命活動の快楽に、人間より貪欲になっているかもしれない。指先に残ったビスケットの滓を舐めて、ベアトリーチェはふむ、と一人思案した。
 懐かしい夢を見たものだ。クロイツとの契約の夢。あのとき、彼はまだ七分丈のズボンに白いタイツを覗かせて、毛先に少し内巻きの気配が生まれつつあるおかっぱ髪を靡かせた、少年の趣の残る男だった。今ではすっかり、ベアトリーチェより二つ三つ年上に見える。もうあの頃のように、剥き出しの感情を突きつけてくることもない。
 まあ、そうは言っても。
(人に見せない、というだけで。内包される性質はそれほど変わっていないようですが)
 二枚目のキャラメルビスケットを噛み砕き、窓に額をつけて、邸の裏手に広がっている梢を見下ろす。タン、と響いてくる、かすかな矢の音。この邸で弓術の心得があるのは、一人しかいない。
 ザンクトから戻って二週間。クロイツは連日、梢にこもって、弓ばかり引いている。そろそろ手のひらの肉刺が潰れるだろうと思うのだが、むしろそれくらい自分を追い詰めることを望んでいるようにも見える。今回に限ったことではない。戦地の偵察や慰問から戻ると、彼はいつもそうだ。軟膏――は、自分が用意しなくても、邸の忠実な使用人たちがとっくに用意しているだろう。ベアトリーチェは布団を足で押しのけて、梢に目を凝らした。
 ちょうど、鍛錬を終えたクロイツが片づけを始めたのが見えた。日が落ちるのに気づいたところを見ると、そろそろ落ち着いてきたようだ。鍛錬を積んで、少しでも努力をしている自負がないと、押し迫る自己嫌悪の念に潰されそうになるのだろう。魔法が使えない、という、この国では子供よりも無力な事実に。
「難儀なものなのですね」
 人間と、いうのは。ベアトリーチェは誰に言うともなく呟いた。確かにクロイツは魔法が使えない。でも、その問題の解決策として、自分を作ったではないか。
 魔法が必要とされる場では、ベアトリーチェが彼の代わりを務める。そしてそのことを、誰にも口外はしない。契約の際、求められた条件をベアトリーチェは呑んだ。以来ずっと、約束は守られ続けている。
 そしてクロイツは、その対価を十分に支払っている。
 ベアトリーチェは従者だが、その生活は地方領主の娘を凌駕する厚遇がされている。自分の身の回りのことくらいはこなすが、邸の中で細々とクロイツの世話をしたりはしない。衣食住のすべてのレベルにおいて、彼女にはクロイツと同格のものが与えられている。それはベアトリーチェの存在を、彼と彼の周囲の人々が、クロイツにとってなくてはならないものと認めているからだ。
 勿論、それだけの働きを求められてもいる。ザンクトのときのように、無茶だと思う仕事をさせられることもある。でも、対価に満足しているから、ベアトリーチェはクロイツの秘密を守ることに異議はない。
 互いに欲しいものを得ている、利害の一致した関係だ、と彼女は思う。だから何も、クロイツが今さら、魔法を使えないことを思い悩む必要など、ないように思えるのだが。
「あ」
 考えながら窓の下を眺めていたら、視線を感じたのか、弓矢を手に歩いていたクロイツが顔を上げた。ぱちりと視線が合って、群青の目が吊り上がる。彼の目の先にあるものに気づいて、ベアトリーチェが手を下ろしたが、一歩遅かった。
 クロイツが片手を振る。窓を開けろという仕草だ。
「はい、何か……」
「ベッドの上でものを食うな! それと、もう夕食の時間だ」
 渋々開けると、挨拶をする暇もなく怒鳴りつけられる。はい、と返事をしたベアトリーチェが窓を閉めると、ガラスのむこうで、君はまたそうやって、という声が聞こえた。
「昔はあんなに口うるさくなかったのに」
 カーテンを引き、枕に背中をもたれさせて、キャラメルビスケットを頬張る。魔法を使えないことを隠すために、人と関わることを減らしすぎたのだ。すっかり神経質で潔癖気味の小舅になった。もう少しだらけて暮らさないと、疲れないのだろうかと心底思う。
 階段を上がってくる音が聞こえて、ベアトリーチェはさっとビスケットの缶を隠した。
 十秒で身支度を整えてベッドを綺麗にし、さも先刻の景色は幻だったかのように、本を広げて椅子に腰かける。
「ベアトリーチェ!」
「はい、おります」
「開けるぞ、いいか」
「どうぞ」
 答えると同時に、ドアが開けられた。こんなときでも一応、淑女の部屋には声をかけて入室するのだ。
(貴方って本当に、難儀な人ですね)
 すっかり読書の体勢を取っている自分を見て呆気に取られているクロイツを眺め、ベアトリーチェは眸の奥でくすりと笑った。ああ、今日の夕食は何だろう。



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