方解石で覆われた長い廊下に、上部に天使の彫刻を持つ柱の影が並び落ちている。水瓶を持つ者、松明を掲げる者、枝を纏った者、風と戯れる者、大地に祈る者、太陽を仰ぎ見る者、深い布地で顔を覆った者。
 七体の天使はそれぞれ、水、火、木、風、土、光、闇を象徴して、ひとつも多かったり少なかったりすることなく、調和を持って並べられていた。
 彼らの足元には、金の文字が彫られている。廊下の端から端まで、余すところなく。大理石のタイルに彫られたそれは、繰り返される祈りの呪文だ。あめつちよ我らの災厄を退けたまえ。方解石を重ねることで、金象嵌の剥落を防ぐと同時に、護りの呪文を二重にして効果を増幅させている。
 大国とは、これくらい臆病でなくては維持できないものなのかもしれない。ミルクを垂らした紅茶のような、淡い茶色の眸が、そう思って呪文を目で追いながら歩いていたときだった。
「クロイツ公爵!」
 ずっと、一定の速度で前を歩いていた足が止まった。声のしたほうを振り返ると、赤と青の服に身を包んだいかにも貴族風の男が二人、こちらへ向かってきている。
 前を歩いていた青年が一歩、彼らに近づく足取りを見せた。三つ編みを二、三回編んで濃紺のリボンで結び、背中に垂らした灰色の髪は、血統の良い馬の銀色の尾を彷彿とさせる。
 男たちは青年の前に来ると、血色のいい頬に笑みを浮かべ、我先と口を開いた。
「ご無沙汰しております。先日ザンクトからお戻りになったと、陛下が」
「戦地の様子はいかがでございましたか。私の息子からは、先日手紙にて、都市は間もなく落ちるだろうと報告がありましたが……」
「ああ、問題ない。君の息子殿の見解に、概ね同意だ」
 青年が答えると、彼らの間におおっと感嘆の声が上がる。ザンクトが陥落すれば、此度の戦争は片がついたようなものだ。おそらく相手方から、和平の申し入れがあるだろう。港湾都市であるザンクトの獲得は、この国にとっても大きな成果と言える。
 あめつちよ我らの災厄を退けたまえ。我らの前に輝ける光の道を示したまえ。
「しかしながら――相変わらず、見事な手腕でいらっしゃったとか」
「何の話だ?」
 青年が怪訝そうに問うと、男たちは顔を見合わせて笑い、ご謙遜を、と口々に言った。
「ザンクトでのご活躍は、息子を通して私たちの耳にも届いております。護衛をするという兵士の申し出をお断りになって、従者とお二人で森へ入っていかれ、敵陣を見破って、あちらの先鋒隊を三十人は始末して戻ってこられたとか」
「ああ……、それか」
「息子は将来、貴方のような、人の上に立ち自らも戦える城主になりたいと申しております。どうぞザンクトが落掌した暁には、一言で良いのです、愚息にこれからの指標となるようなお言葉をかけてやっていただけないでしょうか」
 群青の目をわずかに逸らして、青年はああともうんともつかない、曖昧な肯定を返した。男はそれでも十分に満足したようである。やれ自分も昔は戦地でどうの、貴方様のお力の前には海の彼方の大陸さえどうのと、言いたいことをあれこれ言って、やがてそれに隣の男も加わった。
 青年はその話をほとんど黙って聞いていて、時折、会話の背中を押すように相槌を打った。男たちは最後にまたもう一度、ザンクトから戻った青年を労って、挨拶をしたりお辞儀をしたりしながら連れ立ってどこかへ去っていった。
「慕われていらっしゃいますね、クロイツ様。ザンクトでの戦いを語って聞かせて差し上げれば、彼らはもっとお喜びになったでしょうに」
 その背中が、人形のように小さくなってから。青年の後ろに控えていた女が、すいと出てきて口を開いた。
 淡い茶色の目。夜色の睫毛に縁取られた両目は、子供のそれのように大きいのに、どこか平坦で感情が読みにくい。じっと見上げられて、青年が短いため息をついた。
「なんの嫌味だ。あの戦いを語るとしたら、俺は英雄ではなく、まことの語り部になるほかない」
「そうでしょうか?」
「誰より分かっているだろう。英雄殿」
 女がくすりと、唇の端にかすかな笑みを浮かべる。睫毛と同じ夜色の、後ろでひとつに纏め上げた髪。幅のある三つ編みが小さな頭の左右を囲んでいて、服装もグレーのワンピースという、いかにも使用人然とした地味な女だ。
 彼女は、青年の〈従者〉である。青年が十八のときから、彼の傍に仕え続けている。
「申し訳ありません。クロイツ様があまりに愛想笑いを引き攣らせていらっしゃったので、少し冗談でも言って和んでいただこうかと」
「白々しいにも程があるぞ。……あれは、愛想笑い以外に返しようがないだろう。余計なことを口にして、話を広げられても困る」
「ええ、そうですね」
 同意して、彼女は自らの主君を見上げ、平坦な眸の奥に親しみともからかいともつかない色を浮かべた。
「まさか、誰も信じないでしょうけれど。魔法大国オルタリアの、王弟の嫡子にして王位継承権第四位のクロイツ公が――二十六歳にして、未だに魔法が使えない、なんて」
 反対に、青年の目が苦々しく細められた。もっとも、こちらもあまり感情の色が鮮やかに出るたちではないので、その表情は傍目に見れば、ただの無表情と捉えられかねない程度の違いだった。
 辺りを見回して、誰もいないことを確かめ、はあ、と前髪をかき上げる。彼がそんな仕草をすれば、国中の貴族が心中を察して、少しでもその不快を取り除けるように対応せねばとざわめくものだが、目の前の従者はそんな気配を微塵も見せない。
「ザンクトで無茶をさせたことを、まだ怒っているのか?」
「怒っているわけでは。ただ、実際は四十人だったと言うのを我慢しただけです」
「それを一般的には怒っているというんだ。君には、従者としては格別の待遇をしているだろう」
「はい、おかげさまで」
「個室もあるし猫足のドレッサーや香水棚のついたクローゼットもある、ベッドなんて天蓋がついて俺の部屋より立派だ。パーティーにはドレスを仕立てて連れていくし、ケーキの上のチョコレートの薔薇は君にやる。……ときに、ベアトリーチェ」
「はい、なんでしょう?」
「……今夜は、外で食事をする。何が食べたいんだ」
 折れたのは、青年のほうだった。ごめんという言葉こそ出なかったが、レストランで何でも好きなものを食べさせてやる、それが潔癖で見知らぬ他人の作ったものを食べたがらない彼にとっての大きな譲歩であり、礼と詫びであることを彼女は知っていた。
「そうですね……、真鯛、レモン、さくらんぼ、海老」
「なんでも生のまま食そうとする癖はやめてくれ、料理で考えろ。ソテー、ビスク、さくらんぼはデザートでタルトにのせさせればいいな?」
「料理を待つのは退屈なので、私は生でも一向に構わないのですが」
「俺は構う。いいから行くぞ」
 背中を向けて歩き出した青年の後ろを、はい、と返事をして彼女はついていく。その目が再び床に彫られた金の文字を見下ろし、天使の間を泳ぎ、やがて興味を失くしたように、青年の背中に垂れた灰色の一房に戻った。
 外では夕を告げる鐘の音が鳴り響き、城門が独りでに表を閉める。街の上には色とりどりの角灯が浮かび上がり、風に乗って流れ、それぞれの持ち場について持ち手を木や柵に絡ませた。
 魔法によって成長し、魔法によって繁栄する、オルタリアはすべてが魔法で作られた国だ。
 魔法で作られていないのは、人間だけ。
「ベアトリーチェ?」
 鼓動のない胸に手を当ててふと考えていると、青年が少し先で足を止めて待っていた。遅れたことに気づいて、今行きます、と彼女は答える。
 その体は青年の与えた、銀の鎖と花籠と、光砂の砂時計から生まれた。八年前の、月のない夜の話だ。彼女は青年の〈従者〉として、この世に作り出された。



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