終幕:遥か遠い世界
謁見の間には東に大きな刳り抜き窓があって、朝日が昇ると、王宮で最初に光が射し込むようになっている。早朝、そこで三つ足の噴水が立てるさらさらという音に囲まれながら、会議を開くのは王とマクリダ、十名ほどの大臣たちだ。
会議の内容は主に、それぞれの今日一日の予定の確認と、昨日の出来事の報告である。彼らはそれを毎日、刳り抜き窓に太陽が昇りきるまでに済ませる。昇りきったら、朝食の時間だ。
「アザールへの手紙には、肖像画も添えたほうがよいな。近く、画家を呼ばねば」
「あら、お描き直しに?」
「あれは近頃、表情も明るく、ずいぶん美しくなった。昔の絵では勿体ない。今の姿をこそ、残してやるべきだろう」
王の言葉に、マクリダも微笑んで同意する。今朝の会議には、カッシーアの縁談も話題に上った。数日中には、大臣が食事会の手配を済ませ、招待状と肖像画がむこうへ送られることとなる。
「チャハルが正式に皇太子となる前に、少しでも国交を結び、周囲を安定させてやらねば。それが我にできる、最後の仕事というものだろう」
じきに昇りきる朝日を窓の彼方に拝んで、王は目を細め、感慨深く呟いた。この身もそろそろ、進退を考える頃合いだ。マクリダが王の、次の世代へ移り変わっていくことへの喜びと淋しさ、その混在する胸の内を察したように、そっと寄り添った。
そのとき、謁見の間の入り口に、一人の女が駆け込んできた。
「畏れながら、申し上げます。王様にお目通り願います」
会議を終えて、歓談と共に解散を始めていた大臣たちが、一斉に女へ顔を向ける。
「何事だ」
ただ事ではない様子に、王は驚きながらも立ち上がり、女を見た。宮女の服装に身を包んだ、地味な印象の、若い女だった。通常、謁見の間に近づくことも許されていない身分だ。女は承知の上で乱入してきたのだろう。絨毯に膝をついて頭を垂れ、その額までつけようとする勢いである。
「わたくしは、第十四王女カッシーア様つきの侍女にございます。毎朝のお支度と、お部屋の掃除をさせていただいております」
「どうした、よほど危急の用と見える。申してみよ」
「はい、ありがとうございます。王様に、こちらをご覧いただきたいのです」
カッシーアの名前を聞いて、マクリダの顔に緊張の色が浮かんだ。王よりも一瞬、早かったそれは、彼女に宿る女の勘とでもいうべきものだったのかもしれない。
大臣たちが道を開けたので、侍女は畏れで足をもたつかせながら、王の眼前へと進み出た。彼女が一歩、近づいてくるごとに、何か悪い予感のようなものが胸をせり上がってくるのを感じて、王の眸が険しくなった。
「こちらを……」
侍女が片手にのせたスカーフを、もう片方の手で開く。
恐る恐る皆が覗き込んだそこには、赤い、くるくるとうねった髪の束が入っていた。
「昨日の朝、カッシーア様からお切りしたものです」
「なに……?」
「昨日、わたくしがいつものように朝のお支度をさせていただきに黒曜宮へ参りましたところ、あの方の髪の先がこのように、真っ赤に染まっておいででした。にわかには信じられませんでしたが、本当のことなのです。わたくしはお切りして、このスカーフに包んで、お預かりしました」
大臣たちは始め、気のおかしな者でも見る目で侍女を見ていた。顔を見合わせて、肩を竦めた者もあった。王も頭では、その反応が正しいと思っていた。でも心の予感が、彼女の話を遮るなと騒ぎ立てていた。
「誰にも見せずに処分するよう、申しつけられておりましたので、人が寝静まった夜中に庭へ出て焼くつもりでいたのです。しかし、ご縁談の噂を耳にして、黙っておいてはいけないと思い改めました。カッシーア様はこのところ、うわの空で物思いに耽ることが増え、夜も早々と眠りに就かれているご様子」
「何だと?」
「もしや、何か恐ろしいご病気ではないのかと……急に不安になって、この通り、お目通り願いました次第です」
病気。その一言が、王の脳天にガラスを飛び散らせた。失敬な、と怒鳴る大臣の声と、申し訳ありませんと叫ぶ侍女の声とが、飛散するガラスの音にかき消される。それはいくつかの花を模った、透明な髪飾りだった。かつて、たまたま通りがかったカッシーアを見つけて、そういえばマクリダを介して知るばかりであまり相手をしたことのない娘だったと、話のついでにやったガラスの髪飾り。
式典の日も、何事もない日にも、ずっと身につけていたそれを、カッシーアはつい先日、落として割ったと言っていた。
ちょうど、同じころからではないのか。彼女の顔つきや、纏う空気が変わったのは。いつも何かを夢見ている娘のような無邪気さと儚さで、形容しがたい不思議な魅力を、周囲に振りまくようになったのは。
そして、変化がついにその外見にまで現れた。
王ははっとして、心臓が打ち砕かれたような衝撃を受けた。ああ、という叫びに、マクリダと大臣たちが慌ててその体を支えた。
「なぜ、なぜもっと早くに気づけなかったのだ。あいつだ。あいつがカッシーアを作り変えていたのだ」
「どうなさったのです、貴方。一体なにが……」
「夢侵症だ。カッシーアは夢に侵されている。あろうことか、あの髪飾りを介して。我のやった、あの髪飾りが、カッシーアの自我を脅かしている!」
崩れるように歩み出て、王は縮み上がった侍女の手から、赤い髪を奪い取った。その片側には、幾ばくかの漆黒の髪が覗いていて、まさしくカッシーアの黒髪と同じ、輝石の艶を湛えているのだった。
「ラーシャムに、心を喰われた」
王の言葉に、場にいた全員が顔を見合わせる。聞き覚えのない名だった。それもそのはず、その名はマクリダにさえ伝えられたことのない、イスタファの王家が抱える最大の秘密だったのだ。
「ラーシャムは夢を売る悪魔だ。葡萄色の髪に、蜂蜜色の目。見る者によって女にも男にも見え、女のように強かで、男のように欲深い」
「悪魔……ですって?」
「悪魔か天使か、はたまた魔法使いか、真実は本人しか知らぬ。曾祖母ザフィが招き入れた、イスタファ最凶の生き物だ」
赤い髪を両手で、引きちぎらんばかりに握りしめて、王は拳をぶるぶると震わせて言った。
「ザフィは――あれは、ラーシャムに国を売ったのだ。男兄弟が死んだ代わりに、若くして婿を得て女王となったが、生活に馴染めず、心を癒すために彼の者の売る〈夢〉を買い漁った。対価として、彼女は血を与えたのだ。王家の血――その匂いを頼りに、夢を渡って、あいつはやってくる。彼女の血を引くすべての者は、生まれたときから、ラーシャムに居場所を握られているのだ!」
大臣たちはしんとなって、誰一人、声を上げる者はなかった。信じがたい話だったが、王の顔に浮かんだ焦燥が、作り話ではないことを物語っていた。
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