第四幕:大切なもの
説教くさいハリルとの退屈な勉強が、午前で切り上げられた理由を知ったとき、カッシーアは動揺して、勉強のほうが数十倍ましだと思った。父の懇意にしている大臣がやってきて、「王様がお呼びです」と告げたのだ。
一人きりで父に呼び出されたことなど、生まれてこの方、一度もない。一体なんの話だろうと緊張に固くなりながらも、カッシーアは孔雀の髪飾りを留めて、謁見の間へと急いだ。
「来たか」
石榴の樹を織り込んだ絨毯の前に辿り着くと、カッシーアが挨拶をするよりも早く、父が気づいて顔を上げた。隣にマクリダが座っている。カッシーアは慌てて膝をつき、父の爪先まであと五十歩はあろうかという距離から、深々と頭を下げて声を張り上げた。
「お呼びでしょうか、お父様」
「うむ、よく来た。もっとこちらへ座りなさい」
まさかマクリダも揃っているとは思わなかった。だが、父と二人きりというのも、それはそれで緊張する。マクリダがいてくれて良かったかもしれない、と感謝しつつ、カッシーアは絨毯の上を進み、父の指し示した椅子に腰かけた。
「良いドレスを着ているな」
「あ、先日仕立てていただいたもので……」
「年頃の娘らしく、お前の雰囲気にもよく似合っている。ときに、髪はどうした?」
「え?」
「ついこの間、見たときは、腰まであったような気がしていたが」
マクリダは父の言ったのを聞いて、初めて髪に目が留まったらしい。片側に孔雀の羽根を飾ったカッシーアの髪が、肩甲骨の下までしかなくなっているのに気づいて、まあと驚いた声を上げた。
「昨夜、蝋燭の火がうつってしまったんです。焦げてしまったので、宮女に頼んでこのような長さに」
「なんと。危ないところだったな」
「怪我はなかったの? 部屋は大丈夫?」
「はい、おかげさまで。すぐに火は消えましたので、問題ありません」
カッシーアは焦って裏返りそうになる声を、どうにか落ち着かせて、申し訳なさそうに言った。二人は彼女の言葉を信じ、大事に至らなくてよかったと言い合って、ほっとしたように目を見合わせた。
その様子に、カッシーアはふと、自分が呼び出された理由を感じ取った。
「お前の身に何事もなく済んで、本当によかった。大きな怪我でも負っていたら、この話はまた機会を改めなくてはならなくなっていただろう」
「お父様、私へのお話というのは?」
「見せたいものがあってな。カッシーア、これを」
父が肘掛けの間から、額縁をひとつ取り出して渡した。受け取って、中を見たカッシーアの目が、そこに描かれている青年の目と重なった。
肖像画だ。大きなものではないが、質の良い装飾がされた額縁に収まっていて、絵そのものも単純ながら出来がいい。一目見て、どこかの王族の肖像画だと分かった。じっと見ていると、父に代わって、マクリダが口を開いた。
「素敵な方でしょう? 知的で、優しそうな目をしていて、思慮深そうな印象よね」
「はい」
「アザールの王様の、弟君の次男だそうよ。王様からみたら、甥御さんということね」
アザールといったら、イスタファが国境を接する五つの国のうちのひとつで、つまり隣国だ。思いがけず国交の深い国の名前が出て、カッシーアは額縁の中の青年から、マクリダに視線を向けた。マクリダは微笑んで、話さない。促されたように、父が先を語った。
「先日、彼は交易品に関する条約の使者として、我を訪ねてきてな。その際、西の廊下を歩いていたお前を見かけて、国に帰ってからもお前の話ばかりしているという」
「それは……」
「ゆえに一度、こちらで彼の父上と共に、食事に招くことになった。お前にも同席してもらいたいと思っている。意味は分かるな?」
「会って、少しお話をしてみるだけでいいのよ」
マクリダが父の言葉を補って、ね、と首を傾げた。カッシーアの顔色が優れないことに、いち早く気づいたのだろう。
カッシーアは自分でも戸惑うほど、何と返事をしたらいいのか、頭が真っ白になってしまっていた。つまりは、縁談ということだ。王族同士の結婚など、突然に決まるものがほとんどで、食事会という名の顔合わせがされるだけ恵まれたほうかもしれない。まして、相手はカッシーアに対して、少なからず好感を持っているという。
悪くない話だ。頭ではそう自分の声が響いているのに、声の出し方を忘れた人のように、返事をすることができなかった。体の奥で蘭の匂いがこぼれて、噎せ返りそうになる。気の遠くなるような錯覚の中、無意識に口を開いて、カッシーアは答えた。
「とても、有難いお話だと。ですが私……私がそれを受けてしまったら、あの人が……」
「カッシーア?」
父の声が、蘭の錯覚を打ち消した。カッシーアは自分が何を口走ろうとしたのか気づき、蒼白になって、かぶりを振った。
「すみません、驚いてしまって。喜んで同席させていただきます」
「おお、そうか。助かるぞ」
「よい時間を持てるよう、精一杯努力いたします。よろしくお伝えくださいませ」
父の声色が明るくなり、マクリダの頬に微笑が浮かぶ。カッシーアの言いかけたことは、二人にはよく聞こえていなかったようで、胸を撫で下ろした。心臓が気味悪く、どくどくと逸っている。本当に、何を言おうとしていたのか。カッシーアは振り返って、自分に呆れた。
(恋人が悲しむから、お断りしたい、なんて。私に恋人はいないのよ。一体何を混同しているの)
あのとき、ミカエルがいることを分かっているくせに、どうして父が縁談を持ってくるのだろうと思ってしまった。ワイアットと父、ワイアットの娘であるカッシーアとイスタファのカッシーアとが、一瞬、混ざりあって分からなくなっていた。
ミカエルはここにいない。当たり前のことなのに、彼の名前を口走りそうになってしまった。彼がいるから、縁談は受けられないと。縁談の話だと予想もついていたくせに、危うく拒みそうになった。
(……しっかりしなきゃ。あと一晩の、夢なんだから)
カッシーアは二人から見えない位置で、自分の太腿を抓って、意識をどうにかすっきりさせた。そうして肖像画の青年について、名前や趣味など、食事会での会話のきっかけになりそうなことをマクリダから教えてもらった。
「やあ。来るころだと思ったよ」
灰色の空間に、浮かぶ紫の影がひとつ。目を開けると、カッシーアを見下ろして楽しげに微笑む。
「待たせたかしら?」
「いや? 今来たところ」
いつかの夜をなぞって訊ねれば、夢売りも同じ夜をなぞって返した。ふ、とカッシーアの唇の端が、小さく上がる。
「同じ夢でいいのかな?」
「ええ、お願い」
夢売りは分かりきったことを訊くように、軽い調子で問いかけた。カッシーアもすぐに目を瞑って、準備に入る。
ウードを膝に抱える音が、他には一切音のない空間に響いた。夢売りはいつもと何も変わらない。最後の夜だということも、今朝のささやかな喧嘩についても、あってないことのごとく触れる気配を見せなかった。
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