第三幕:白い鳥の夢


 翌日も、翌々日も、カッシーアは同じ夢を望んだ。夢売りは却って世界を創る手間が省けると言って、彼女の願いに応えた。
 夢の中では一晩が一日であったり、一ヶ月であったりした。カッシーアはすっかり王女としての暮らしに慣れ、ワイアットと親しみ、時には公の場に出ることも楽しみながら、合間にミカエルとの時間を重ねていった。
 長い夢から覚めると、むしろ起きたあとの世界のほうが夢なのではないかと思ってしまうことがある。夢の中で何度も歩いた柱廊や庭の風景が、ふとしたときにイスタファのそれと重なり、非現実が現実をひたひたと侵食する。
「カッシーア様?」
「……あ、ごめんなさいハリル。ぼうっとしていたわ」
 今も、勉強部屋の風景がミカエルの執務室と重なって、二つの景色があやふやに溶け合っていくのを、カッシーアは楽しんでいた。ハリルの声で現実に引き戻されて、ああそうだ、〈今日〉はイスタファにいるのだった、と思い出す。
 もっとも、それもあと数時間の話だ。晩餐の後には、また向こうの世界へ旅立つ。今夜はミカエルと、庭園を散策する約束をしている。
「まったく、近頃のカッシーア様は、物静かにはなられましたが上の空が多すぎます。一度、休憩を入れましょう。三時にまた戻っていらしてください」
「いいの?」
「このまま続けても、わたくしの声などお耳に入りませんでしょう」
 諦めたように言うハリルを置いて、カッシーアは広げた勉強道具もそのままに立ち上がった。水を得た魚のように、途端に元気を取り戻した彼女の背中を見送って、ハリルは肩を竦める。
「元来、王族に生まれる娘ではなかったのかもしれんな。神の取り違えだ」
 そして自分も、王室の家庭教師などになるような人間ではなかった。ハリルは袂から畳んだ手紙を出し、一人広げて、ため息を零した。
 今教えている古典を最後に、カッシーアの教師を降りるつもりだ。せめて穏やかに挨拶を交わしたいものだが、彼女があまりに自分の教える勉強を疎ましがっているのが伝わってくるので、いつも皮肉を返してしまい、言う機会を見つけられずにいる。

 一方、勉強部屋を飛び出したカッシーアは、すでに黒曜宮を出て長い廊下を渡りきり、王のいる本宮へとやってきていた。黒曜宮と違って、ここには庭や台所、屋上や礼拝堂など、様々な部屋があって面白い。外の魅力には敵わないが、一時間の散歩ならもってこいだ。王宮なんてたまに遊びに来るから楽しいんだわ、と、カッシーアは客人の気分で散策に乗り出した。
 すると、廊下に向かって開け放たれたある一室の前を通りかかったとき、中から父の声が聞こえてきた。
「これと、これと……おお、これも素晴らしいと思わないか。これはお前にやろう」
「まあ、よろしいのですか」
「構わぬ、お前にはいつも世話をかけているからな。どれ、チャハルにはこのベルト留めはどうだ。持っていってくれ」
「まあ、まあ。あの子も喜びますわ――あら」
 日干しした赤い絨毯の上で、父と向かい合うようにして話していた女性が顔を上げる。第一王妃だ。カッシーアは咄嗟に、ドレスを持ち上げて、その場に膝をついた。
「ご機嫌麗しゅう、マクリダ様」
「そんなに固くならないで、カッシーア。話すのは久しぶりね」
「はい。お元気そうで」
 王妃マクリダは、滑らかな黒髪の下の淡い緑の目を、柔らかく細めた。稀有な人だ、とカッシーアは思う。他の王妃たちは、第十四王女であるカッシーアのことなど名前も覚えていないが、マクリダはすべての妃とその子供の名前をしっかり記憶している。晩餐の席では椅子と椅子が遠すぎるため、めったに話す機会はないが、目が合うと誰とでもすぐに名前を呼んで話を始め、臣下であっても態度を変えることはない。
 父が、実質の正妃として扱っているだけのことはある。マクリダのような人を、マクリダの他には見たことがなかった。母のことは美しく賢い女性だと尊敬しているが、カッシーアは、同じ王家に生まれるならマクリダの血がほしかった、と思うことさえある。
 マクリダが「いらっしゃいな」と言うので、彼女は父の顔を窺いつつ、そろそろと足を進めた。
「今ね、旅の商人が寄っていったから、王様がまた私たちに色々見繕ってくださったのよ」
「そうなんですか」
「ほら、これなんか貴女に似合いそうだわ。孔雀の羽根で作った髪留めですって」
 屈んで、二人の間に広げられた金銀の宝飾品を眺めていたカッシーアの髪に、マクリダがその中のひとつを宛がう。父が満足そうに、ほう、と感嘆の声を漏らした。
「良い見立てだ、確かに似合っているな。それはお前にやるとしよう」
「本当ですか?」
「ああ。元々、誰にやるかは決めていなかったものだ。持っていきなさい」
 カッシーアは深々と礼を述べて、さっそくそれを髪につけてみた。マクリダが手を貸してくれて、カッシーアの黒髪に、青と緑の羽根が美しく広がった。
「間の良い娘だ。お前は運があるのかも知れないな」
「え?」
「以前にも、我の前を通りかかったことがあっただろう。あのときやった髪飾りを、そういえば最近していないようだが。もう飽きてしまったか?」
 カッシーアは驚いて、どきりと顔を上げた。あのガラスの髪飾りを、父が覚えているとは夢にも思っていなかった。まして、今の口ぶりでは、まるでカッシーアがずっとそれを使っていたことを見ていたかのようだ。そんなまさか、と戸惑いながら、言葉を探す。
「あれは……、とても気に入っていたのですが、落として割れてしまったのです」
「そうだったか」
「せっかくの贈り物だったのに、申し訳なくて、言い出せませんでした」
 父は納得したように首肯し、マクリダは怪我がなかったようで良かったと気遣った。カッシーアはガラスの破片が胸に刺さったような痛みを覚えながら、心の中で、嘘をついたことを神に詫びた。
「それなら、新しいものを渡せてちょうど良かった」
「はい、ありがとうございます。お父様」
「あまり長居をせずに、少し休んだら帰りなさい。ハリルが気を揉む」
 父はなぜ、カッシーアがここにいるのか察しているようだった。驚きと恥ずかしさでうつむいて「はい」と答えたカッシーアに、マクリダが微笑んでいた。
 カッシーアには知る由もなかったが、マクリダは毎日、晩餐の席で見聞きしたことや感じたことを、王に報告する役目を務めていた。カッシーアが勉強嫌いで、母に促されて億劫そうに学んだことを繰り返す様子を、彼女は確かに見ていたのだ。


 花盛りの庭園を、白い鳩が数羽、首を回しながら歩いていく。城の北塔で飼われている鳩だ。人に懐いていて、近くを通っても飛び立つ気配はない。
「不思議なものね。翼があるのに、どこへも行かないなんて」
 ぽつりと呟いたカッシーアに、隣を歩いていたミカエルが視線を下げた。このところ、ワイアット王につけられた家庭教師との勉強を終えると、日課を終えた彼と待ち合わせて夕方まで過ごすのが習慣になっている。王が、まだ城にやってきて日の浅いカッシーアを支えてくれるよう、ミカエルに頼んだのだ。それは二人の逢瀬に気づいた王からの、内々の公認のようなものだった。


- 9 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -