第二幕:靴屋のヒルダ、或いは王女


 その日、カッシーアの一日は、かつてない速さで流砂のように流れた。社交辞令の輪唱めいた朝食も、ハリルとの勉強も、仕立て屋を招いて式典用のドレスを誂える午後の時間も、また鳴り響く輪唱の晩餐も、すべての時間においてカッシーアの頬は薔薇色の微笑みを湛え、眸には湖水のごとき深い煌めきがあった。母や兄弟姉妹たちはカッシーアを見て、どこか昨日までの彼女とは違う、生命力に溢れた印象を感じ取り、何か良いことでもあったのではと探りを入れたがった。
 カッシーアは意味深に笑って、質問を躱した。いつも教え込まれているマナーを、立派に復習してみせたのだった。
 目を開けると、昨夜と同じ、灰色の空間に横たわっている。
 カッシーアは起き上がらずに、首だけ回して横を見た。すぐ傍らに、胡坐をかいた夢売りの膝が突き出していた。
「お待たせしたかしら」
 寝顔を見下ろすように座っている夢売りを見上げて、カッシーアが問う。
「今来たところ」
 夢売りは定型句のように、そう返した。
「訊きたかったことがあるのよ」
「ファーストキスの相手なら、ザフィって名前だったよ」
「誰もそんな話は……、女性なの?」
「夢売りなんか呼び出すのは、大概、うら若き女性だからね」
 へえ、と思わず納得しかけて、沈黙が落ちる。カッシーアは夢売りのペースに呑まれかけたことに気づいて、気を取り直して声を上げた。
「私が訊きたかったのは、昨夜の街のことなのよ。あれは本当に存在する街なの? とてもリアルだった」
「ああ、あれはね。イスタファの南東にある、」
「本物なの?」
「と、見せかけて、細部まで僕が創り上げた夢の街だよ。一応、現実にも似ている場所はあるけれど、架空だ」
「匂いも、味も感じたわ」
「それが僕たちの力なのさ。君たちが一人で見る夢との、最も大きな違いだ。夢の精度が違う」
 夢売りは当たり前の口ぶりで言いながら、ガラスの髪飾りをどこからともなく取り出し、宙に投げては、ぎりぎりのところで落とさずに拾った。それはカッシーアが、昨夜夢売りに預けた髪飾りだ。恋しいご馳走であるはずのそれを、夢売りはまるで、猛禽が獲物を弄ぶように放り投げる。
 ぱし、と骨の浮いた手が髪飾りを掴んだ。視線がかち合うと、蜂蜜色の眸は、カッシーアの心を見透かしたように苦笑した。
「本物の街にしなかったのは、君の立場を考慮してのことだったんだけど?」
「私の?」
「そうですとも、黒曜の姫。現実に近すぎる夢は、時に夢だったのか現実だったのか、分からなくなってしまう。行ったことのないはずの街や、貴人に相応しくない遊び場を、ふとした拍子に君が知っていると言ってしまったら、どんな騒ぎになることか」
「貴方、そんなことを心配して、わざわざ架空の街を創ってくれたっていうの? 本当に?」
 夢売りは口許の三日月を深くした。思いがけない言葉に、すっかり呆気に取られてしまって、カッシーアは片手で自分の瞼を覆った。
「どうしたの」
「いえ、自分が恥ずかしかったのよ。あれが本物の市場だったなら、召使にルビーかサファイアのひとつでも握らせて、こっそりロクムを買ってきてって命じるつもりだったのに。架空の場所ならそれすらできないじゃない、って貴方に腹を立てたの。欲が張っているわ」
「夢売りを呼んでいる時点で、君が欲張りなことくらい、前提だよ」
 それもそうか、とカッシーアは思った。そもそも、外に行きたい欲求の強さが生んだ、今の状況だった。
「恥じる必要なんてないだろう? 僕らはお互いに、一人では手に入れられない欲望を満たすために、取引をしたんだからね」
 夢売りの声は、微睡みを誘う。話していると、鼓膜の奥から頭へ繋がる道が、その柔らかい声でゆっくりと塞がれていくような気がする。まばたきをしたカッシーアに、夢売りは目を細めて、ウードを爪弾いた。
「それじゃ……、今夜も、一夜の夢幻を」
 灰色の世界が、ぐるりと回る。


 夢売りはそれからも、契約通り、毎夜カッシーアの夢に現れた。夢売りの夢はどれも精巧で彩りに満ち、皮膚の気孔のひとつひとつから五感に入り込むようで、カッシーアの心を躍らせて飽きさせなかった。
 市場、サーカス、砂漠、街。実に様々な風景が、カッシーアを取り巻いた。そしてカッシーアは、いつもその夢の中で、まったく新しい誰かになっていた。人間とは限らない。あるときは一匹の猫になって、街を何日も眺めて過ごした。またあるときは、彼女は一片の花弁になって、夜空の下の広大な砂漠を渡り、彼方から昇ってくる金色の朝日を浴びた。
「それじゃ、今夜も」
 近頃、カッシーアは夢売りがウードに指をかけるのを見ていない。それを見るより先に、目を瞑っているからだ。夢の世界を行き来するのも今日で六夜目。彼女は夢売りの創る夢にも、夢売り自身の存在にも、すっかり心を馴染ませてきていた。
 夢売りの創る夢は、どれも現実の世界のように立体感があり、それでいて、カッシーアに都合よく優しかった。夢の中ではいくら歩いても疲れなかったし、何を食べても平気で、どんなにお金を使ってもよかった。危険は程よく遠ざけられていて、肉食獣はサーカスのテントに、盗賊団は路地の一本奥に。スリルを感じることはあっても、カッシーアの身に災いが降りかかることはないよう、常に見えない調整がされているのを感じた。
「一夜の夢幻を」
 今夜も、世界は三秒で形を変える。カッシーアは灰色と桃色と青が雑ざった川の上で手足を伸ばして、期待に胸を膨らませ、深呼吸をした。

 目を開けると、木と革の匂いの充満した、狭い建物の中に立っていた。木製の壁にずらりと取りつけられた木製の棚、そこに整然と、靴が並んでいる。
 カッシーアはまばたきを二つ三つして、自分の恰好を確かめようと、鏡を探した。小さな丸鏡が、奥のカウンターテーブルと繋がった柱にかかっている。覗き込むと、きっちりと二つに編まれた赤っぽい髪と、小さな星雲のようなそばかす、淡い緑の眸がこちらを覗き返した。エプロンをつけていて、下には木の皮のような、ごわごわとした素朴なワンピースを着こんでいる。
 町娘かしら、とカッシーアは思った。でも、イスタファの娘ではいないような髪の色だ。
「失礼」
 まじまじと見つめて考えていたとき、唐突に人の声がした。同時にカランコロンとベルの音が鳴って、靴に埋もれた戸棚と戸棚のあいだから、客が現れた。そこにドアがあったことさえ、カッシーアは、彼が入ってきて初めて気づいた。
 小さな店の、小人でも通す気なのかと思うようなドアを、青年は首を屈めてくぐり、カッシーアを見とめてその首を傾げた。
「貴女は……?」
「え、あっ、私は……」
 カッシーアは戸惑って、辺りを見回した。何か、今の自分が何者であるのか、教えてくれるものがないかを探した。青年は彼女を見て、しばし返事を待っていたが、やがて思い出したように「ああ」と言った。
「そうか、もしや貴女が、ガートンの言っていた孫娘か」
「えっ? あ、ああ――そうね」
「ミス・ヒルダ、で合っているかな? 店番を任せていると聞いたことがあったのに、すぐに浮かばなくて、ご無礼を」
 どうやらヒルダ、というのが、今の自分の名前らしい。先に思い出してくれた青年にほっとしつつ、いいえ、と曖昧に答えたカッシーアの前にやってきて、青年は恭しくお辞儀をした。


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