第一幕:黒曜宮の娘


(でも、無理なんだわ)
 カッシーアはふっと、窓に映った自分の顔をなぞって自嘲気味に笑い、椅子を下りた。背凭れを足で押しやって片づけ、陽気な音楽に背中を向けてベッドへ潜り込む。もうすぐ召使が、カッシーアの眠ったのを確認しにやってきて、蝋燭の火を消していく。眠ることすら、ここでは自由にならない。どこかへ行くなんて、以ての外だ。
(私が、私である限り)
 眠りに落ちる瞬間、そう思ったカッシーアの耳元で、誰かが囁いた。

「なら、君でなくなればいいじゃないか」

 鼓膜に吐息が吹き込まれたような生々しい感触に、カッシーアはばっと身を起こした。跳ね除けたつもりの布団は体にかかっておらず、そこはすでに彼女の部屋とはまったく別の空間になっていた。
 灰色の、薄いカーテンで幾重にも囲まれたような空間だ。奥には星が瞬いているのがぼんやりと見える。足元はガラス張りになっていて、灰色と青と桃色を混ぜたような、不思議な光を放つ川が下を流れていた。
「夢……?」
「ご名答。初めてでその反応とは、案外落ち着いてるね」
 呟きに、返事があったことに驚く。声のしたほうを見上げて、カッシーアはまたしても、驚きに目を見開いた。
「はじめまして、幽閉の第十四王女。黒曜の姫。またの名をカッシーア」
 銀細工の珠で一括りにした、尾のように長い葡萄色の髪を宙に遊ばせて、人がひとり、カッシーアの頭上に浮かんでいた。胡坐をかいた片膝にのせた腕で、一本のウードを抱えている。
 夢の中の相手とはいえ、顔を見せた覚えのない人物に名前を言い当てられて、カッシーアは反射的に警戒を抱いた。伸ばしていた足をすぐにでも立てるように起こし、その人物を鋭い眼差しで見据えた。
「そういう貴方は、何者なのかしら?」
「僕は、夢売り」
「夢、売り?」
「そう。お告げにやってくる天使とも、夜這いに入ってくる夢魔も違う。呼んだだろう、君。この髪飾りを使ってね」
 眼前に下りてきた夢売りが、服の隙間からガラスの髪飾りを出して見せる。それは眠る前、カッシーアがベッドに放り投げた髪飾りだった。そういえば抽斗に片づけるのを忘れていた、と思い出して、あっと手を伸ばす。
 夢売りは素早く、それを躱した。
「返してもいいけど、これって大事なものなのかな?」
 カッシーアは少し、答えに戸惑った。それは特別に好みの形をしているわけではなかったが、誕生日のネックレス以外で、唯一父から面と向かって渡された贈り物だった。
 でも、それがなんだろう。カッシーアのために作らせたわけではなく、たまたま、商人から品物を色々と買い取ったときに、カッシーアが傍を通りかかったから気まぐれでくれただけだ。きっともう、父は覚えていない。
「いえ、別に……代わりはいくらでもあるわ」
「それなら、取り返すよりもずっと良いものと交換しないかい。金銀を王宮より高く積んでも手に入らない、君が最も望んでいるものを見せてあげる」
 囁きに、カッシーアの伸ばしたままだった手が下りた。夢売りは彼女の頬に髪飾りの花を食い込ませて、蜂蜜色の眸に深い微笑みを浮かべた。
「自由な誰かになりたいんだろう?」
「どうして、それを?」
「この髪飾りから、そう聞こえてくるからね。長いあいだ身につけていたものには、想いが宿りやすい。その想いに呼ばれて、僕らは現れるってわけさ。君の場合は、この髪飾りが媒介になったってこと」
 夢売りはにこりと笑って、カッシーアの正面に腰を落ち着けた。そうはいっても紫煙のような、光沢のある淡い紫の絹のズボンに包まれたその足は、床からは常に少し浮いているようである。
 彼、なのか彼女、なのか。女の踊り子のような恰好をしているが、それにしては手の甲や足の甲が筋張っていて、体の凹凸が薄く、声が低い。しかし男というには華奢で、鎖骨など折れそうに細く、半透明のショールから覗く褐色の腕にはしなやかな柔さがあった。
 じっと見たものの思考に決着がつけられず、カッシーアはその者を、本人の名乗る通り〈夢売り〉と呼ぶことにした。彼女は平静を装って、自ら夢売りに問いかけた。
「では、貴方は私に呼ばれてここにやってきたというわけね」
「その通り」
「それで私を相手に、一体どんな商売をしようというの?」
 これは、夢だ。すでに夢の中にいるという認識が、カッシーアを強気にさせていた。夢売りは彼女が興味を持ち始めたことを察して、眸の奥の光を深くした。
「商売というより、取引だよ。黒曜の姫」
「どちらでもいいわ。勿体ぶらずに話して」
「僕はこの髪飾りに宿っているような、人の想いを食事にしていてね。単刀直入に言うと、君の想いが食べたいんだ」
「私の……」
「でも、僕だけ味わうのは不公平だろう? だから君に、夢の中で、想いを叶えさせてあげる。この髪飾りに宿った想いなら、十二日分くらいか。つまり十二夜、君を夢の中でまったく別の存在に変えて、外の世界を自由に飛び回らせてあげるよ」
 カッシーアはごくりと喉を上下させた。誰にも話したことのない心の内を、この夢売りは本当に見透かしているようだ。どうだろう、と提案する夢売りの手が、甘露の杯に見えるくらいには、それはカッシーアが長年に渡って望み続けていた体験だった。
「ああ、そうだ」
 ふと、思い出したように夢売りが口を開く。
「何?」
「ひとつだけ、言っておいたほうがいいかと思ってね。もし君が取引に乗ったなら、夢の十二夜が終わった暁には、君は今のような、外の世界への強い憧れは失う」
「そうなの?」
「だって、その想いを僕が食べてしまうからね」
 言われてみればそうか、とカッシーアは納得した。同時に少し、怖ろしいような気持ちにもなった。
 外の世界への憧れを失くした自分とは、どんなものだろう。想像がつかない。いつも胸を占めていた、外への想いを失くすなんて、ネックレスの中心から宝石をひとつ外すようなものではないだろうか。
(だけど、いっそそのほうが楽になるんじゃないの?)
 カッシーアは自分に向かって問い直した。王女である立場は、捨てようと思って捨てられるものではない。ならば、無謀な外への憧れなど失くしてしまったほうが、王女として生き易くなるのではないか。勉強も今より、好きになるかもしれない。ハリルに迷惑をかけることもない。母も喜ぶだろう。
 何より、自分が苦しまずに済む。
 カッシーアは顔を上げ、夢売りの目を見つめて、静かに頷いた。
「取引に応じるわ」
「光栄だよ、黒曜の姫。必ずや、君の想いに恥じない夢を。さっそく今夜から行くかい?」
「ええ、お願い」
 迷いは吹っ切れていた。いつでも始めてもらって構わない。決心の固まったカッシーアの表情を面白げに眺めると、夢売りはウードに手を添え、膝の上に抱き起した。
「それじゃ、目を瞑って。ゆっくり、三秒数えたら開けてごらん」
 言われた通りに目を閉じる。カッシーアは大きく息を吸いこみ、無言でカウントを始めた。


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