フラインフェルテ・完結編V

「師匠は、本物ですから」
「本物?」
「本物の、魔法使いです。本物中の本物の師匠に、あたしの何が分かるはずもないじゃないですか。自分が何者かも知らず、どうやって生まれてきたかも知らず、本物気取りでのうのうと生きてきた偽物の気持ちなんてっ! どう考えたって、分かるはずが――」
 ふいに、視界が暗く翳った。反射的に身を竦めた私の頭に、覚えのある、軽くて温かいものが乗る。染みついた煙草の匂いが、まるで家にいるような錯覚を呼び起こした。何度洗っても匂いが取れないと、文句を言いながら日向に干す私に、色が抜けるからもう少し陰に干せと、いつも決まって師匠が面倒くさそうに干し直しに出てきた、草臥れた帽子。
 サイズの合わないそれを、大きな手が目の上まで、私に被せた。
「確かにな。お前の気持ちは、お前にしか分かんねえだろう」
「……っ」
「でもこれだけは言っておく。本物と偽物の間にあるモンなんてな、薄いガラスの壁一枚だ」
 思いがけない言葉に、私は床を見つめていた目を瞠った。顔を上げると、灰色の双眸が、その芯に笑みを灯す。
 不敵に笑うその顔が、私にとっての、魔法使いの顔だ。世界に討てない獲物も得られない報酬もないと確信しているような、力と自覚、傲慢と紙一重の誇りを滲ませた、憎いほどに大きくて眩しい、輝石の笑みなのだ。
「例えお前が何者でも、こっち側に来たいと思うなら、俺が割ってやる。好きなように決めろ、イズ。お前は、なんだ?」
 ドン、とドアを何かが荒く叩く音が響いた。師匠が素早く立ち上がり、銃を二挺手にする。私は音を耳に入れてはいたものの、頭では師匠の問いかけが回っていて、すぐに行動を起こすことができなかった。
(私? 私は……)
 ドアが破られる。黒い、人型をした影のようなものが一気になだれ込んでくる。キメラか、と舌打ちをした師匠が立て続けに撃つ銃声が、それに倒れるキメラの呻き声が、歪んだ窓の向こうで響いているように感じられた。
 私は、イズ・ファントム。セフィーナ・ファントムの娘。テイラー・ファントムの作品。キーツ・グラッセの弟子。精神と肉体は人間。中身は、数多の魔物の力を注がれた、生まれながらのキメラ。幻。化け物。十七歳の――
「っ!」
 ヒュ、と影のような腕が頬を掠めた。次の瞬間、撃たれて地に落ち、もがいて動かなくなった。後には灰しか残らなかった。拳銃を一丁、ホルダーに戻して、師匠が私の腕を掴む。
「走るぞ」
 どこへ、と訊く暇もなかった。大股に駆け出した師匠に引っ張られて、私も走った。追いかけてくるキメラの手足が、私の足首に絡みつこうとする。そのたび、無意識に逃げようとして、何度か悲鳴を上げた。
 私だって、彼らの親類のようなものなのに。
 廊下に集まってきていたキメラを次々と撃ち抜きながら、師匠は駆けていく。彼らの侵入で緩んでいたドアを風の魔法で押し開け、炎を放って這い上る手足を焼き落としながら、柱の中の狭い螺旋階段をぐるぐると上った。
 ずっと水中にいた私の足は、とっくに重くなって、これ以上は走れない。それなのに腕を引っ張っていく力が片時も緩まないから、両足は絡み合い、縺れながら、錆びたペダルを漕ぐように動いている。
 拓けた場所に出た。それは私が家具を焼き尽くした、あの一室だった。師匠は目もくれずに横切ってドアを開ける。
 そうして廊下を通り抜け、一階へと下りたとき。私たちの目に映ったのは、恐るべき風景だった。
「これ……っ」
 一瞬、そこには巨大な穴が広がっているのかと思った。暗闇だと思ったそれが蠢いていることに気づいたとき、血の気が引いた。
 百なのか、千なのかも分からない。無数のキメラが床を埋め尽くして、互いに窮屈そうに身をよじりあい、呻きながらざわめいていた。艶や質感といったものの欠如した、真っ黒にくすんだ体の上で、目だけが白くくり抜かれた窓のように光っている。
 異様に眩しいその目がひとつ、私たちを捉えた。金縛りを誘うような叫びと共に、腕が伸びてくる。
「トワイラ・ボルク」
 師匠の声と共に、玉になった火がそれを焼き、続けざまに数体を屠った。灰になった仲間を踏み分けて、私たちに気づいたキメラが次々と向かってくる。どれかが階段に氷の矢を放った。師匠が私の手を掴んで、思いきり地面を蹴る。
 銃声が数えきれないほど響いた。私たちを見上げていた白い目が、ひとつまたひとつと光を消した。影が、炎が、氷が、四方から私たちを取り囲もうとして向かってくる。
 師匠は数体のキメラを蹴り飛ばして、彼らの渦の中へ飛び降りた。
「師匠、あたしは……っ」
 叫んで、何を言おうとしたのかは自分でも分からない。ただ、何もできない、と言いたかった。
 薬臭い地下室から連れ出されたところで、こんな敵陣の真ん中に下ろされたところで、その背中を預けられたところで。私は、自分が何をするために立っている、何者なのか、それすら分からないのに。
「――ああ、やっぱりねえ。生きていたか」
 答えない師匠に代わって、別の声が正面から響いた。キメラたちが一斉に、攻撃を止めてそちらを振り返る。高く造られた祭壇の上に、薔薇窓から注ぐ夕日を受けて立つ、痩身の影が二つあった。
 逆光でも、その姿ははっきりと思い出せる。
「よお、テイラー・ファントム。結構な歓待ぶりだなァ」
 くるりと片手に銃を回して、師匠がその名を呼んだ。逆光に慣れてきた目に、テイラーがにこりと、口角を上げたのが映る。
「驚いてもらえたようで光栄だよ、キーツ・グラッセ。何せ私も、君の死体が消えていて驚いたからね」
「そうか?」
「本当だとも。私は彼女に、君を倒すよう命じたからね。しかし彼女はまだ、言葉のニュアンスを察知するには心の経験が足りていなかったらしい。殺しなさいと言わなかった私のミスだ」
 ねえ、と。テイラーが微笑みかける先で、もう一人の私が無感情な目をして、私を見つめている。どうしてそちら側にいるのと、善意も悪意もない赤紫の目は、容赦なく疑問を向けてきていた。テイラーがぽんと、彼女の肩を叩く。
「けれどもう分かっているね、私の賢いイズ」
「うん」
「さあ、お前の力を私に見せておくれ」
 装飾のない純白のワンピースを纏ったもう一人の私は、銀色の髪を靡かせて、こくりと頷いた。そうして素足で床を蹴って、キメラたちの上に飛び立ったかと思うと、風の魔法を纏って天井近くまで舞い上がった。
 薔薇色の踵が天井の暗闇を裂いて、くるりと回る。次の瞬間、彼女は口の中で何かの呪文を呟いたかと思うと、矢のような勢いで私たちへと向かってきた。
「くっ」
 光が弾ける。受け止めた師匠と真っ白な私の間に、魔法の衝突が起こった。弾かれた魔法が周囲のキメラを殺しても、彼女は一切、顧みることをしない。その一撃が、教会に響き渡った合図だった。彼女の行動に倣うように、キメラたちは一斉に、私と師匠へ向かって襲いかかってきた。
 黒い渦から、白いスカートがするりと抜けだして、天井へ舞い上がる。
「待て! ……ッ、この!」
 師匠は彼女めがけて攻撃をしかけようとしたが、夥しい数のキメラにたかられて、態勢を崩した。足に絡みつく腕や足を反対の足で踏みつけながら、呪文を唱え、引き鉄を引き、手当たり次第に彼らを倒していく。
 それでも尚、次から次へと湧き出してくる彼らは、まるでひとつの大きな洞穴から無尽蔵に湧いてくる、暗い湿気のようだった。でも、私は知っているのだ。彼らが本当は、個々の心を持つ人間だったことを。
 どっと、鳩尾に黒い腕が沈みこんだ。
「――――ッ!」
 一瞬の隙を衝かれ、床に転がった私を、いくつもの白い目が囲んで見下ろした。それらが炎に包まれて、灰燼と化す。顔を上げればもう、その炎を放った人は私に背中を向けていて、テイラーめがけて放った魔法の前に、数体のキメラが立ち塞がって崩れた。
(私は……)
 その先が、思い浮かばない。ただ、目の前にやってきたキメラがその手に魔法を宿したのを見て、震える膝で立ち上がって逃げた。床に描かれた六角星が割れる。氷の礫が石の上を滑る。ヒュッと、爪先に蔓草のような腕が絡んだ。前のめりに倒れた私を、上空からもう一人の私が見下ろしている。
「イヴニン・フロスト」
 同じ姿、同じ構え、同じ声、同じ唱言葉だった。それなのに彼女の手に浮かび上がった氷柱は、神話の剣のように鋭く、何ものをも貫くと自負しているような硬い青白さをもって輝いていた。
 胸の内を、敵わないという絶望が支配する。一瞬、私はその絶望におされて、瞼を下ろしそうになった。眼前に氷の剣が振り下ろされ、石を砕く音が響く。その瓦礫が頬を掠めたときになって、ようやく自分が身を躱したことに気づき、呆然とした。
(どうして)
 床を転げ、身を起こしながら、信じられない思いで自分の体を見下ろす。死に場所が少し変わっただけだと、心では覚悟したつもりでいた。投げ出したつもりの体を動かしたものが、本能だったのか、経験だったのかは分からない。
 ただ、気がつくと私は、雨のように降り注ぐキメラの攻撃の中を、必死に生き延びようとして逃げ回っていた。
「そっちは殺してはいけないよ。細胞は採ったが、まだ複製が上手くいくかは分からないんだから」
 テイラーがたしなめるように言う声が聞こえる。上空の私が「パパ」だか「はい」だか答えた言葉は、彼女が放った炎の音にかき消されてよく聞こえなかった。逃げた私を追いかけて来ていたキメラたちに、その炎が直撃する。ギーッと蝶番を軋ませるような叫びが響く。
 突如、鳥を落とすように、灰になったキメラを見下ろしていた真っ白な私の背中を雷が貫いた。
「こうも見た目が瓜二つだと、やりづれえよなァ、ったく」
「……キーツ・グラッセ」
「なんて、躊躇うとでも思ったか? 今ので相子だな」
 真後ろから一発。容赦のない雷撃を放った銃口が、細い煙を上げている。赤紫の目がはっとしたように見開かれ、手が、焼け焦げた白いワンピースをおさえた。左の腹に開いた穴からは、赤い血が滴り――しかし床に落ちる前に、灰になって霧散する。
 もう一人の私は、眉間にかすかな、不快の皺を寄せた。そうして今一度、手に氷の剣を構えると、今度は師匠を狙って立て続けに放った。
「師匠!」
 彼女の怒りに同調するように、私を囲んでいたキメラまでもが一斉に動き始める。灰と氷塊が舞う黒い渦の中、ひるがえっては消える赤い髪とどの影よりも黒いコートに向かって、私は無意識に叫んでいた。
 返事はなく、氷剣を溶かす炎が爆ぜる。とぐろを巻いて昇り、白いワンピースの裾を焦がす。彼女はアイギスによって、難なくそれを防いだ。鋭い風を足首に纏い、振り下ろされた足を師匠の放った氷が押し固め、またそれを内側から噴き上がった炎が溶かして、彼女は飛翔する。
(私のレプリカのはずなのに、どうして……)
 キメラという多数の味方をつけていることを抜きにしても、彼女は強い。アイギスを扱えるのはもちろんのこと、私よりも遥かに高いレベルの攻撃魔法を使いこなしている。愕然とする私の前で、二人はまた衝突し、弾かれあった魔法が周囲のキメラを薙ぎ払った。その灰吹雪すらも、炎に呑まれ、風に打ち払われ、あっというまに消えていく。
 ふと、目の奥にちらつく夕日の角度が変わった気がした。何、と目を凝らした私の、声にならない声が悲鳴のように響く。師匠が私の視線を追って、祭壇に立つテイラーの手に握られているものに気づいた。
「失敗作は所詮、失敗作か。もう少し役に立つと踏んでいたんだが、魔法使い一人に、こうも数を減らされるとはね」
 まっすぐに向けられた拳銃の口から、弾が撃ち出される。空気を裂いて一直線に飛んでくるそれを、魔法でどうにかする猶予はなく、師匠はとっさに身を躱すしかなかった。例えそれこそが狙いだと分かっていても、戦いの中には、相手の手に乗るしかない瞬間というものがある。
 足を下ろした先の地面が、罅割れて盛り上がった。間欠泉のように昇った土の壁に跳ね上げられて、師匠が宙を舞う。銃弾は閉めきられた三連の入り口に当たって跳ね、柱を欠いて威力を失い、床に転げ落ちた。おっと、とテイラーが声を上げる。空中で師匠が闇雲に放った魔法のどれかが、彼の腕に命中し、拳銃をさらったらしかった。
「トワイラ・ボルク……!」
 石の床に背中から打ちつけられた師匠が、横たわったまま、痺れた腕を天井に向けて唱える。そこにはすでに呪文を口にし、氷の剣を構えつつある私が、灰にまみれた両手でそれを掴み、感情の薄い目の底に静かな怒りを湛えて浮かんでいた。
 師匠の手のひらに、炎が宿る。相殺する気だが、しかし。
(――間に合わない)
 一秒後に起こることが、まるで未来を知っているような鮮やかさで、脳裏に描き出された。凍りついて重かった足に、火がついたのを感じた。
 白いワンピースから伸びる、白い腕が剣を手放した。冷気の混じった風が頬を切る。青い閃光が、体の真横に並ぶ。
「展開!」
 力の限りに叫んだとき、灰色の目が、にわかに見開かれるのを見た気がした。
 一瞬、手のひらに掠った冷たい切っ先が、見えない盾に弾かれて砕け散る。圧に押されそうになった腕をもう片方の手で支えて、灰が積もって滑る床を両足で強く踏みしめた。アイギスは向かってくる刀身をがりがりと削りながら受け止めて、ついには氷剣に亀裂が入り、二つの大きな塊となって床に落ちた。
 解除を唱えたつもりはなかったのに、私が我に返った途端、限界だったかのように盾が解かれる。
 二度三度、詰めていた呼吸を繰り返してやっと、間に合った、という自覚が胸に押し寄せてきた。
「イズ」
 確かめるような、いつも通りのような、声が私を呼ぶ。初めてその顔を見るような、いつも通りのような、かすかな緊張と共に振り返れば、起き上がった師匠が灰の中から拳銃を拾い上げて、ニイと笑った。
「今日は観戦モードかと思ったぜ」
「……そんなワケないでしょう。戦いますよ?」
 傍に落ちていた帽子を拾い上げて、私も答える。
「――だってあたし、魔法使いですから」
 灰をはたいた黒い帽子を目深に被って、私は笑った。師匠の唇に刻まれた、三日月が深くなる。
 自分が何者であるのかなんて、頭で考えるまでもなく、私の心と体はとっくにそれを知っていた。護りたいものを護るために、息をするように魔法を使った。その力が自分にあることを、確信していた。
(私は、)
 力には、力を。戦う強さを。命を、誇りを、希望を、今このときを――手荒くても美しくなくてもいい、奪おうとする力から、護る力を。戦うための魔法を、こんなにも渇望している。
 私は、アストラグスの魔法使いだ。
「そうやって魔法に頼る気持ちが、どれほど脆く危険なことか。自分が何のために創られたのか……お前は知ったはずなのに、それでも、そちらを選ぶというのかい」
「テイラー」
「もはや私を父と呼ぶ気も、なさそうな顔だね。私がいなければ、イズ、お前は大した力を持たない、無力な一人間に過ぎなかったのに」
 祭壇の上に立ち、腕に切った白衣を巻きつけていたテイラーが口を開く。私が睨み据えると、残念だと言いたげにため息をついた。
「反抗心を育てるために、魔法使いに預けたのではなかったんだけどねえ。多くを学ばせようなんて欲をかかず、孤児院にいる間に、迎えに行くべきだったか」
 ぎゅっと、白衣の片側を噛んで片側を手に持ち、右腕を肘の下で結んだ。見ればそれなりの傷を負ったようだ。薬か何かで出血はすでに収まりつつあるが、白衣には赤い痕が目立った。

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