フラインフェルテ・完結編U
何のために――とは、問うまでもなかった。
シャツを脱ぎ、自由になった手で包帯を外す。まだ生々しい傷の色にベリルは一瞬顔を顰めたが、キーツは構わず軟膏を塗り、ガーゼを取ってくれるよう頼んだ。
「ずいぶんいい薬を使ってるね。売られてるものじゃないようだが」
テープを切ったベリルが、ふと軟膏に含まれている微量の魔力に気づいて言う。
「持たされてんだよ、最近」
「そうか。良い弟子を持ったな」
「ただの生意気盛りだぜ?」
ベリルが腕を組んで、鼻で笑う。どの口が、と言葉にせずとも通じる会話に軽く笑い返して、キーツはシャツをはおり、コートに袖を通した。
「行ってくる。……ありがとな」
ベリルは答えない。無言で、自分は何も知らないというように、ひらりと手を振って送り出した。
地下への階段は、崩れかかった廊下の突き当たりにある。キーツは倒れた局員を跨いで周囲を確認し、一直線に走りだした。
その泡は、深い水の底から昇ってくる。深い、私の足よりもずっと深い、私が生まれる前の場所から。微睡みの中でやってきた何度目かの覚醒に、今は一体、あれから何日が経ったところだろうと考える。私はまだ、緑の水槽で、漬けられた標本のようにまっすぐに浮かんでいた。
手も足も、自分のものなのに、まるで感覚が切り離されたように動かない。何に縛られているわけでもないのに、両手を天に、両足を地に向けて伸ばしたまま、水の巡りに合わせてケープがゆったりと舞うのを見ているだけだ。つ、と指先に神経を集中させたが、この水に遮断されているのか、魔法が使える気配はなかった。
ごぼりと、またひとつ、意識の根底から大きな泡が昇ってくる。
(私は――……)
よみがえる記憶は、テイラーのものと私のものが入り乱れている。これはテイラーのものだ。お腹の大きな、一人の女性が日溜りの部屋に腰かけている情景に、私の意識はまた深く呑まれていった。
母の名前は、セフィーナ・ファントム。スーイ村の農家で育った一人娘。美人だったが引っ込み思案で、小さな村での婚期を逃し、両親と共に慎ましい暮らしをしていた。父の名前はテイラー・ファントム。本当の名をウィリアム・オーキッドというが、母と出会ったときにはもうテイラーを名乗っていた。
ふらりとやってきて住み着いた父と、母は遅い結婚をした。旅人だったという父の話は、いつも奇想天外で、母を飽きさせなかった。母は、父の素性を知らなかった。過去の名前や旅の経緯だけでなく、父がどんな人物であるかについて、本当のことをほとんど知らないまま、流れに押されて結婚した。
――セフィーナ、お茶が入ったよ。
情景の中で、父が語りかける。母がありがとうと微笑んで、カップを受け取る。結婚して一年、身ごもった母に父が毎日淹れ続けたお茶には、とある薬が混ぜられていた。
数種の魔物の鱗や爪、それらの粉末や血液から作りだした、父の手製の薬だ。
父はそうして、母体に毎日少しずつ薬を与えることで、胎児に魔物の力を落としこんでいった。
その胎児こそが、後に私となる。
父は私の誕生に歓喜し、物心つく歳まで大切に育てた。そうして私の、心――喜びや悲しみ、そして恐怖――がしっかりと目を覚ました頃、実験を次なる段階へと移行すべく、再びあのお茶を母に与え始めた。
母は懐かしいお茶を疑いなく飲んだ。二人目を望める歳ではなくなっていたが、そのお茶を口にしていると、神様の気まぐれがまた赤ん坊を授けてくれるような気もしないではなかった。その感情は、魔物の血を飲んだことによる一種の興奮作用だった。
母の希望と裏腹に、父は二人目を望んではいなかったので、母の身に子供が宿ることはなかった。胎児という行き場をなくした魔力は、母の体内に蓄積されていき、いつしか母はいつも上の空で、妙な艶っぽさを湛えた人になった。
それが、母という器に、魔力がなみなみと満ちた合図だった。
魔法植物を食らいに魔物たちがやってくるように、魔物は、魔力を湛えたものを食うことで、自らの力を増幅させる。硬い殻も鋭い牙も持たない、ただの人間の身でありながら、溢れるほどの魔力を持った母は、魔物たちにとって極上の餌だった。
父は、母という器を使って、スーイ村に魔物をおびき寄せたのだ。
そしてあの事件が起こる。母を狙って集まった魔物の数は数百体。それに対し一人だった母は、あっというまに骨さえ残らず食い尽くされた。幼い私が振り返ったときには、母は忽然と消えていた。代わりに、大きな翼を持った魔物が涎を垂らしながらこちらを見下ろしていて、村人の悲鳴が耳を劈いた。
母という餌につられてなだれ込んできた魔物たちは、しかしほとんどが母にありつけず、怒りに狂って村を襲い出した。魔力など持たない人間であっても、食べれば腹の足しにはなる。手当たり次第、という言葉の通り、彼らの通ったあとには男も女も、老人も子供も残らなかった。
逃げなさいと、誰かが私を突き飛ばした。その声の最後は、もはや悲鳴に変わっていた。私は我に返って走ったが、まだ本当に幼くて、世界のすべては自分の家とその庭くらいしか見えていなかった。
駆け込んだ家が、竜の爪でかき崩される。テーブルが前足に押しつぶされ、クロスが燃えて床に落ちた。芯に火をさした琥珀のような目が私を捉え、呼吸のたびに火を吹く口が、一直線に向かってくる。
恐怖に目を瞑って、両手を前へ突き出したとき。体の奥で何かが爆発するような感覚があって、私は意識を失った。
(……アイギス)
ごぼ、と昇っていく泡を薄目で見送りながら、私はぼんやりとその力の名を思う。絶望に焚きつけられた心が、あのとき初めて、自らの中に眠っている力を解放させた。魔法というものを、私が初めて使った瞬間だ。
父は私の力を目覚めさせるために、スーイ村の事件を引き起こしたのだ。事の顛末を見守るように、魔物よけの薬を身につけ、霧を吐き出す魔物の成分から作った結界で村を覆い、一部始終を傍観していたが、私がアイギスを放った瞬間の強い光に巻き込まれて、物陰で意識を失った。
私はやがて目を覚まし、到着した魔法使いによって救助された。誰もが諦めかけていた生存者がいたとして、魔法使いたちは奇跡のように湧き立ち、私は彼らに連れて行かれることになった。
父はその騒動に紛れて、ひとり村を離れた。その胸に沸々と滾っている感情が、記憶が、私の脳に熱湯の如く流れ込んでくる。
(なんということだろう! 実験は成功だ。素晴らしい、予想以上の出来栄えだ! 夢か、幻のようだ!)
ガキン、と響いた音が、自分が歯を噛みしめた音だったと気づいて、私はかぶりを振った。
(なにが成功だ、なにが夢だ! あんなに、あんなに惨い出来事が何もかも)
父の歓喜と、私の絶望が、頭の奥で激しくぶつかりあって砕ける。高熱にうなされたように、目の前が歪んでいる。それが涙なのか、他者の記憶を無理矢理に流し込まれて起こっている頭痛のせいなのかは分からない。
ただ、父の喜びを追い出したい一心で、心の底から叫んだ。
(何もかも、私を創るための実験だったっていうの!)
バキンと、何かの壊れる音が聞こえた。
瞼の裏が真っ白に染まる。視神経が狂ったような眩しさに、死んだのかと思った次の瞬間、水がどっと背中を押して水槽から溢れた。肩や膝でガラスを破って、私は宙に放り出された。
その体を、光の中から伸びてきた手が、強く掴んだ。
「――イズ!」
「はっ、う……、げほっ」
空気が急激に、体の中心へ入ってくる。息を吸って、吐いて、という行為を忘れかけていた私は、喉が擦り切れそうな勢いで噎せて、しばらく口を利けなかった。
ようやく落ち着いてきたときには、記憶に取り巻かれてぼんやりしていた頭にも、酸素が回ってきていた。は、は、と浅い呼吸を繰り返しながら、顔を上げる。
無事だったのか、と安堵が胸に広がった。
赤毛の奥から私を見下ろす、見慣れた目が、そこにあった。
「し、しょう」
「ああ。捜しにきたぜ」
「あたしの、父の……、テイラー・ファントムの」
「ん?」
「あの人の、本当の名前は、ウィリアム・オーキッド……っ」
どうやってここに辿り着いたのか、だとか、あれから何があったのか、だとか。訊きたいことは山のようにあったけれど、何よりも先に、伝えなくてはならないと思った。
髪の先からぽたぽたと、緑の羊水が落ちる。私が水槽の中で見た、父の記憶について。この人に伝えなくてはと、震える手で師匠のコートを掴んだ。
「ウィリアム・オーキッド?」
師匠がふと、記憶を手繰る顔をする。私は頷いて、呼吸を整え、一息に捲し立てた。
「昔、中央の科学局に所属していた科学者です。魔法使いでもあって、魔物の研究をしていました」
師匠の目が、はっと見開かれた。科学者としても魔法使いとしても、それなりに経歴のある存在だったようだ。どこかで見たか、聞いたかしたことのある名前だったのだろう。痛む喉に手を当てて、私は続けた。
「父はあるとき、実験の失敗から魔力を失い、魔法を使うことができなくなりました。その結果、科学者にして魔法使いという肩書きの半分をなくし、中央に居場所を見つけられなくなって」
「……失踪した、天才科学者」
「そうです。その、ウィリアム・オーキッドです」
肩を掴む師匠の手に、力がこもる。事実だ、と訴えるように、私は逸らさずその目を見つめた。
父は中央から行方を眩ませた後、研究を重ねながら各地を旅し、旅の過程で何度も名前を変えた。自分自身を実験の材料にすることもあり、目は深く落ち窪み、肉づきのよかった体は痩せて、人相もずいぶんと変化していった。
けれどどんなに実験を繰り返しても、父の身に魔力が戻ってくることはなかった。一市民となった父は、魔物が出れば逃げ惑い、魔法使いが倒すのを黙って見ていることしかできなかった。研究の素材すら自力での入手は困難を極め、闇市で法外な金を払って買ったり、市井の魔法使いと交渉して内密に恵んでもらったりするしかなかった。
どこに行っても無力な思いをしながら暮らすうち、次第に父の研究は変わっていった。自身に魔力を取り戻すことは諦め始め、代わりに、自由に行使できる魔法使いを作りたいと思うようになった。生まれながらに魔法を持ち、それを扱う魔法使いたちに遜色のない存在を。あるいは、魔法使いを越える――新しい存在を。
その存在によって、自分はアストラグスに革命をもたらすのだ。七賢を平伏させ、自分を「実験に失敗した無能」呼ばわりした中央を跪かせるとき、そこにはようやく失われた椅子が浮かび上がり、あてどない旅を終えることができる。
かくして父は、名を〈テイラー・ファントム〉と改め、アストラグスへ戻った。彼をウィリアム・オーキッドと思う者は一人もおらず、研究に打ち込める静かな地を求めて放浪し、やがてスーイ村に根を下ろした。
「そこで創られたのが、あたしです。母を騙し、村を騙し、魔法使いを騙して――父はあたしが魔法使いとして目覚めるために、わざと魔物を呼び寄せ、襲撃事件を起こしました。そしてあたしを、魔法使いに拾わせ、育てさせることで、魔法の扱いに充分慣れさせて」
「……ああ」
「今、完成品になったあたしを迎えに来ました。大量生産するための、型紙として」
生まれたときから今日までずっと、私は、父の望む道具になるために育ってきたのだ。露ほども知らないで、勉強して、食事をして、戦って、生きて、大切なものを見つけたり、将来に悩んだりして、馬鹿みたいだ。そんな人間ごっこは、父を喜ばせるだけだったのに。私は父が創れなかった心を、これから生まれるたくさんの私に与えるためだけに、この世界に放されていたのだ。
「お願いします。父を止めてください」
コートを掴んだ手に力をこめて、私は師匠に頭を下げた。
「イズ……」
「あの人を放っておいたら、スーイ村のようなことが、たくさん起きてしまう。一人では危険です。どうか、討伐隊の……他の人たちと協力して、あの人をこれ以上、自由にさせないでください」
それと、もう一人の〈私〉のことも。
懇願の最後に、つけ加えるようにそう言えば、師匠は苦々しい表情になった。その顔を見て、ああ知っているんだな、と察した。この人が〈人間〉イズ・ファントムではなく、〈武器〉イズ・ファントムにもう会ったというのなら、話は早い。
テイラーはただの人間だが、アイギスの能力をもって中央に敵対する私と戦えるのは、おそらく師匠くらいのものだ。師匠と戦ったことは練習でさえ一度もないが、この人ならば一瞬の隙をついて、私を殺してくれると思う。
きっと大丈夫だ。
我知らず笑った私に、師匠は深く息を吐いて、答えた。
「分かった」
「ありが……」
「だが、イズ。俺にそれを頼んで、お前はどうする気だ?」
問いかけに、え、とまばたきをする。私の目の中で、師匠は一切の表情も変えることなく、私の返事を待って佇んでいる。
(私は、どうする?)
頭の中が、窓ひとつない真っ白な部屋のように、何も思い描くことができなかった。どうする、と言われても、どんなビジョンも浮かばなかった。
そうして初めて私は、ああそうか、と理解した。
何も思いつかなくて当たり前だ。なぜならそこに、私はいない。テイラーと戦う魔法使いたちの中にも、もう一人の私と相対する魔法使いたちの中にも、どこにもいない。
私はそのとき、この場所で、崩れた水槽と瓦礫の下に眠っているのだから。
「化け物は、消えるべきです」
私は無意識に、ここで死ぬ気でいたのだ。それもそうだ、と唇に笑みが浮かぶ。
私の言葉に、師匠の目がかすかに瞠られた。死ぬのなら、もうこんなふうに無理をして、誰かに縋ってまで立っている必要もない。私は師匠から手を離して、一歩、足を退いた。踵が砕けたガラスを踏んで鳴らす。足元がぐらついて、その場に膝をついて崩れた。
「バカ言うな」
追いかけるように、黒い片膝が床につく。
「んなこと言わすために助けにきたんじゃねェことくらい、分かるだろ。大体、お前はいつも卑屈で――」
「師匠には分からない!」
遮る言葉が口をついて出て、はっとしたときにはもう遅かった。喉を通り抜けていった自分の声の、大きさに唖然とする。顔を上げさせようとするように伸びてきていた師匠の手が、宙に止まっていた。水滴がひとつ、床に落ちる。緑の水滴にまじった透明なそれは、ひどく目立って見えて、脚で隠した。
それすら捉える視線が、今は苛立たしく、刺さるように痛い。数日前までその隣にいたことが、今は信じられない。魔法使いになるべくして生まれてきたような、輝かしい存在。不純物だらけのガラス玉とは、硬度も光の強さも、何もかもが違う。