フラインフェルテ・完結編T

 どこまでも続く長い廊下を、ひっきりなしに音が通っていく。慌ただしい足音、声、カートにつけられた車輪の走る音。
 どれも、襲撃の日から響き始めた音だ。見えない恐怖に追い立てられて、中央はどこもかしこも、異様な熱気に包まれている。目や腕や足に包帯を巻いた局員たちが、怒声を張り上げながら荷物を運ぶ様は戦争のようだ。誰も彼も、そんな力はどこにも残っていないように見える者たちが、擦り切れた殺気をまとって建物を往来している。
 恐怖に潰れかけた人間は、時に、異様な興奮をもって自らを奮い立たせようとする。
 ふう、と静かに息を吐いたとき、背後でドアが開いて、揃いの正装に身を包んだ七人の賢者が部屋に入ってきた。
「被害は甚大だ」
 開口一番、ドートが告げる。
「お前たちも見てきたと思うが、北棟は全域が倒壊。地下だけはどうにか形を留めているが、地上二階まではもはや石と鉄の残骸だ。南棟は外観こそ無事に見えるが、割れていない窓、荒らされていない部屋のほうが少ない。局員たちの居住階はほぼ壊滅だ。我々の居住塔も、北と南、二つの棟に囲まれていたおかげで被害は比較的少なかったが、生活ができる状態の部屋は全体の半数ほどだ」
 分厚い紙の束が、局員の手で配られていく。現段階で分かっている被害の状況をまとめたものだろう。目の前に置かれた一束を手に取って、キーツはざっと紙面に目を通した。
 病室からここまで歩いてくる間に、廊下から見える景色は一通り眺めてきたが、酷いものだ。詳細はまだ自分の足で確かめてはいない。何せ、目を覚ましたのが一昨日の話である。
(五日間か……)
 書面に記された襲撃の日づけを睨んで、眉間に皺を寄せた。自分がルミール教会で何者かに襲われ、意識を失ったのが同日、襲撃の一時間ほど前。
 目を開けたときには中央に運ばれ、病室のベッドに寝かされていた。左の腹に魔法傷が一つ。それ以外に大きな怪我はなかった。傷は深いが急所を外していた、出血が多く一時は危険な状態だったがどうにか命拾いしたと説明を受けた。他に肩の打撲、左手の指先など、いくつかの怪我はあったが、それらは眠っている間にほとんど回復したらしい。
 三日間、自分が意識をなくして、この世界から隔絶されていた間に、ずいぶんと状況が動いている。ドートが書面を読み上げる声を耳に入れながら、キーツは辺りに並んだ討伐隊の面々を眺め、まだ数名が復帰できる状態にないことを悟った。
「中央を襲撃した、未知の生物についてだが」
 七賢の一人、ロゼムがドートに代わって口を開く。
「科学局が死骸を分析した結果、多数の魔物の成分、魔力、人間のものと思われる遺伝子が含まれていることが分かった。ルミール教会にアランがいたことからしても、これらの生物は錬金に関係があると思われる。複数の遺伝子から生成された、キメラと呼ぶに相応しい」
 資料を捲る音が、一斉に響いた。
「キメラは人型をしているが、影のような黒ずんだ体で口はなく、目だけが白く穴のように光っている。共通しているのは、植物型の魔物の影響を受けており、手足が伸縮自在であること。個体差があるのは、魔法の心得だ。魔法を放つものもいれば、まったく扱わないものもいる。扱う魔法はさほど質の高いものではないが、様々な魔物の影響が絡んでいるせいで、同じ見た目をしているくせに個体によって使ってくる魔法が違う。どんな攻撃が向かってくるか推測ができず、対処が難しい」
 一例として、長く伸びた腕から火を放つもの、つる草のように足を伸ばして人を絡め取るもの、などが記されていた。一体一体は脆く、討伐隊クラスの魔法を受ければ、一撃で動きは止まるという。
 恐るべきは、その数と攻撃の多様性だ。そして心がないから、死を恐れることなく、先導者の命に従って行動する。
 その、先導者となっていた存在が。
「イズ・ファントムは中央への襲撃後、キメラの生き残りを率いて姿を消した。わずか一時間あまりの間に、我々の攻撃を跳ね除け、たった一人で三名の討伐隊と百名あまりの局員を戦闘不能にした。これはキメラ二、三百体を優に越える戦闘力だ」
 愛想のない、赤紫の目が四角い写真の中でこちらを見ている。
 キーツの手に、我知らず力が入った。紙に皺が寄り、〈首謀者〉という文字の下にあるイズの顔が、斜めに歪む。
「追ってルミール教会へと向かい、キーツ・グラッセを発見したが、首謀者二名の行方は現在も捜索中だ。あちらが損害を回復し、次の手を打ってくる前に、できる限り情報を集めておかなくてはならない。画像を見てくれ。イズ・ファントムと行動を共にしていた男の顔を、殺された局員の記憶から描き出すことができた。それが隣に載っているテイラー・ファントム……彼女の父親だ」
「十三年前、あのスーイ村から一人で姿を消したっていう?」
 若い魔法使いが驚いたように声を上げる。ロゼムはそうだと、深く頷いた。
「我々はずっと、テイラーが生きていると確信を持ち、その存在を探し続けてきた。スーイ村の事件は、不審な点が多すぎる。救援要請の遅れ、近隣に出没した事例のない大型の魔物の群れ、餌となる人間の数を遥かに上回っていた魔物の数など、他に類似する例のない……いわば、処理は済んだとされているものの、今も未解決の事件だ。知っているな?」
「はい」
「そんな事件の唯一の生存者が、後の〈アイギス〉ことイズ・ファントムであり、唯一の行方不明者がテイラー・ファントムだ。アイギスが生存していたことは理解できるとして、何の力も持たない農民だったというテイラーが、あの場を脱したことには何か裏があると疑わざるをえない」
 ロゼムの声にはだんだんと、確信を持った高まりが込められていった。スーイ村の事件は、市民から魔法使いへの信用を失墜させた、有名な事件だ。近郊にいるはずの魔法使いたちは襲撃に気づかず、気づいたときには手遅れで、討伐隊を呼ばねば手出しのできない状態だった。サジとハキーカ、二人が五十人余りの魔法使いを率いて鎮圧したが、村はすでに息を引き取っていた。
 アストラグスにおける魔法使いと魔物の歴史に、小さな黒い染みとなって残り続けていた事件が、十三年の時を経て七賢みずからの手で掘り起こされている。ごくりと、誰かが固唾を呑んだ。ロゼムの鋭い眼光が、討伐隊を一瞥した。
「テイラー・ファントムは危険な存在だ。そして今、実子イズ・ファントムもまた、テイラーの持つ何かしらの思想に侵され、師を害し中央を襲い、我々に敵対する存在となった」
 最後の資料をめくる音は、もはや聞こえてこない。読まなくても、誰もが今回の任務の内容を察知していた。
「よって本日付で、テイラー・ファントム及びイズ・ファントム、こちらの二名の討伐令を下す」
 ランクは白金。手段も生死も問わない。予想通りの文言が並んだ最後の一枚が、ロゼムの言葉を追うように所々でめくられ始め、室内に雨のような音を立てた。
「討伐隊に関する約定、第三十九条」
 その音が、部屋の奥から上がった声にぴたりと止む。
 背凭れの欠けた椅子の上で脚を組み、脇腹を刺した痛みに顔を顰めながら、正面のロゼムを見据えてキーツが口を開いた。
「討伐隊に属する魔法使いの弟子へは、師である者の許可をなくしては、中央も如何なる処罰をくわえてはならない」
「同第五十条。尚、以上の約定は非常の場合、七賢全員の審議によって適用、否適用の判断をする。――君の弟子が起こしたこの状況が、非常ではないとでも言うつもりか?」
「あれはイズじゃねえ!」
 握りしめた拳が、テーブルを叩く。びりびりと空気を震わす叫びに、数人の魔法使いの顔に緊張が走った。
「何度も言ってんだろ……あれはイズじゃねえ。勝手に〈イズ・ファントム〉なんて呼んでんじゃねェよ」
「まだ言っているのか。弟子の裏切りを認めたくない気持ちは理解できるが、どう見ても君の弟子だったと言っているだろう。落ち着いたようだから会議に出せると判断したのだが、早かったようだな」
「人を精神患者みてえに言うな。俺は妄想じゃなく、事実の話をしてんだよ。てめえがなんて言おうと、あれはイズじゃない」
「ならば、一体何者だったと説明する気だ!」
 ロゼムが一喝するように、資料をテーブルに叩きつけて立ち上がる。それは、と言い返しかけて、キーツはまた痛みに顔を顰めた。隣に座ったサジが伸ばした手を、苛立たしげに振り払う。
 ロゼムはキーツの様子をしばし探るように見つめて、静かに腰を下ろした。
「我々は君の安否を確認すべく、襲撃の最中にテノア・ジンをルミール教会へ向かわせている。しかし人体反応が認識できたのは、君一人。イズ・ファントムは教会及び、その周辺にはいなかった。同刻、中央で暴れまわっていたのが彼女だという証拠ではないか」
「探査の魔法で探っただけだろ。教会の内部はどの程度調べたんだ」
「テノアの探査が人間を見落としたことはない。生者であっても死者であってもだ。あの場所には君しか残っていなかった」
「だったら、どこか別の場所にいた可能性はッ!」
「今は君の弟子一人の捜索に、国を挙げて乗り出している場合ではない! そもそもだ、キーツ。中央にやってきた少女は、姿も声も、扱う魔法の特性すらも、イズ・ファントムそのものだった。これを別人とする君には、直感しか言い分がない。君は何を以って、イズ・ファントムであるか、そうでないかを断言する? それとも君は――」
 すっと、ロゼムの声音に人の隙間をこじ開けようとする蛇の音が混じった。
「イズ・ファントムは二人いる、とでも言いたいのかね?」

 ガン、と蹴り飛ばされた点滴の架台が壁に当たって倒れる。薬剤が床に落ち、管が外れて堰を切ったように流れた。
 広がっていく透明の水溜りには目もくれず、キーツは重々しい手錠を鳴らしてベッドに身を投げ出した。薬品の染みと匂いが繊維の芯まで染み込んだベッドは、病的なまでに白で統一されて、だからこそ一点の血や汚れがひどく鮮烈なものに見える。
 またここに押し込められてしまった。キーツは閉め切られたドアの外に立つ局員の気配に舌打ちをして、天井を見つめた。染みや漆喰の凹凸の中に、ロゼムの顔が浮かび上がってくる。
 ――イズ・ファントムは二人いる、とでも言いたいのかね?
 ロゼムの最後の問いかけが、頭の奥を回り続けていた。キーツはその問いに、答えることができなかった。分からないからではなく、答えるとすれば「その可能性がある」という返事になってしまうからだ。
 ――できたぞ。
 脳裏に、別の声がよみがえってくる。
 ――照合率は、三十二パーセントだ。他にも色々な魔力が混じっているが……割合としては、かなり大きい。同率で何ものでもない力が存在している。恐らくこれが、彼女自身の、本来の魔力だろう。……僕が師ならば、魔法使いになることは勧めない。才能と認めるには、あまりに弱々しい力だ。
 神孵りの一室で、小瓶の蓋を閉めながら、白銀の魔法使いはそう言ってかすかに表情を歪めた。あのとき照合してもらった鐘楼魚の鱗は、アストラグスに戻ってすぐ、誰の目にもつかないうちに燃やした。
 イズの中には、人間のものではない魔力が存在している。
 それがどういった方法で付与されたものかは知らないが、その付与にテイラーが関わっている。キーツは夜会にテイラーが現れたことと、神孵りでの魔力の照合でその確信を得たが、自らの内のみで握り潰し、七賢への報告はしなかった。
 それは、イズがテイラーの研究の産物であると証明する事実に他ならないからだ。
 七賢は以前から、イズの存在を警戒していた。マーロウが内密に告げたことがある。もしもあの日、キーツがイズを弟子にしていなかったら、イズは近日中に中央で預かって監視下に置く予定だったと。
 あの凄惨なスーイ村の事件をたった一人で生き延びるなんて普通ではない、徹底的な調査をすべきだという者と、年端もいかない子供に過酷な事件を思い出させるのかという者と、七賢の中でも真っ向から意見が割れて結論がまとまらずにいたらしい。ちょうどそのとき、ふらりと通りかかったキーツが、渦中のイズをそうとは知らず弟子に取った。
 以来、中央に赴くたびに何かと探りを入れられ続けてきたが、至って普通の生意気な弟子だと、世間話としてはぐらかしてきた。キーツが「問題ない」と言い続けている以上、中央はイズに対して、無闇に手出しはできない。裏を返せば、キーツが一言でも「問題がある」と認めてしまえば、中央はたちまちイズに調査や処罰を決行する力を持つ。
 イズ・ファントムが二人いるなどという可能性を提示することは、本物のイズの捜索に乗り出す理由ができると同時に、イズに関する問題を認め、すべての決定権を中央に差し出す行為だ。それだけは避けなくてはならない。
(今、どこにいる)
 キーツは宙を睨み、静かに起き上がった。ベッドの脇にかけてあるコートのポケットを両手で探り、軟膏の入った瓶を取り出す。手錠のせいで思うように動けず、蓋を口で開けた。薬草の澄んだ匂いが鼻をつく。
 魔法で受けた傷には、魔法植物を使った薬がよく効く。
 シャツをめくって、包帯をどう緩めようか格闘していたとき、ドアの外に高らかなヒールの音が近づいてきた。
 立ち止まって、一言。女の声が見張りの局員たちに何か言ったのが聞こえて、顔を上げる。次の瞬間には呻き声が二つ聞こえ、人の倒れる気配がした。
「殺風景な部屋だね」
 ノックもなしにドアが開けられる。入ってきた女の顔を見て、驚きと、やっぱりあんたか、という気持ちが同時に湧いた。
「ベリル」
「師に向かって呼び捨てとは、お前は相変わらずだこと。手を挙げな。動くんじゃないよ」
 両腕を頭上に伸ばすと、パキパキという音がして手錠が氷に包まれた。そのまま砕けて、粉々になって落ちる。
 魔法を封じる手錠だ。キーツは自由になった両手で膝に散らばった金属片をはらって、正面に立ったベリルを見上げた。
「どういうつもりだ?」
「見ての通りさ。お前を自由にしてやろうかと思ってね」
「バレたらどうする気だ。あんた、反逆罪だぞ」
「じゃあ、ずっとここで寝てるかい?」
 深紅の髪に埋もれた深い緑の隻眼が、すいと細められる。黒い手袋に包まれた骨のような手が、手錠の欠片を握り潰して、ふと笑った。
「マーロウからの伝言だよ。地下通路北側の局員は仲間だ。脱出の際は、無用な犠牲は出さずに頼む。今は動ける人間が貴重だからね」
「は……?」
「地下に着いたらサジの背中を追って歩きなさい。前方に誰かいる場合は、曲がり角で踵を一度、鳴らす。それが合図だ」
 疑いようのない言葉の数々に、キーツが息を呑む。ベリルは自分を、中央から脱出させようとしているのだ。マーロウもサジも、それに加担している。

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