フラインフェルテ・ルミール教会編U

 攻撃にも防御にも突破口が見えない状況で、巨躯の向こうに突き当りの小窓が見えた。あそこを割れば、一階まで下りることができる。どうにか師匠と合流して一旦退却すべきではないかと、私はアランが背中を向けた隙をついて駆け出した。そのとき。
「イヴニン・フロス――ンッ!?」
 小窓を目がけて伸ばしかけた腕が、黒い、影のようなものに捕まれる。同時に影のような手に口を押さえられて、詠唱が絶えた。
(なに……!?)
 教会の暗がりから滲み出た黒い塊のようなものが、私を隠すように、数体で覆い被さってきた。人間のようだが関節のない、変幻自在に巻きつく腕に絡まれて、私はなすすべもなく引き倒される。
 あっというまの出来事だった。我に返ったときには、私は一枚のドアに投げ込まれ、影たちは植物が根を引いていくようにしゅるしゅると離れて、ドアの外へと消えた。跳ね起きて、ノブに掴みかかる。鍵などないのに、施錠されているように固くて回らない。
「イヴニン・オーレル。我に開け」
 開錠の呪文を唱えてみたが、静電気のような抵抗と共に弾かれた。魔法を封じる何かが施されているようだ。二度、三度、力づくで引いてみたがびくともしない。ぎ、と奥歯を噛みしめて、私は戦闘の揺れが響いてくるドアに背中を向けた。
「イヴニン・フレイル」
 室内をぐるりと見渡し、壁に沿って並んだ本棚やラック、すべてに火をつける。灰燼と化すほどの温度は出せない。でも、どうにか焼き尽くすと、端の本棚の裏に隠し扉が見えた。こちらは開錠が効いたので、崩れた本棚を踏み分けて、ドアを押し開ける。
「っ、と……!」
 一歩、足を踏み出そうとして、危うく転落するところだった。そこは急な階段になっていて、真っ暗で先が見えなかった。ふ、と指先に明かりを灯して慎重に下りる。冷たい金属の階段は、どんなに忍ばせても足音が響いた。
(ここで折り返し。ということは、地下に続いてる)
 一階に出るのかと思ったが、そのようなドアはなく、階段は小さな踊り場で折れ曲がってさらに下へ続いた。その細さと勾配の急さから、もしかしたら柱廊に並んでいた柱の一本の中を通っているのではないかと勘付く。勘は正しかったようで、灯りを近づけて手を伸ばすと、壁の内側は柱と同じ素材の石でできていた。柱が地下から一階まで貫いていて、内側に階段を持っているのだ。
(隠し扉に隠し階段。やっぱりここは、最初から研究施設にするつもりで……)
 こつ、と爪先が最後の段を下りた。ドアを開けると、灯りのついた立派な廊下が浮かび上がる。廊下には両側にドアが並んでいた。私は用心しながら、片っ端から開けていった。
 最初の二部屋は応接間、次の二部屋は鍵がかかっているが表札を見る限りではこの教会の主の私室。さらに奥へ行くと書庫、そして物置、何かの実験室など、だんだんと雑多になっていく。
 そして突き当りに、一際大きな白いドアがあった。これまでのドアは焦げ茶色の落ち着いた色だったのに対し、ここだけ白くぽっかりと、まるで光が漏れているように明るい。汚れ一つないそのドアは、消毒液の匂いに似た潔癖さがあった。ここにある。頭の奥で、直感がそう騒いでいる。
 ここだ。この奥に、あの緑の水槽がある。
 確信に近い予感を胸に、私は思い切って、ドアを開けた。
「な……」
 目の前に拓けた嘘のような景色に、息を呑む。
 そこには確かにあった。アランの邸で見たものと同じ、こぽこぽと泡を昇らせる緑の液体に満ちた水槽があった。
 純白の、円形の巨大な部屋で、壁に作りつけられた純白の棚に整然と並んだ薬剤と、溢れんばかりの書類やノートに囲まれて、仄かな光を放つように燦然と佇んでいる。
 その中に、私が。
 胎児のように膝を丸めて、こちらを向いて目を瞑っている、イズ・ファントムそっくりの人間が入っていた。
「なん、で……」
 駆け寄って、その人体を細部まで確かめる。水に揺れる銀の髪、睫毛の長さ、耳、痩せた肩、緩急のない蝋燭のような細い体、手の爪、足の爪の形に至るまで、何もかもが私と同じだ。否、私だ。頭の中が真っ白に焼けてしまって、ただ愕然と、そこにいる〈もう一人の私〉を見上げることしかできない。
 つ、とガラスの表面に指を添えたとき、背後でドアの閉まる音が聞こえた。
「よくできているだろう? 自分を外側から眺めた感想はどうだい」
「っ!」
「ああ、やっぱりお前は、目が開いたほうが綺麗だね。母さんと同じだ。肌も髪も白くて、眠っていると、生きているのか死んでいるのか区別がつかない」
 純白のドアを背に、白衣をはおった男がにこっと目を細める。
 銀縁の眼鏡、痩せ型の体、グレーの髪。誰、と問うより早く、あのときの、という言葉が口から出ていた。
「貴方、マーケットで会った……」
「そう、来てくれると思っていたよ。本当は一人で訊ねてきてくれたら、一番よかったんだけれど」
「一人ですよ」
「嘘はいけないね。アランと遊んでくれているのは、討伐隊のキーツ・グラッセだったかな。本当はもっと早く迎えに行きたかったのに、いや、苦労したよ。彼はなかなか用心深くてね、意外とお前を一人にしない。結局ここまでやってきて」
 おかげさまで二階が台無しだよ。さしたることでもなさそうに、へらりと笑って男は言う。アランの邸よりもずっと濃いのに、ずっと研ぎ澄まされた潔癖な薬品の匂いが充満する部屋を見回して、私は男の目を見据えた。
「あたしに、何の用です?」
 こんな精巧なレプリカを作ってみせたり、あまつさえずっとここに招きたかったようなことを言ったり。異常としか思えない。私はこの男に執着を向けられる理由がない。目的は何だ、と見透かすように睨むと、男は両手を上げて降参のポーズを取った。
「そう睨まないでくれよ。せっかくの再会なんだ。昔みたいに〈パパ〉と、笑ってみせておくれ」
「え……?」
 思いもよらない言葉に、頭の中から言葉が飛ぶ。
 私の父は死んだはずだ。一体何を言って、と戸惑っていると、男がまっすぐ、私に向かって歩いてきた。
「もう覚えていないか、お前は小さかったからね。私の顔を忘れてしまっても無理はない」
「何の話、で」
「私はテイラー・ファントム。十七年前、お前を作った、父親だよ」
 懐かしい名前が、男の声で紡がれたとき、私の中に堰をきって溢れるものがあった。ずっと止められていた川を逆流する水のような、怒涛の郷愁が。その奔流の、胸を叩く強さに息の仕方を忘れ、ぐっと噎せ返る。
「お前は私の最初にして最高の傑作だ、イズ」
「何言って……? どういうっ、けほ、意味です……」
「そのままさ。お前を目指して、もう一度お前のような存在を作ろうと思ったが、ほとんどが心のないただのホムンクルスか、アランのように人の形を失って、失敗ばかりだった。肉体と精神、これの両方を作るのは結構な難題でねえ」
「は……っ」
「十年以上かかって、ようやくもう一人、こうして用意できたわけだけれどね。それでもやはり、母体を経て生まれたお前に比べれば、圧倒的に心が足りていない。力は十分なのだけれど」
 どくどくと荒い鼓動を抑えるように、胸に手を当てて息を整えている私の横を通り抜けて、男はこつんと緑の水槽を叩いた。呼応するように、大きな泡がひとつ、水面へ昇っていく。
「だから私はね、お前のクローンを作ろうと思うんだ」
「え……?」
「何事も一から作るより、複製するほうが簡単だからね。画家は気が狂うほど悩みながら絵を描く。模写は悩まないが失敗はする。版画は悩まないし、失敗もしない。オリジナルと同じ素晴らしさを、何度だって生める」
 煤けた、ぼろぼろの革靴を履いている男だった。
 男が何か言っているのは分かっていたが、私は体の内を逆流し、胸を叩く〈何か〉に呼吸が乱れて、その顔をまともに見ることもできなくなっていた。喉が絞めつけられたように、ひゅうひゅうと鳴る。心臓が壊れたように暴れていた。足元が崩れていきそうな感覚がして、立っているだけで精一杯だった。
「苦しそうだね。やはり心が備わっていると、こういうときに拒絶があって厄介だけれども……」
 革靴が水槽のほうを向く。よいしょ、と屈んだ男がレバーのようなものを回し、頭上でキリキリと何かが巻き上げられる音が聞こえた。
「大丈夫。この水に触れれば、すべて思い出すだろう。なんたってこれは、お前の羊水だからね」
 困惑に、顔を上げる。さっきからいつまで、貴方は一体何を言っているんだと、声を上げて問い質したかった。断片的な言葉が頭の中を回っている。作った、生まれた、羊水、傑作。そんなわけの分からない話で、私をはぐらかせると思ったら大間違いだ。
 でも、顔を上げ、息苦しさに霞んだ目をまばたかせた私が見たものは、もう一人の私だった。
 開かれた水槽の縁を乗り越え、緑の水を滴らせて着地し、〈それ〉はゆっくりと瞼を持ち上げて、赤紫の目で私を射抜いた。
 鏡の中に映った像が、ふいに動き出したような。世界の反転する音が、聞こえた気がした。素足が冷たい床をぺたぺたと踏んでやってきて、細い指が私の、呼吸にあえぐ胸を静かに指差す。
「――――ッ!」
 私は、動けなかった。あ、と思ったときには、その唇が私の声で、魔法を紡いでいた。衝撃が胸から全身に広がっていく。骨が砕かれたように崩れ落ちた私を、男と私、二人の目が、ひとつは興味深く、ひとつは興味などないように見下ろした。
「生まれる前のことまでは、思い出せないだろうからねえ。分からないことがないように、僕の思い出も、少し入れてあるから」
 よいしょ、と男が私を担ぎ起こす。感情のない目で私たちを見つめた私が魔法を唱え、風が私の体を包んで、天井近くへと持ち上げた。緑の水面が、真下に揺れている。
「ああそうだ、これだけ教えておかないと」
 眼鏡を指で押し上げて、男がにこりと口角を上げた。
「僕の最初の名前は、ウィリアム・オーキッド」
 風が消える。見えない支えが失われた体が、その言葉を最後に、垂直に落下した。背中が水を破って、視界が明るい緑色に染まる。規則的に生まれる無数の泡と私の吐き出した泡が、遠ざかる水面に向かって上昇していく。
 ガチャン、と蓋が閉められて、そこにあった光が消えた。
 冷たい水が、喉の奥に入ってくる。
(師匠)
 ガラスのむこうで背中を向けて歩き出した私と、それを追うように踵を返した男を見て、頭の奥で届かない声を張り上げた。
(逃げて)
 ごぼりと、緑の水が脳まで回ってくる気配がした。

「ふー……」
 巨大な背中に開いた穴から、細い煙がのぼっている。焦げ臭い、生き物の焼ける臭い。煙草でも吸ってごまかさないと、吐き気がしそうだな、とキーツは思った。
 しかしながら、その前にイズを探さないとなるまい。
 アランとの攻防の最中、一瞬劣勢に追い込まれた隙に、イズが消えた。直前に何かを言っていたのは聞こえたのだが、魔法を使おうとしたのか、あるいは離脱するとかどこかへ回るとか、伝言だったのかは分からない。アランの咆哮がうるさくて聞き取れず、聞き返そうと思ったときにはいなくなっていた。
 結局、あれから戻ってきていない。雷の魔法を槍に変えて穴を開け、そこから追撃を叩きこむ方法で何とかアランを倒したが、だいぶ予想外の手間をかけさせられた。
「イズー?」
 銃をしまい、殴られた左肩をさすりながら、廊下を歩く。教会の中はアランと遭遇する前と同じようにしんとして、声が天井に吸い込まれていくようだ。
 突然、廊下の先で一枚のドアが開いた。
「うおっ」
 キーツはとっさに銃へと手を伸ばしたが、その手が引き金にかかることはなかった。
 ドアから出てきたイズが、ぱっと顔を上げ、キーツのほうを向いた。
「なんだ、んなトコにいたのか。何やってたんだよ」
 帽子を上げて、灰色の目で呆れたようにイズを見下ろす。
 大方、自分では邪魔になるだけだとでも思って、隠れてやり過ごすほうが足を引っ張らないと判断したのだろう。この弟子は時々そういうところがあって、任務でもわざと前線を離れるときがある。よく言えば自分の力を分かっていて、悪く言えば卑屈なのだ。
 仕方ねえな、とキーツは浅いため息をついた。
「なんか重要そうなモンとか、あったか?」
 肩が痛む。折れてはいないと思うが、と動かしてみて顔を顰めながら、キーツは訊ねた。イズは何も答えずに、近づいてくるキーツをまじまじと見上げている。
「イズ?」
 その赤紫の視線に、ふと、脳の片隅が焼けるような違和感を覚えたとき。
「ぐ……ッ!」
 ふいにその手がまっすぐに伸びて、尖った氷塊がキーツの左の腹を貫いた。
 視界に点々と、暗闇が滲み始める。倒れ、広がったコートの下から、深紅の血がみるみる床に広がった。
「もういいよ、パパ」
 抑揚のない、少女の声が呼びかける。イズの出てきたドアからもう一人、遅れて出てきた足を、キーツは濁った目の中に見つめた。
「ちゃんと倒したか。お前は優秀だね、イズ」
 男の声が、水を通して響いてきたように耳の奥で反響する。その足を掴んで、引き倒して、顔を確かめようとした。しかし数本の指がかすかに動いた以外は、どこも動かすことができなかった。
「さて、行くとしよう」
 男が背中を向ける。二つの靴音が、廊下を遠ざかっていく。待て、と食いしばった歯の奥から、濃い血の味がした。
 冷えていく指が、ぬるい血溜まりに飲みこまれる。キーツはぎりっと、真っ赤に染まった床に爪を立てたが、もはやその爪が剥がれるような痛みさえ、感じ取ることはできなかった。

 ジリリリリ、と頭の奥でベルが鳴る。はっと何もない場所に向かって顔を上げたサジに、ロイが「先生?」と首を傾げた。
 同じ刻、離れた場所でベリルもその音を聞いていた。私室で蟻の観察に耽っていたテノアも、森の中にある湖で水をかけあって遊んでいたグリーンエッグとブルーエッグも、レストランで意中のウェイターに話しかけていたディルモットも。アストラグスの国内に存在する、討伐隊のメンバー全員に、同じベルの音が響き渡っていた。
 それは警報だ。
 儀式や刑の執行、文化的な催し、あるいは教育のためにのみ魔法を扱うことを許されている七賢が、例外的に戦闘のための魔法を使うことを宣言する音だ。ベルが鳴り止んだ。同時に、七賢のクレーと思わしき声が、魔法使いたちの脳に直接流れ込んできた。
「緊急事態発生、緊急事態発生。中央が襲撃を受けている。繰り返す、緊急事態発生――」
 メッセージは、遅れて彼らの弟子にも届いた。ロイが愕然とした面持ちで、サジを見上げる。
「討伐隊に所属する者へ告ぐ。一分後に中央への転移を行う。各自、強制転移に備えて聞くように。未知の生物、数百体による襲撃を受けている。局員死亡者数、確認不能。北棟、倒壊の危険あり。生物群を率いる首謀者は、男一名、女一名。男はフードを被っており、姿、名前等不明」
 サジは静かに杖を取り、ロイの肩に手を置いた。ここで待っていなさい、と告げるように、力強く叩く。
「女はイズ・ファントム。討伐隊キーツ・グラッセの弟子にして、本日キーツと共に、ルミール教会の調査任務に向かっていた。尚、キーツ・グラッセの所在及び安否は不明。備えよ、転移五秒前。四、三、二、一、――――」

 淡い、眩しい光が揺れている。眩しすぎて見えない光の中に、どこまでも深い、先のない穴がある。ごぼ、と空気を吐きだすと、歪んで消えた。穴は水槽の内側についた泡だった。光は緑の水の反射が見せる、屈折した照明の白さだった。
 苦しくはなかった。胎内に眠っている子供のように、あるいは水中にいる魚のように、あるいはそのどちらものように。呼吸は不要で、しようと思えば可能で、自分が赤ん坊でも魚でもないことを思い出した一瞬だけ、錯覚のように苦しさに襲われるが、すぐにまた緑の水が脳を浸し、そんなことは忘れさせた。
(私は、)
 水面に昇りきった泡が、破裂する。円形の水槽の向こうに、世界は夢の中のごとく曖昧に歪んで広がっている。風景は脳になだれ込んでくる無数の情景に押し流されて、ここがどこで、自分が何をしていたのか、認識を取り返す隙さえない。
 イズ・ファントム。
 私は最後の糸にすがるように、自分の名前を噛みしめた。けれどそこにもまた、覆い被さってくる情景が、声が、ざわめきがある。
「おめでとう。ようやく会えた。私の命をかけた子供。誰もがお前を、畏れ、求め――魔法使いでさえもが――その力の前に脱帽し、いつか幻のように語るときがくるだろう。シー、イズ、ア、ファントムと。不可能を可能にした、私の人生の最高傑作!」
 視界に銀の髪が舞った。声を追い払うように振った頭が、すぐにまた、別の情景を流し始める。違う、と声を張り上げたくても出るのは泡ばかりで、永遠に続くスライドショーの中に放り込まれたまま、動くことさえできない。
(私は、全部)
 歪んだ視界の彼方に、テイラーと私の出ていったドアが、物も言わず閉ざされているのが見えた。
(全部、思い出してしまった)
 新たな情景が、脳を、そして瞼の裏を支配する。
 震え、張り詰めていた意識が、ぷつんと断たれる音が聞こえた気がした。



ルミール教会編/終


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