フラインフェルテ・ルミール教会編T
マーケットの中はぼんやりと黄色い電灯に照らされて、箱詰めにされたフレークや色とりどりの缶詰が、無機質なステンレスの棚に天井近くまで積み上げられていた。レストランやバーがひしめく繁華街と違って、パン屋や果物屋、本屋といった個人商店が多く並ぶこの一帯では、夕方になるとほとんどの店がシャッターを下ろす。街灯の少ない、暗い一本道で誘蛾灯のように光るマーケットは、通りすがりの常連客で今日も繁盛していた。お客たちは慣れた様子で、決して広くはない商品棚のあいだを、無言で身を躱しあって通り抜ける。
「なァ、まだ決まんねえのか」
「んー」
「ドレッシングなんざ、どれでも大差ねえだろ」
カートを押して通る子連れを、商品棚に肩をくっつけるようにして避け、師匠は面倒くさそうにポケットに手を突っ込んだ。そんなこと言ったって、と私は棚を眺める。
「いつものが売り切れなんだから、ちょっとくらい悩みますよー」
「ふうん」
「大体、こういうのうるさく言うのは師匠じゃないですかぁ。ったく、肉の丸焦げしか作れないくせに、ドレッシングとかソースとか変なトコ神経質で……」
「ちっと向こうの棚見てくる。このへんにいるだろ?」
遮るように言って、師匠は返事も待たずに背中を向けた。逃げたな、と後ろ姿を横目で睨んだものの、捕まえるのも億劫なので上の空に返事をする。師匠が一人で見に行くのなんて、どうせお酒の棚くらいなので、行き先は訊かない。そのうち瓶を抱えて戻ってくるだろう。
(あ、これなんかいいかな。値段も……まあこんなもんか)
師匠は、食へのこだわりはほとんどない。でも外食で済ませていた時期が長いせいか、良し悪しが分からないわけでもない。あまり安物で済ませると良い顔をしない。ちょうどよさそうな一本を見つけて、かごへ放り込んだ。
「あ……っ」
ばさばさと、後ろで物音がして思わず振り返る。
特売品としてワゴンで出されていた袋詰めのチョコレートが、いくつも床に散らばっていた。中年の男の人が一人、あたふたとしゃがみ込む。
「うっ」
チョコレートを拾おうとして、ワゴンに頭をぶつけ、小さく呻いた。衝撃でまたワゴンから、今度は反対側に積まれていたクラッカーが落ちる。
(どんくさ……)
手当たり次第に違うパッケージのものを集めては、ワゴンに戻そうとしてもたついている男を一瞥して、私は次の買い物を探そうとした。でも、なぜかその人が気になって、何度も振り返って見てしまう。
ため息をひとつ飲みこんで、私は大股に歩み寄り、男の前にしゃがんだ。細い、銀縁の眼鏡をかけた顔が、驚いたようにこちらを向く。
「あ、ありがとう」
「いいえ」
チョコレートの袋を拾い集めて押しつけるように渡すと、男は私の意図を察したように、それをワゴンに戻し始めた。チョコレートを任せ、クラッカーを拾う。あとひと箱、と手を伸ばそうとしたら、最後のひと箱は男が拾った。
「どうも、ごめんね。助かったよ」
私の腕から箱を拾い上げて、元通りに積み重ねていく。落ち着きを取り戻したのか、最初よりは幾分か、要領の悪さが見えなくなっていた。
「何かお礼になるものがあるといいんだけど」
「えっ」
「チョコレート……は、さっき食べちゃったんだっけ。キャンディ、も、ないか」
ポケットを探り始めた男に、私は焦って首を振った。何かをもらうほどのことをしたわけではない。いいです、と断って立ち去ろうとしたとき、男は「そうだ」と思い出したように鞄を開けた。
「これをあげよう」
「いえ、私は」
「いいから、遠慮しないで。君みたいないい子に読んでほしいんだ」
薄い、何かのパンフレットのようなものが押しつけられる。断ろうとしたが、男は頑として受け取らず、それじゃあまたと言って慌ただしく行ってしまった。
「……本気でいらなかったんですけどー……」
レジに向かって消えていく背中を見送って、小声でぼやく。一瞬、押し付け合いになるのが面倒くさい、と思ってしまったのが悪かった。つけ込むようにぐいっと渡されて、諦めて受け取ってしまったのは否めない。なんだろう、と適当に掴んでいたそれを、裏返してみた。
「ルミール教会?」
三つ折りの細い表紙に、立派な教会が描かれている。精緻なクロッキーと思われるそれの下には、活字で、こう記してあった。
〈神の力をすべての人に〉
まばたきをして、心の中で「うえ」と悪態をつく。どう見ても新興宗教のパンフレットではないか。魔物が多いという一般の市民にとっては過酷な土地柄か、アストラグスには結構、こういった宗教が多い。
(解決してるのは、神様じゃなくて魔法使いなんですけど)
それだけ、何かにすがって守られたい人が多いということか。その気持ちはほとんど分からないけれど、全く抱いたことがないとも言えないから、否定はしない。ふうん、と興味本位でパンフレットを広げながら目を通す。ふと、左下を見たとき、視線が止まった。
(これは……?)
見覚えのある写真が載せられていたのだ。緑の液体で満たされた、円筒形の水槽。以前、夜会に紛れて忍び込んだアランの邸にあったものとそっくりだ。ほぼ同じものに見える。
中に何か入っているようだけれど、写真が小さくて判別できない。明るいところで見ようと動かしたとき、反対の折り返しから、何かが落ちた。
「写真?」
拾い上げて、息を呑む。
その写真を見つめていたのが、一瞬だったのか、しばらくの間だったのか分からない。
「お、いたいた」
「っ!」
はっと、師匠の声で我に返った。かごを取り、慌てて振り返ると、灰色の目が訝しげに細められる。
「何ビビってんだ、お前」
「い、いえ。別に」
「そうか?」
ええ、と頷く。師匠は首を傾げたものの、それ以上は訊かずに、私のかごの中にウイスキーを一本放り込んだ。
「おっもいんですけど」
「鍛えろ、鍛えろ」
「缶詰と野菜とドレッシングも入ってるんですよぉ? あーもう落としちゃうかもー」
ぐずぐず言っていると、舌打ちがひとつ。それから無言でかごが取り上げられた。勝った、と身軽になった手でお菓子の材料を物色して、小麦粉とシナモンパウダーを放り込む。
「何作るんだよ」
「スパイスケーキです。この間、ドーさんが手紙で教えてくれたレシピがあるので」
「甘いのか」
「ドライフルーツを入れるので、それなりに」
途端、興味をなくしたように師匠は「へえ」と流した。レジへ向かっていく背中について歩きながら、私はそっと、片手をワンピースのポケットに滑り込ませる。
慌てて押し込んだせいで折れ曲がったパンフレットと、写真の角が指先に触れた。師匠に声をかけられて、思わず隠してしまった写真。瞼の裏に刻まれたように、鮮やかに焼けついている。
(……何かの、間違いとしか)
写真に写っていたのは、緑の水槽のアップだ。
そこには、私が入っていた。胎児のように膝を丸めて目を閉じた、体つきも髪の色も見違えるはずのない、イズ・ファントムが入っていた。
スパイスケーキはオーブンの中で、順調な膨らみを見せている。漂い始めたシナモンの香りに気分よく本を読んでいると、来客を告げるベルが鳴り、中央からの配達員が手紙を持ってきた。
サインをして受け取り、依頼かな、と思いながらリビングに戻る。ちょうど、奥の部屋から師匠が起きてきた。
「師匠、これ」
「あ?」
「今届きました」
赤毛の向こうに覗く目が、まだ半分眠っている。ぼさぼさと髪をかき上げて、欠伸をひとつし、ん、と受け取った。
「コーヒー」
ペーパーナイフが封を切る音がする。それくらい自分で、と言いかけたが、肩越しに見えた封筒の中身が意外と厚かったので、重要な書類かもしれないと、黙って淹れることにした。
「依頼ですか?」
「おう。でも討伐っていうより、今回は調査みてえだな」
シナモンの香りに、熱いコーヒーの香りが混じる。カップとソーサーなんてきちんとしたものはどうでもいいから、とりあえず目覚めのためには量をよこせというタイプの人間だ。寸胴のマグカップに注いだコーヒーをテーブルに置いて、手元の書類を覗き込む。
「アラン・カーディアが脱獄した」
さらりと、師匠は言った。
「は?」
「ま、想定内なんだろ。ちっと泳がせて、逃げ込む先を割り出す算段かもな。目星はついてるから、内部の様子を探ってこいとのことだ」
ほれ、と読み終わった書類を私に回す。アランの行っていた実験は、彼一人の頭でできるようなものではない。何らかの組織が関わっているはずで、尻尾を掴みたいのは分かるが、脱獄を見逃すとは中央も思い切った手段に出たものだ。
「一度捕まえた囚人なら、二度でも三度でも捕まえられるとでも思ってるんですかね」
「さあな。七賢ってのは、長い目でみて国を護る。そのためなら何でもするのが、あいつらにとっても仕事なんだろ」
ぼやきに、思いがけず真面目な答えが返ってきた。はあ、としか返せずに、資料に目を通す。
資料にはアランの簡単な脱獄の経緯と(食事を運びに来た看守を殴って脅し、手錠を外させて逃走という実に古典的なもの)、彼が向かったとおぼしき場所の地図などが載せられていた。以前からその近隣で目撃情報があり、中央がマークしていた場所のひとつだという。
めくると、それが最後の資料だった。ん、と師匠が三つ折りの紙を差し出す。
「これが、その隠れ家だそうだ」
「え……」
「聞いたことねェ宗教だが、教会の外観からして金はある。アランみてえな貴族が他にもパトロンとして結びついてんのか、そもそもこの宗教自体が組織の隠れ蓑なのか。そのへんが探り出せれば充分だろ」
師匠の声が、水の向こうで響いているように湾曲して聞こえる。
〈神の力をすべての人に〉
見覚えのあるクロッキーの下に活字でそう記されたパンフレットは、私が先日マーケットで渡された、あのルミール教会のものだった。
春の空は雲一つなくても、どこか白く濁って見える。腕を沈めたらどこまでも入ってゆけそうな、不透明な水色の泥濘に向かい、一対の尖塔は金のオーブを眩しく掲げて聳えていた。
「ここか」
凹凸の多い、古い石畳の底から生じてきたような、石造りの教会が構えている。門はあったが鍵が開かれていて、手で簡単に開けることができた。質素な鉄の門札には〈ルミール教会〉の文字が鋳造されている。さほど広くはない庭の先に、衛兵のように尖塔を従えた三連の入り口が見えた。
来てしまった。
師匠について門をくぐりながら、私はワンピースのポケットに手を当てた。中にはあのパンフレットと写真が入っている。師匠に何と話すべきか、昨日一日考えて、結局なにも打ち明けられずにここへ来てしまった。まるで裏切りのような写真だ。あれでは、私がルミール教会に出入りしている証拠のようである。
無論、そんな覚えは一切ない。手の込んだ嫌がらせか、アランが関わっているというのなら、捕縛した私たちへの復讐のつもりか。どちらにせよあの写真は、本物であるはずがない。今日ここで調査を進めれば、はっきりすることだ。気味の悪い真似を、とポケットの上から写真を握りつぶして、私は教会に足を踏み入れた。
柱廊を静かに一周して、師匠と二人、辺りに目を配る。しんとした柱と柱の間に、私たちの足音が響いては消えた。
「……無人か?」
「人の気配が全然しませんね。まさかもう逃げたとか?」
「アランが戻ったなら、その可能性も……開いてるな」
三連の入り口を、師匠が押し開ける。中はがらんとして広く、正面の薔薇窓から注ぐ光が、並んだ椅子の間に七色の影を落としていた。
「ずいぶん立派な教会ですねえ……」
「誰もいねえが」
「これだけ広い教会が無人って、なんか不思議な感じー」
わざとらしく二人、声を張り上げて話してみるが、出てくる人はいない。神父は留守だろうか。あるいは、そんな役職の者など置いていなくて、教会の体を取った研究施設なのか。
一頻り見て歩いて、翼廊の奥へと進んだとき、柱の陰に木の階段が隠れているのを見つけた。
「師匠、二階があります」
「向こう側の通路にも同じ階段があった。上がるぞ」
頷いて、細い手すりを掴んで上っていく。
二階は一階の、南北にのびた翼廊部分の上と、広い身廊を囲む柱廊の上に跨って造られているようだった。二つの階段の先は繋がっておらず、それぞれに独立している。突き当りには木の扉をつけた小窓があって、開けるとちょうど薔薇窓と同じ高さから、階下の祭壇が見下ろせるようになっていた。向かい側の突き当りにも、同じものがあるようだ。
(まぶし……)
薔薇窓の芯が、差し込んだ光に煌めく。はぜた光が目の奥に広がったとき、ふいに後ろでガタンと物音がした。
師匠がどこかのドアでも開けたのかと振り返って、私は同じように、後ろを向いている師匠の背中にぶつかった。うわ、と声を上げて、出ていこうとした私を無言の腕が遮る。
ガタン、とまたひとつ、大きな足音が床を鳴らした。
「何者だ?」
師匠が低く、強張った声で問う。
「いやだな、分からないのかい?」
病人のようにがらがらと嗄れた、妙な声が答えた。聞いているこちらの喉が痛むような、ひどいしゃがれ声だ。でも、その声にはどこか、思い当たる華があった。
そうっと、師匠の脇に出て声の主に目を凝らす。
「魔法使いって、薄情だね。戦った相手の顔さえ、忘れちゃうんだから」
ガタン、と巨大な足が床を踏みしめた。それは大樹が歩いてくるような、太くて、黒ずんで、膝も足首もない、瘤だらけの足だった。
師匠が「お前、」と息を呑む。はっとして、私もその全身を見上げた。
粘土をこねて作った人形のような歪な体は、優に五メートルはあるかと見える。首から上は高い天井の暗がりに吸い込まれていて、目を凝らしても鮮明に見ることはできない。それでも、まさか、という思いで見つめていると、大男は顔に巻いていた包帯を外した。
淡い金の髪が、暗がりに散らばる。
若草色の巨大な目が、継ぎ接ぎだらけの顔の中心で、私と師匠を交互に見て眇められた。
「アラン・カーディア……!?」
まさか、と胸の内で鳴り響いていた名前を、師匠が口にした。血の気の曇った、鈍色の大きな唇が、満足そうに笑む。
色も形も粗雑に縫い合わされた醜悪な顔は、それでもまだ華やかに笑う、夜会の貴族の面影を残していた。アランだ。変わり果てた脱獄囚に、私たちは呆然として、彼を見上げた。
「ひどい姿だろう? 色々、失敗してしまってね。おかげであの人はもう、僕を番犬くらいにしか使いたがらない」
「失敗って何だ。お前まさか、自分を錬金の材料に……」
「僕みたいな元は普通の人間が、より良い個体になるためには、それしかなかったからね。まあ、結果として、見た目も人間じゃなくなってしまったわけだけど――」
快活に笑って、アランは背後から何かを取り上げた。
「代償のぶん、強くはなった」
音を立てて、私たちの眼前に木の板が散らばる。歪んだ骨組みが壁を引っかいてズシンと降ろされた。それは、ねじった紙屑のように潰れ、見る影もなくなった階段だった。
「化け物かよ」
一歩、足を引いた師匠が吐き捨てる。
「そうだね」
寸分の迷いもなく、アランは頷いた。そうして振り上げた拳を、まっすぐに下ろした。
「飛べ、イズ!」
師匠が叫んで、私の肩を掴む。反射的に床を蹴った瞬間、風の魔法が私を突き飛ばし、ひしゃげた階段を飛び越えさせた。
転がるように着地して、すぐさま振り返る。
「師匠っ」
壁の一部が崩れて、砂塵に曇った突き当りのほうから「おう」と返事が聞こえた。無事だ。アランが声を頼りに、もう一度拳を振り下ろそうとする。
その首筋を、氷の矢が一閃した。
「おっと」
ぐらりとアランの巨体が傾く。一瞬、やったのかと思った。しかし彼は足と同じ、瘤の出た手で首筋をさすって、かゆいものでも触ったみたいに身震いをした。砂塵の中から師匠が顔を出す。アランを見上げて、は、と呆気に取られた笑いを漏らした。
「さすがグングニル。擦り傷ができたよ」
「お世辞はやめろよ。気色悪ィ」
ドン、と何もない場所に炎が爆発する。師匠の翳した手の先で、続けざまに弾ける。アランの体は爆発にまといつかれて、平手で打たれたように揺れた。でも、その火はすぐに、彼の手のひらで握り潰される。
「鐘楼魚の鱗、地クジラの血液、五大竜の臓腑……ははっ、頑丈になるとは聞いてたけど、まさかここまでとは」
「俺はその錬金をした奴に用があるんだが、どこで会える?」
「番犬が主人の居場所を、素直に教えるわけがないだろ?」
まるで空き箱でも拾い上げるように、アランは持ち上げた階段を放り投げる。師匠がこちら側へ飛び退り、コートの下から引き抜いた銃で、続けざまにそれを撃った。
超高温の炎が、階段を灰に変える。アランが私たちを薙ぎ払うように腕を振るった。とっさに魔法を放ったが、鋼のような皮膚に当たって散り散りになってしまう。
「イズ!」
足を掴まれそうになって、私はアランではなく、床に魔法をぶつけて転がって逃れた。師匠の雷撃がアランを頭の先から直撃する。でも、効果は一瞬だ。
アランは壁にかかっていた燭台をもぎ取り、巨大な目で右に師匠を、左に私を捉えてめちゃくちゃに腕を振り回した。ズシン、ズシン、という彼の規格外の足音と共に、子供のような箍の外れた笑い声が響く。砂塵の中で、魔法を放つ余裕もなく必死にその腕を逃れながら、私は若草色の目が狂気に爛々と輝いているのを見た。
正気ではない。話はできるが、彼はもう、精神の部分も人間ではなくなりかけている。
ガゥン、と銃声が響いた。そしてまたアランの笑い声がする。砂煙の彼方で師匠の影が赤く黒くちらついているのが見えるが、狭い廊下をアランに塞がれて、合流ができない。ぐ、と攻撃が掠めたのか、師匠の呻き声が聞こえた。
「この……っ!」
アランの注意を引いて師匠に隙を作ろうと、氷塊の魔法を放つ。でも師匠の魔法でさえ擦り傷程度の体には、私の魔法はもはや、ぶつかった感触すら与えられていないようだった。それでも時々、気まぐれに振り下ろされる拳が私を狙う。不利だ。アイギスは、魔法は防げても物理には敵わない。私はアランに対して、逃げることしかできない。