ようこそ紡道具店へ
例えば、綿の実、時計の針。粉末水晶、ねじれた針金。
誰が欲しがるの? と思うようなものが、思いがけない魔法に変わる。私がそんな時代遅れの魔法に心を掴まれたのは、五歳のとき。両親の転勤で、魔女だったおばあちゃんと一緒に暮らすようになったことがきっかけだった。
キーッ、と耳を裂くような車輪の音が街路に響く。思わず片耳を押さえて、片手で抱えていた紙袋をぎゅっと掴んだ。
〈紡道具店〉――持ち手ひとつない、口をシールで留めたシンプルな茶色い紙袋の外側に、青いスタンプでおされた店名が抱きつぶされて歪んだ。幸い、つぶれそうなものは入っていないから良かったけれど。どうしたっていうの、と去っていった自転車を見送って、急ブレーキの音がした辺りを振り返る。
「あ……っ」
黒い猫が一匹、広い街路をよろめきながらこちらへ渡ってくるのが見えた。今の自転車とぶつかったのだ。後ろ足はしっかりしているが、前足のリズムがおかしい。駆け寄って、銀杏の樹の下に座った黒猫が逃げないのを確認し、私は覗き込むように向かいへしゃがんだ。
「こんにちは。怪我したの?」
ぴくりと三角の耳が動く。顎の細い、神経質そうな顔がこちらを見上げ、金色の目に私を捉えた。
検分するような眼差しに、そっとお辞儀をして、もう一歩近づいてみる。体が黒いので分かりにくいが、右の前足に怪我をしているのが見えた。ぶつかったときに擦ったのだろう。うっすらと血が滲んでいる。
「大丈夫? いい子だから、少し動かないで……」
野生の動物は、弱っているところを長く見せてくれないことが多いけれど。驚かないで、怖がらないで、と念じる思いで言いながら紙袋を下ろせば、金色の目はまるで、言葉が通じているようにじっと私を見据えたまま、猫はその場を動こうとはせず長い尻尾を揺らした。
がさがさと鳴る紙袋に手を差し入れて、私はいくつかの道具を取り出す。
「粉末水晶と、ヤドリギの枝と……これも買っておいてよかったわ。月下の撚糸なんて、なかなか使わないと思ったけど」
直感に従って買い物をするのも、たまには役に立つものだ。これがなかったら何もできなかった。きっと神様が、このために買いなさいと囁きかけたのだ。
まだ瑞々しい葉をつけたヤドリギのひと枝。その切り口に、蚕の糸のような光沢を放つ、淡い金色の糸を巻きつける。少し膨らみが出るくらいに巻いて、はさみがなかったので先を噛み切って結んだ。これも、おばあちゃんが昔やっていたことの真似だ。小さな八重歯で糸を切って、何もないと思ったときでも、道具が揃っているなら魔法を使うのを諦めてはだめよと笑っていた。魔女や魔法使いにとって、この世界に使えないものなど何もない。自分の体だってそうよ、と。
糸を巻きつけたヤドリギを手のひらにのせ、私は片手で瓶のふたを開けて、粉末水晶を傾けた。さらさらと光る、砂のような細かい粉が、糸とヤドリギの繋ぎ目に降りかかっていく。
まるで太陽が目をとめたように、手のひらの上が目映く輝いた瞬間、三つの道具は光を放ちながら溶けあってひとつになった。
瑞々しい緑の葉も、艶のある糸も、透明な粉末も。すべてが持っている力を解放しあって、一枚の布という、まったく新しいものに生まれ変わった。
「よかった、成功だわ!」
ほっとして、思わず笑みがこぼれる。大きな声を上げてしまったかと焦ったが、黒猫は逃げることなく、私と手のひらのガーゼを見比べていた。
「浄化のガーゼよ。これを巻いていれば、すぐに治るからね。治ったら自然に外れるから、心配しないで」
なんて、言っても分からないかもしれないけれど。でも、怪我をした右手を取っても落ち着いた様子で座っているのを見ていると、この猫には本当に、私の言っていることが伝わっているのかもしれないと思った。
締めつけすぎないように、でも取れないように、力加減に気をつけて患部にガーゼを巻いていく。これでよし、と結び目を作って手を離すと、黒猫はさっと立ち上がって、私の足元にやってきた。
「ああ、それ?」
鼻先で、茶色い紙袋を嗅ぐようにつつく。
「紡道具店っていうの。魔法の道具を扱うお店なのよ、何でも揃うわ」
撚糸の残りを巻き直しながら、私は猫を相手に話しかけた。
「私ね、このお店で売っているような、道具を使った魔法が大好きなの。学校ではみんな、もうそんなの不便で古いって、マジックカプセルの時代だって言うんだけど……」
木製の糸巻きは、手の中で心地よく滑る。マジックカプセルなら、この糸巻きひとつ分の大きさで、二十個か三十個の魔法を持ち歩ける。
「でも、好きなものは好きなんだから、仕方ないわよね」
確かに、便利だけれど。私は何度も心の中で出してきたのと同じ結論を出して、金色の目に向かって、同意を求めるように笑った。私の憧れた魔法は、時代の最先端をゆく魔法ではなくて、今このときにも色褪せていくモノクロ写真のような魔法だ。でも、私にはその古臭い手順や細々と散らかる道具の数々が、どんな新しいものよりも、鮮やかに煌いて見える。
黒猫はそんな私を、じっと見上げていた。
「紡道具店は、私にとって宝箱みたいな場所よ。ちょっと高いし、魔法人形が店番してばかりで、未だに店主さんの顔って見たこともないけど」
開いているのに閉まっている店だとか、店主はとっくに死んだんじゃないかとか、不躾だとか、廃墟みたいだとか。商店街の片隅に建つ紡道具店への、巷の言い様は散々で、それらはすべてごもっともな意見だとも思う。それでも、紡道具店も、魔法のやり方と同じ。誰がなんと言おうと、私は、好きなものは好きなのだ。
「歩けるようになったみたいね。お喋りできて楽しかった」
袋の口をシールで留め直して、よいしょ、と抱える。私が立ち上がると、黒猫も一瞥して歩き出した。その背中が街路をまっすぐに遠ざかっていって、曲がり角で下り坂に消えるのを見送り、私もまた商店街を歩き出した。
風に吹かれる銀杏の葉の中に、所々、黄色く色づきかけたものが混じっている。秋の試験課題には、何の魔法を持っていこう。そろそろ決めなければならない時期だ。
数日後、私はまた、学校帰りに紡道具店へ立ち寄った。商店街の石畳にローファーを鳴らしてひたすらまっすぐ進み、この先は住宅地に繋がる下り坂しかない、という、広い街路の一番端の角に、紡道具店はある。
ちょうど、あの黒猫が曲がっていった角だ。そろそろ怪我は治るころかな、と考えながら、私は緑青の滲んだ重たいドアノブに手をかけた。ゴトン、と閂を外すみたいな重々しい音を立てて回るノブだ。葡萄の葉と蛇、鳩や懐中時計のレリーフが、ドアを飛び越えてその外側まで覆いつくしていて、開かずの扉のような趣を醸しているが、れっきとした営業時間である。
「こんにちはー……」
魔法人形の「イラッシャイマセ」という声を想像して、一段だけある階段を上り、店内に足を踏み入れる。中は六角形の四面が棚、一面が入り口といった具合で、とにかく品物が雑然と溢れているが、意外と大きな照明が点けられている。黒い鉄の、つる草のような腕の一本ずつに丸い明かりを掲げ、照明は今日もその茨のような影を天井に伸ばしていた。
いつも通りね、と思ってから、ふと魔法人形の声がしないことに気づいて顔を上げる。私は静かに息をのんだ。
(……死んでるわけじゃなかったのね)
店内奥のカウンターに、黒髪の男が座っていた。こちらを見るわけでもなく、頬杖をついて、膝とカウンターのあいだに立てかけた本を捲っている。灰色がかった青いシェードつきの読書ランプの奥に、いつもの魔法人形は据えられていた。椅子を店主に譲ったからか、今日は目を閉じていて、一言も発さない。眠っているようだ。
私はちらと店主を覗き見ながら、棚の前を行ったり来たりして、目的の品物を集めた。黒い、ベロアのような艶を放つ頭だけが、時折ページを追いかけて動く。店主はそれ以外に何も言わず、私が品物に触っても無反応なので、今日がふいの休業などではないことは確信が持てた。
それなら構わないのだ。私は両腕に品物を抱えて、カウンターに向かい、ひとつずつ下ろした。
愛想のない金色の目が、さらりとした黒髪のあいだから覗く。
店主の手が本を閉じて、カウンターの下から紙袋を取り出した。無造作な手つきで、淡々と品物を詰め込んでいく。
「泡入りビー玉がひと瓶、不揃いボタンひと箱、乾燥林檎三つ。三七二○円だ」
相変わらず、学生のお小遣いでは結構厳しい価格設定だ。貴重なものが多いから、仕方ない、と財布からぴったり出して渡す。
「……毎度」
シールをとめた紙袋がカウンターに置かれた。それと一緒に、もうひとつ、小さな袋が押し出すように並べられた。
(あれ?)
その右手に、見覚えのある白いガーゼが巻かれているのを見て、まばたきをする。
小さな袋の口からは、ヤドリギの枝が覗いていた。
〈ようこそ紡道具店へ/終〉