Fool&Fool

 好きだよ、と言ったとき、それがはたして本当のことなのかどうか、自分でもよく分からなかった。ただ、そう言ったら彼女がどんな顔をして俺を見るのか、興味があった。それは確かだった。
 酷い話だ、と思うなら、そいつは人間なのだろう。
 分かる、というなら俺と同じ、人間を知った悪魔である。
 親族に囲まれて生まれ、道徳のもとで育つ人間と違って、悪魔は愛を学ばない。同胞はひとりでに闇から生まれ、誰に育てられることもなく己の生き方を知っている。人間界へ降りれば、そこは常に新鮮なフルコースの並ぶ晩餐の席だ。人間の魂が、生きていく糧になる。愛を知るのは、不都合な話なのだ。食料にいちいち命の煌きを見出していては、狩りを躊躇う結果にしかならない。
 愛を知らない生き物だから、悪魔は誰にでも無関心だ。
 興味がある、という感情は俺たちにとって、ひどく恐ろしい。無関心という心の凪ぎを乱す、嵐が起こり始めていると認めるようなものだ。
「あれ、久しぶりだな」
 街角に立って早十分。遅いな、と腕時計を眺めたとき、向かいの信号を渡ってきた男が声をかけた。顔を上げて、あれえ、と懐かしさに唇が弧を描く。
「何やってんの、そんな人間みたいなカッコして」
「こっちの台詞だろ。真っ黒じゃなかったら、見逃すところだったぜ」
 いかにも気安いファストファッションと、明るい茶髪に身を包み、足を止めた男は「相変わらずだな」と言いたげに俺を眺める。信号が変わり、車が通り始めた。行き交う人々は、俺たちの会話など気にも留めずに、足早に歩いていく。
「いつ以来だっけな? 最後に会ったのは、あっちだったから」
「一昨年の秋くらいでしょ。俺、その辺からずっとこっちに居っぱなしだからね」
「あー、そうだそうだ、それくらいだよ。たまには帰ってくりゃいいのに」
「人間界に目が慣れちゃうと、あっち薄暗いんだよね」
「飯もないしな」
「そ。なぁんもない。たまにあの暇さを思い出しに行きたくもなるけど」
 分かるぜ、と頷きながら、彼はふと漂った甘い香りに惹かれるように、首を巡らせた。見れば春物のコートから細い脚を覗かせた女の子が一人、イヤホンをさして歩いていく。
 どこにでもいそうな、なんてこともない可愛い女の子。でもその匂いは、香水の甘さとは全く違う。人間にはどんなに鼻をきかせても嗅ぎ分けられない、不幸の蜜を溜め込んだ、可哀想な魂の匂い。
 一瞬、彼は探るように俺を見た。
「じゃ、な」
 そうして人の好さげな笑みを残し、会話もそこそこに人混みの中へと消えていく。俺にあの女の子を追いかける意思のないことを、確かめたのだろう。悪魔にも友人はいる。それは人間の思う友愛とはまた別のものかもしれないが、例えば俺たちは、目の前にやってきたひとつの魂を、飢えているほうに譲り合える。そういう間柄である。
 遠くで、彼の背中が女の子を呼び止めた。安アパートの中では下の上、六畳間に黒いテーブルでも置いて、コンビニ弁当と少しの自炊で一人暮らしをしていそうな、どこにでもいる若い男に見える。あんなにまでして人間に紛れるなんて、よほど腹が減っているんだな、と思った。魂を狩るのは、結構、楽じゃない。人間は寿命や怪我で運命的に死ぬとき以外、少なからず好意を抱いていないと、悪魔に魂を掴ませてはくれないのだ。
 前に、彼と会ったころ。俺も、人間界と向こうの世界とを行き来しながら、今の彼と同じようなことをよくやっていた。同じ場所にばかりとどまって、長らく食事をおろそかに、十円玉だの百円玉だのといったお菓子ばかりで済ませていたせいで、そろそろ空腹が限界を訴えていたからだ。半年くらい、この街を離れて、あちこちへ出歩いては不幸に潰されかかっている魂を探し求めた。
 そうして、短ければ一夜、長いものではひと月くらいかけて、彼らの求めている疑似的な幸せを提供することで、引き換えに魂を喰らった。彼らが求めているのは、いつも愛と名のつく何かばかりだ。愛情、友愛、本当の愛。狩りをする動物が荒野に身を隠す術を生まれながらに知っているように、悪魔は、愛の真似事のしかたを生まれながらに知っている。
 そこに、後で顔や名前を思い返す興味など、微塵もなくても。
 信号が何度目かの青になる。ピッポ、パッポ、と間の抜けた音に合わせて、歩き出した群衆の中に、腕時計を確かめながらこちらへ向かってくるベージュのコートが見えた。
(……あー、あれ転ぶね)
 ぽん、と玩具のようなぶどう味の風船ガムをひとつ、口に放り込む。人波につっかえて、すいませんと頭を下げた、その頭に別の人のリュックサックが当たって、彼女は盛大によろけた。人が一斉に開けて、お化粧で白くなった頬を真っ赤にしながら、すいませんと謝って逃げるように渡ってくる。
 相変わらず、ツイていない。もっとも、最高に可哀想なのは。
「おっそい」
「ごめんって! 洗面所の蛇口がもげたんだから、カフェで待っててってメールしたじゃない」
「見てなかった」
「嘘つき。携帯くらいもう慣れたでしょ」
 数々の不運にまみれながらも、一生懸命会いに来ている、その相手が悪魔なんかだということだけれど。叶恵。大体ね、彼氏っていうのはこういうとき心配して来てくれるもので、と文句を言い始めた頬を、片手で掴む。
 何、とこちらを見上げた視線の上に身を屈めると、はっと瞠られた焦げ茶色の目が、慌てて閉じた。
 春の新色をまとったその唇に、唇を近づけ、ふっと息を吹き込む。
「ぶあっ!?」
 薄いぶどう色の風船が、彼女の鼻に当たって弾けた。
「な、なん、何これガム……っ!?」
「あっはっは、災難だねぇ」
「今のは人災以外の何でもないわよ! ちょ、きったな……すごいベタベタするんだけどっ」
「あー、面白かった。今の油断した顔、一生思い出せる気がする」
「頭殴ってでも忘れさせたい」
 冗談じゃない、本当に信じられない、貴方ってバカなの、と思いつく限りの言葉で俺を罵りながら、彼女は必死に鼻の頭を拭って、言葉が尽きると涙目になってキッと睨んだ。胸の奥がくすぐられたように、湧いてきた笑いが、我知らずこぼれる。
「鼻の頭、ファンデーションはげてる」
「誰のせいよ」
「可愛いなあと思って」
「貴方のそういうところ、本当に歪んでると思うわ。ムカつくの通り越して、ちょっと心配になってきた」
「そう?」
「大体ね、出会い頭になんでこんなことするのよ」
 ポケットに入れようとした手を、引っ張り出される。はいはい仰せのままに、と指を絡めて、あっち、と不機嫌な声で示されるままにショッピングモールへ足を向けた。
「どんな顔すんのかなって、興味があって」
「意味が分からないわよ。もうちょっとましな言い訳ないの」
「ないね」
 笑って返せば、呆れたように見上げてくる。
 今のは嘘じゃないんだけど。思った瞬間、信号が変わったから、その言葉はまだしまっておくことにした。
「早く! セールなんだから、急がなきゃ売り切れちゃう」
「あんたが遅れたんじゃん」
 繋いだ手を引いて、大股に、眩むような甘い匂いをさせて歩く。冗談みたいに長い長い晩餐は、いつかこの手が真っ白な、一握の灰になる日まで延々と続くのだろう。
(ほんと、冗談じゃないね)
 生きにくくて、反吐が出る。
 八つ当たりのつもりで骨を折るように力を込めたら、握り返す力がかすかに強くなった。そういうのじゃなかったんだけど、と思いながらも、黙って歩く。
 面倒で、儘ならなくて、愛なんてつくづくくそ食らえだ。そっぽを向いた彼女も多分、同じことを思っている。



Fool&Fool/終

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