08 バナナシフォン


 テーブルに置かれたランプは、水の一滴のように丸い。透明な青いガラスの内側にいくつもの切り込みの細工がされていて、光を灯すと、そのひとつひとつが結晶のように青く輝く。それは菜園の隅に咲いた向日葵の花の黄色と、互いに鮮やかな主張をしあって、夏の終わりを彩っていた。
 近頃、夜は少し涼しい。七分袖の膨らんだシャツを着て、サスペンダーつきのプリーツスカートを穿いた私は、いつのまにか消えた真夏の気配を追うように、まだ髪を高く結んでいる。
 首の後ろが汗ばんで、夏、汗疹ができたのだ。そういえば毎年、ママがこうしてくれていたのを思い出して、一人でどうにか結べるように練習してみた。大概のことは、上手になるころには終わるものだ。豆の莢むき、ピアノの練習曲、靴のベルト。ポニーテールだってそう。
 さく、と横になったシフォンケーキにフォークを通しながらしみじみ思っていると、向かいで伯爵が本のページをめくった。
「それ、なあに?」
 挿絵を見て、思わず問いかけた私に、うつむいていたシルクハットが顔を上げる。バ、レ、エ。さらさらと走り書かれる文字が、紙の上に青いインクでそう綴った。
 バレエ。これがバレエなのか。名前だけは聞いたことがあったそれを、私はじっと見つめる。女の子が一人、髪をお団子にして立っている。周りは暗くて、手には厚いカーテンのようなものを掴んでいて、向こうが明るい。どうやら舞台袖のようだ。
 彼女の着ている白い、たんぽぽのようなドレスや、細い手首を一周しているレース、丸い靴の踵についたリボン。何もかもが私を釘づけにした。伯爵はまたさらさらと、今度は私に向けてではなく、仕事でペンを走らせる。
 伯爵は最近、絵本の翻訳を始めたのだ。でも、今までは大人のための小説ばかり訳していたから、勝手が違って少し苦戦しているらしい。仕事は書斎で済ませて、リビングには一切持ち込まなかったのに、この数日は夕食のあとを仕事の時間に当てている。
 デザートを食べながら、私は伯爵が青いペンで、物語を少しずつほどいていくのを眺めている。さながらそのペン先は糸のようだ。伯爵が文字を書くたびに、物語が織りなされ、異国の、記号のような言葉だった挿絵の下が、私にも分かる言葉になって生まれてくる。
 少女が発表会に臨もうとしているシーンを逆さまに読み耽りながら、私はまだ温かい、バナナの香りのするシフォンケーキを頬張った。
 ふと、伯爵が私の目線を追っていたことに気づく。
「どうしたの?」
 何でもない、と彼は首を振った。私は伯爵が次の行を訳してくれるのを待つあいだ、また挿絵の女の子に目を向けた。
 バレエというものを、実際に見たことはない。でも、どんなものなのかはパパから聞いたことがあるから、少しは想像がつく。
 このたんぽぽのスカートが、ぴょんと跳ねるところ、ジャンプに合わせて爪先が三日月のように伸びるところ。舞台に飛び出した彼女を光が照らすところ、その光が彼女の手首のレースをきらきら瞬かせるところ。
(……いいな)
 想像したら、ちょっとうらやましく思った。
 でも、バレエは今、あまり有名な習い事ではない。今から百年か二百年くらい前には、すぐ近くの国で最盛期を迎えていたらしいけれど、文化は上手く生き続けずに衰退してしまったとパパが言っていた。近くに先生がいたら、お前にも習わせたかったね、と。昔は王様も踊ったというその踊りを、私はパパの語る冒険小説の、主人公に恋をする女の人や、道中に巡り合う興行のワンシーンで知って、脳裏に思い描いた。
(もしも私がこの子だったら、どんなふうに踊るかな)
 伯爵がページを訳し終える。次の挿絵が出てくるのを待ちながら、ふとそんなことを考えて、風に膨らむスカートを想像して、笑った。
 夜は静かに更けていく。



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