07 桃のタルト


 夏風邪を引いた。それほど熱が高くなったり、咳がひどくなったりしたわけではないけれど、何となく食欲のない日が続くだけだったせいで、気づくのが遅くなった。
 朝一番で大きなくしゃみが出て、そこから堰を切ったように止まらなくなって、鼻の下が真っ赤になった私を見て、伯爵がシルクハットを落とすほどびっくりしてお医者さんを呼んだ。
 診断は、ちょっとした風邪。二、三日寝ていれば良くなるだろうと言われて、薬を飲んでじっとしていたけれど、私の風邪は思ったよりもしぶとくて、一週間が経ってもぐずぐずと調子が優れないままだった。
 ベンバートへついていくのも、今月はおあずけだ。伯爵は私を一人にするのが心配だったのか、お医者さんを呼んで数時間のあいだ付かせておいて、仕事だけ済ませて早々と戻ってきた。コーヒーゼリーもまた来月。街へ行ったとき、伯爵が買ってくれる紺色の紙に包まれたチョコレートも、また来月。
 外に行くのも我慢して、退屈を堪えてごろごろしていたかいがあったのか、そろそろ二週間が経とうという今日、私はやっと回復した。長い二週間だった。映画を観るのもおあずけで、楽しいのは時々見る夢くらいだった。
 その夢の中で、私が食べたものを、元気になったお祝いに伯爵が作ってくれるという。私は淡い黄色の、パフスリーブのブラウスを着て、腰で大きなリボンを結ぶラベンダー色のワンピースを重ねた。おしゃれをするのも久しぶりだ。素足に白いサンダルを履いて、鏡の前に立つ。何かが足りない気がして白いカチューシャをしたら、これだ、という気がして、急いでドアを開けた。
 伯爵はもう、庭に出ている。さっき窓から、下を歩いていくのを見たのだ。紅茶とテーブルの準備をしているのだろう。私は階段を下りて、お邸のドアを両手で押し開けた。途端、眩しさに目を瞑る。外はこんなに明るいものだったのか。
 夏の匂いの青さと瑞々しさに引き寄せられて、お邸を一周して伯爵のもとへ行くことにした。二週間ぶりに踏みしめた土は、強い日差しに明るく乾いている。薔薇の花が最盛期を終えてから、ローズマリーが強く匂い立つようになった。サンダルの先の素足を光が駆け抜けていく。古い木の柵を押し開けるとき、足首にセージが絡んだ。
『Je t’aime pour toujours.』
「おはよう。久しぶりね」
『Je t’aime pour toujours,Charlotte.』
「相変わらず、それしか喋らないの。私に分かる言葉にしてくれたらいいのに」
 ざわざわ、くすくす。透明な手と歌うような声も、どこか懐かしい。私元気になったのよ、と見せびらかすように裾をひるがえして歩けば、パフスリーブがつつかれ、風もないのに髪が跳ねる。
 ばいばい、と手を振ると、かすかに手が触れ合った気がした。
 彼らは、水車小屋の横に植えられたセージより東へはやってこない。夏の日差しが迷子を見つけたように私を包む。眩しくくるんで、白日の下に抱き上げる。たった今まで喋っていた相手など、幻だったかのように。
「伯爵」
 青い葉を茂らせているつる薔薇の一群の先に、テーブルに腰かけて本を読んでいる伯爵の姿があった。私が行くと、立ち上がって椅子を引いてくれるから、スカートをつまんでお辞儀をして腰かける。
 今日はまるで、お菓子のパッケージみたいな、赤と白のストライプのジャケット姿だ。シルクハットはお皿を山のように重ねてリボンをかけたデザインで、つばの上にフォークとナイフが掲げられている。
「すごいわ、パーティーみたい」
 口にして、そうかと気づいた。伯爵が私を見て、ちょっとおどけてみせる。これは、パーティーなのだ。今日は私の、風邪が治った記念日。
 白手袋を嵌めた手が、テーブルの中央にあったドームカバーを外す。中には私が夢に見て、寝ぼけまなこで伯爵に話した、可愛いタルトが二つ並んでいた。
 砕いたビスケットと、バニラの粒粒が覗くカスタードクリームを重ねて作った半球の上に、薄切りにした桃が、逆さになった花のように時計回りに重なって並んでいる。タルトと桃のあいだにはミントの葉がいくつか飾られていて、それがスカートの縁取りの、フリルのように瑞々しい。
 夢の中で、私はその桃のタルトをドレスにして、舞踏会へ行った。
 今、タルトの上にはビスケットで作られた、丸い、小さな頭がちょこんと乗っている。ひとつは長い髪を垂らしている。もうひとつは、ちょっと焦げた帽子を被っている。
「夢の中ではね、一人でお城に行ったのよ。でも、これなら大広間を駆け回らなくても、伯爵が踊ってくれるから大丈夫ね」
 こつん、とお皿とお皿を近づけて、挨拶。いたずらっぽく笑ってみせると、伯爵も向こうからお皿を押してくれて、小さなビスケットの頭がテーブルの中心で向かい合った。
 甘い、爽やかな桃の香りとミントの香りが弾ける。艶めくドレスに銀のフォークを翳して、私たちはダンスの代わりに「いただきます」をした。



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